Kulikovo
先々にあるかも知れないお話
「あぁ、クリコヴォか」
そう小さく呟いた俺の声を聞き流すことなく隣の黒髪少女が聞き返す。
「クリコーヴォ* とは何のことですか?」
何時ものように抑えきれない好奇心と、求めた説明を聞かされても、自分はきちんと理解できるのだろうかという不安の綯い交ざる黒い瞳が正面から俺の目を見据えた。
「何か似たような状況があったような気がしてね。数百年前に俺の世界であった戦いとよく似ていたから」
小声とはいえここは軍議の場なので私語はどうなのかとも思ったが、周りがややざわついているので問題ないと判断して会話を続けた。俺の戦争じゃないしね。
「その時はどうなったのでしょうか?」
周囲に頓着せず、自身の好奇心を優先する何時も通りの反応をみせる。一応小声なのは俺に合わせたのか、その程度の配慮はできるのか。
「数倍の敵を相手に河を防衛線に利用せず、河を渡ったところに布陣して橋を落とし、不退転の決意を全軍に示した。所謂、背水の陣を敷いて勝ったよ」
少女は目を大きく開けて驚く。
「勝ったんですか!」
ややざわついていた部屋が静かになり、視線がこちらに集中する。
そのおすまし顔は、俺を推し出す事に成功したしたり顔を誤魔化しているのかな、粗相をしても俺ならなんとかしてくれるという信頼の顔なのかな……
他人のふりじゃないならこっちを見てくれてもいいんだよ?
「おい! おまえ! おまえ、日本人だろ!」
禿頭でガタイのいい、如何にも歴戦の野戦指揮官という風体の中年男が荒々しい足音を響かせて詰め寄ってくる。
「おまえら日本人は何時も同じだ。戦の事なんか何も分からんのに、指揮官を殺せだの、補給部隊を襲えだの、どいつもこいつも同じことしか言わねい。その考えの浅さを親切に指摘してやると露骨に不満顔を向けてきやがる。俺はもう日本人の相手をしたくない。さっさとここから出て行け!」
「まあまあ、私もそういう話を繰り返し聞かされているから、そんな話だったら私が外に連れ出す。だから、ちょっと待ってくれ」
これといった特徴のない初老男性が割り込んできた。パーティーに出ても、誰もそこに居たことに気づいてもらえなさそうな風貌を俺に向ける。
「君、俺の世界の歴史に似た状況があると言っていたね、それはどれ程似ているのかな?」
このおっさん。こっちの話を聞いていたのか。やっぱり日本人というだけで悪目立ちは避けられないか……
黒髪黒目はこの世界でも珍しくないが、白人種と黒人種と黄色人種の違いは骨を見れば分かるんだったけ、ギデオン先生** は脛骨と大腿骨の比で人種が分かると言ってたな。
平たく言えば、黄色人種は足の骨がこいつらより短いということだ。
「え~と、似ていると言ってもですね、なんとなくそう思ったという程度ですよ。そもそも史料がほとんどない戦いなので、守備側の戦力が百万人で侵攻軍が大地を埋め尽くすほどの多さで全数が分からない大軍だったという話も伝わっていれば、守備側が数千人で侵攻軍が二万人というものまで区々です。まぁ当時の動員可能戦力から類推すれば、守備側が二万人前後、侵攻軍が五万人程度だったのではないかと」
やれやれという空気が漂いはじめた。奥の方から会議の続行を促す声も聞こえはじめる。
目の前の男が話を続けよと目線で催促する。
「貴族・職業軍人の騎馬兵と郷土防衛で士気の高い民兵主体の歩兵の守備側に対して、遊牧民主体の騎馬兵と傭兵、戦意の低い同盟軍歩兵で構成された侵攻軍。騎馬兵の数は同数乃至は守備側が少し少ない。戦場が騎馬兵の活躍しにくい扇状地もしくは沼沢地。守備側の後背地には敵対戦力がなく侵攻側は複数勢力との戦いを継続中。侵攻側は他勢力との直近の戦いで損耗している。そんなところですね。付け加えると、騎兵同士が戦った緒戦半時間で決着がついたという話もあれば、戦いは半日続いたという話も伝わっています。六百年も前のことですから。後は、戦いの前にモンゴル……失礼言い間違えました。双方の陣から代表者が出てきて一騎討ちなんかをはじめてくれれば私の世界の歴史を再現していると言ってよいかと」
「この男の状況を俯瞰的に眺めた話を聞けば、今次の戦いもそう悲観せずともよいのではないか!」
我が意を得たりと言わんばかりに目の前の男は、意想外の大声で全体を叱りつけるように言い放つ。
一番奥の中央にいた人がこちらに歩いてきて、俺の前で立ち止まって話しかけてきた。
「君の話を聞けば勝てるのだな」
「えっ? そんなわけないでしょ」
何を言っているのだろうかこの人は。
* 外国語の片仮名表記は何が正しいかという不毛な議論を避けたのではなく、翻訳アイテムの仕様です。
** アーロン・エルキンズ『古い骨』ハヤカワ・ミステリ文庫 1989