第九話 『師匠と弟子』
貫かれた程度で諦めたくなる怒りではない。傷が小さくて助かったと、黒兎は腹部から少しずつ流れ落ちていく血を眺める。一方、黒兎から見えるリタの表情には諦めが滲んでいた。彼女は拳を強く握り締めて剣を落とさないように気を付け、ゆっくりと呼吸を整えている。
「リタ?」
少し焦って声を掛けた。リタを貫いているのは一本の棘だ。リタを庇ってすべてを受けることはできなかったが、リタにとってはその一本が致命傷だったのかもしれない。真っ赤な血色の良い唇から血が流れ、リタの白い頬を裂く。それでもリタの双眸は死んでいなかった。
口を開いてリタを食おうとするヴァルトラウトを見据え、同じく口を開き息を吸い込む。
「独りだと、思ってた」
吐き出されたのは──歌だった。
この場にいる誰もが耳を疑う。戦場には今、ヴァルトラウトと黒兎、そして遅れて到着したカラマとカラマの栗毛の愛馬しかいない。誰も演奏していない中でリタが歌うのは、彼女の心を強く震わせて消えない想いがあるからだ。
「塔の中二年も。周りから人が消え、国からも人が消え、もう何もなかったの」
少しずつ声に力を込め、眼前のヴァルトラウトに訴える。ヴァルトラウトは突然歌い出したリタを警戒し、リタは歌えば歌う程に生気が蘇る。
リタは希望を歌っていた。何もかもに絶望し、命からがら森に逃げ、ノームたちに救われたこと。そこで何度も何度も命を落としたこと。それでもリタには希望があること。
水を纏った剣で棘を斬った彼女は、着地して体に刺さった棘を抜く。黒兎は我に返ったカラマが棘を斬ってくれたおかげで自由になり、難なく着地する。カラマは棘が複数貫通していても普通に動く黒兎に驚いて言葉を失くし、ドナトリア王国全土に届くような声量で歌うリタに目を疑った。
リタは剣の切っ先をヴァルトラウトに向けて黒兎に微笑む。黒い髪に黒い瞳。白い肌とそれに付着した赤い血と、血でさらに赤く彩られた唇が黒兎の目を奪う。
リタはこんな時でも美しい。その心からの笑顔を見て理解する。
リタの希望はリタを生き返らせた黒兎だった。
あの時黒兎が生き返らせなければ終わっていた命と革命。その道を切り開いた黒兎が共に戦場に来てくれたこともリタが自由に歌える理由の一つだ。
ヴァルトラウトは何度致命傷を与えても死なない上にミュージカルを始めたリタをいよいよ不気味に思って切っ先を避けようと再び翼を広げるが、飛び立つことはできなかった。
リタの目はそれを捉えることができなかったが、黒兎の目が翼の付け根への狙撃を捉える。
魔力を込めていなかったことが成功に繋がったのだろう。飛べずに穴の中で藻掻く彼女は怒り狂い黒い光線をドナトリア王国全土に飛ばしたが、それが誰かに当たることもなかった。
弾かれたのだ。黒兎は自分たちの目の前に出現した土の壁を呆然と眺め、馬の足音に気付いて振り返る。
黒兎に手を振っていたのは七人のノームのうちの一人で、彼を連れて来たのは逃がしたはずのしょうゆだった。
リタはノームたちが助けに来てくれたことにも気が付かない。水を纏った剣を振り上げてヴァルトラウトの額に落とす。
一瞬の静寂。
息を吸って再び歌うリタが聞きたかった音は──
「ギャァァァァァアァア!!」
──ヴァルトラウトの絶叫だった。
成程、と黒兎は思う。黒兎はリタを誤解していた。彼女は諦めていたが、勝負に勝てないと思った訳ではない。ヴァルトラウトを生かすことを諦めたのだ。
黒兎もヴァルトラウトを生かせない。黒兎もヴァルトラウトを許せない。
ノームが作った土の壁を使って跳躍し、リタを飛び越えて穴の中で醜く足掻くヴァルトラウトの額に着地する。そして間髪入れずに両手で掴んだ剣を頭部に刺した。
『黒兎!』
遠くから石井の声が聞こえてくる。
『何があっても諦めんじゃねぇぞ!』
溢れ出したのは涙だった。
最初に視界に入った軍人に戦い方を教えてくれと頼んだのは、すべてが始まった十年前。まだ悔しさも怒りも悲しみも新しいものだった当時、泣きながら訴えた相手が石井だった。
皇帝に引き取られて宮殿の禁所に住むことになった黒兎たちの様子を見に来た石井たちは、走ってきた黒兎を見て動きが止まる。
『おっちゃん! おれ、絶対あいつ倒す! だから戦い方教えてくれ!』
六歳は何もわからない子供ではなかった。恩人の敵でもあり、皇后や第二皇女の敵でもあり、両親の敵でもある。そんな女を一体誰が許せるのだろう。黒兎は聖人ではない。
『馬鹿野郎、それは俺たちの仕事だ』
苦虫を噛み潰したように答えたのが石井だった。石井は上司も部下も守るべき人間だった皇族も──そして妻も殺されている。石井も聖人ではない。彼が抱える恨みは六歳の黒兎と大差ない。
『おれも軍に入るから! せやからっ、おれをむっちゃ強くして……!』
当時の黒兎は子供だった。生き残った全員がヴァルトラウトを恨んでいることに気付けなかった。同時に石井は大人だった。感情のままに泣き叫ぶ黒兎を受け入れ、自分の本音は片鱗も見せず、黒兎の頭を雑に撫でた。
『わかった、ちょっとだけ教えてやる。ついて来れなくなったらすぐに諦めろ。で? どの武器で戦うんだ?』
石井の手は温かい。振り払いたくなかったが黒兎にとってそれは子供扱いだった。ただ、黒兎も子供である自覚はあった。自分の頭を撫でた石井の手は自分のそれよりも大きく硬い。父の手もそうだったからまた泣いてしまう。
黒兎は必死に食らい付いた。石井は一日も持たないと思っていたが、黒兎は石井の予想を裏切って何日も何ヶ月もついて来た。
負けたくない。自分に負けたらヴァルトラウトには絶対に勝てない。
気持ちで何とか食らい付いていたが、それも限界に近付いて。
『石井少佐、少しいいですか』
倒れそうになった時、黒兎と石井の数ヶ月をずっと見ていた庫田が声を掛けたのだ。狙撃手をやってみないか、と。
その頃には、黒兎が軍に入隊することを拒否する者はほとんどいなくなっていた。最後まで拒否していたのが阿倍だったな、と不意に思い出す。それも五年前の話だった。
黒兎は溢れ出した涙を止めることができない。石井と庫田が手を差し伸ばしてくれたから、阿倍が認めてくれたから──輝夜が罰してくれたから、黒兎は今ここにいる。
「おぉぉぉおぉぉぉおッ!!」
力を振り絞って剣をさらに押し込んだ。熱が黒兎の掌に集まり、放った突風がヴァルトラウトの頭部を破壊する。
ウーリが命令してくれなければ、カラマとタラが応えてくれなければ、ローラが手本を見せてくれなければ──いや、そもそもリタが戦いを決意してくれなければ、黒兎はヴァルトラウトを討伐できなかった。
力なく沈んでいくヴァルトラウトの頭部に乗ったまま空に吠える。
ドナトリア王国のことも、トレステイン王国のことも、メルヒェン大陸のことも、この世界のことさえ知らない黒兎だが、月光国に届くと信じて吠える。
両手を強く握り締め、黒い呪いが晴れた空に突き上げる。相変わらずの曇天だが、やがて雲間から天使の梯子とも言われる薄明光線が降り注ぐ。それはまるで新しいドナトリア王国を祝福しているようだった。
諦めない。諦めなければ人生は大抵何とかなる。
ドナトリア王国の革命は、希望を信じた王女と数々の奇跡に愛された傭兵の手によって、半日も経たずに終結した。
挿入歌
『Reborn』
歌唱:リタ・リープクネヒト
作詞作曲:宣誓