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第二話  『異世界追放』

 光が射さない牢屋に寝そべって、背中に冷たさを感じさせる。物理的に頭が冷えないかと思ったが、体温が奪われるだけだった。


 月皇輝夜つきがみかぐや月光国げっこうこくの皇帝だった。


 それが正しい情報ならば辻褄が合う。月光国の皇后と第二皇女が亡くなって十年、彼は一度も表舞台に姿を現さなかったのだ。二人を亡くした悲しみが癒えていないのだと民たちは考えていたし、黒兎くろともそう思っていた。

 皇帝が皇后や第二皇女と同時に命を落としたのだと誰も考えなかったのは、先程の入隊式のように皇帝の言葉が民たちの日常に届いているから。皇族はまだ生きていると信じているから、第一皇女である輝夜の誕生日は国の一番の関心事となっており──輝夜の婚姻はそれ以上の願いだった。


「生きてる?」


 視線を向ける。黒兎に声を掛けたのは、牢屋の隅に腰掛けた青年だった。服装は囚人服、と呼ぶものなのだろうか。寝巻きのような簡素な質感のそれでは多分シブヤさえ歩けない。


「亡くなってたら火葬場に連れてってほしいっすわぁ」


「そうだね。でも、元気なかったから」


 いつもの元気が出せるような状況ではない。黒兎は牢屋にいるのに妙に冷静な青年に合わせて起き上がる。年は黒兎よりも上だろう。少なくとも未成年ではなさそうだった。


「何したらこないなとこに入れられるんすか?」


 輝夜の反応を見るに、輝夜の正体を知っている人間は少ないのだろう。それ以外で宮殿の地下に捕らわれる理由がわからない。


「さぁ。何したんだろう、なんだと思う?」


「俺に聞くなや」


「君だって捕まってるじゃないか」


 青年は笑った。どこからどう見ても凶悪犯ではなさそうだった。

 ただ、青年は朗らかな表情をする割りには鍛えられた肉体を持っている。薄い布越しに見るからか余計にそれが際立っている。目の前にいる青年は只者ではない。月光国軍のそれなりの地位にいたのだろう。黒兎は彼のことを知らないが。


「俺は……俺が、悪いんです」


 先程の出来事を思い返しても、理由はそれだけだ。俯いて青年から視線を外すが、青年は黒兎から視線を逸らさない。


「ちゃんと謝った?」


 青年は、黒兎が傷付いていることを見抜いていた。自分が悪いと言っているが、法に触れるようなことをする凶悪犯ではないことは青年にも伝わっていた。


「謝りたいです」


 許されないことをした。皇族でも──軍人でさえなかった自分が知ってしまったのは月光国の機密情報だ。輝夜だって、庫田くらただって、黒兎を憎んでそうした訳ではない。何事もなければ何事もない日々を送れたのだ。


「大丈夫。許してくれるよ」


 一国を率いる者を怒らせて牢屋にいるのに、青年の声色は柔らかなものだった。子供同士の喧嘩だと思っているのだろうか。気休めで言った訳ではない表情が少し腹立たしい。


「ところでさ、君、変わったイントネーションだね。出身どこなの」


「俺は……オオサカです」


 オオサカは月光国三大都市の一つであり、西部に位置している。東のトウキョウ、西のオオサカというのはかなり有名だ。


「あぁ、あそこね。俺アオモリ出身なんだけど、西の祭りって凄いよねぇ」


「や、てことはねぶたやないですか。西よりむっちゃおもろいやん、掛け声とか」


「ラッセラー、ラッセラー?」


「ラッセー、ラッセー、ラッセーラー!」


 食い付いてくると思わなかったのだろう。元気よく返した黒兎を声に出して笑う。黒兎も少し気が楽になった──その瞬間だった。


「何してんじゃゴルラァ!」


 牢屋の外から勢いよく飛んできた棒が黒兎の後頭部に直撃する。振り返ると、月光国軍少佐の阿倍大和あべやまとが鬼の形相で肩を震わせている。


「大和のおっちゃん!」


「誰がおっちゃんだボケェ!」


 確かに阿倍は石井いしいや庫田よりも一回り若い三十代だ。それでも黒兎とは二回り程離れているが、月光国軍の中ではまだ若手だろう。


「おっちゃん頼む! 出してくれ! 姫様に会わなあかんねん!」


 柵まで這って懇願した。輝夜のことも、そして黒兎のことも知っている軍人がこの先牢屋に来てくれるかわからない。好機は逃せないのだ。


「あぁ、出してやるさ」


 溜息と共に差し出されたのは鎖で、それは青年の手足を拘束している。出してくれとは言ったが黒兎が望む解放ではないようだった。


「……ったく。お前も庫田大佐も、本当に何してんだよ」


 阿倍の言動の端々には怒りが滲んでいる。石井にも、庫田にも、そして阿倍にも、失望されるようなことをした自覚はあった。


「……響持きょうじのおっちゃんは悪ない」


 ただ、輝夜の命令で真っ先に駆け付けてきた庫田は月光国の秘密を知っているようだった。阿倍のこの反応も知っている側の人間のように見える。機密情報とはいえ石井を含めた他の古株の軍人たちもこのことを知っていたならば、黒兎は十年も彼らに騙されていたのだと思わずにはいられなかった。


「極悪だ。軍服は脱がすもんで、人間は拘束するもんだ」


「成程。想定外ってことですか」


 鍵を開けようとした阿倍の手が止まる。


「凄い驚いたんですよ。庫田大佐が苦しそうな顔で愛弟子を牢の中に突き飛ばしたから」


 前半は本音なのだろうか。青年の表情は庫田や阿倍よりも落ち着いている。出逢ってまだ数分しか経っていないが、感情の起伏が激しくない──凪という単語がよく似合っていたのに。


「お前には関係ない話だ!」


「俺のルームメイトの話です」


 青年は怒る阿倍を前にしても怯まない。長い付き合いの黒兎でさえ阿倍が怒っている時は触らぬ神に祟りなしと言って避けていたのに。青年は冷静なのではなくマイペースなのかもしれない。


「黒兎も、お前も、もう二度と会えねぇよ」


 今の阿倍は、庇えないことをした黒兎を本気で怒っていた。


「ということは俺も脱獄ですか?」


だボケェ!」


 ……呑気な青年にも本気で怒っていた。


 阿倍は遅れて到着した軍人と共に黒兎の手足に枷を付け、無抵抗の青年を乱暴に外に出す。青年は文句を言わなかったが、黒兎は「姫様に会わせてくれぇ!」と諦めずに叫び続けた。


「大丈夫」


 声量は黒兎程ではなかったが、掻き消されることもなかった。


「会えるよ」


 青年が断言する。阿倍は否定しない。黒兎の味方はもう青年しかいなかった。


「なぁ、名前は……」


 せめてそれだけでも聞いておきたい。もう二度と会えないとしても。


「俺? 俺はクドウコジロウ」


「どういう字なんですか」


「工事と藤で工藤。名前は──」


 外に出た時からずっと青年は前を向いている。いつから牢屋にいるのかは知らないが、その双眸はまだ死んでいない。


「──虎と獅子と狼」


 その名前が青年を鼓舞しているのだろうか。黒兎以上に諦めていない──いや、不安を一切感じていないが故に堂々としている姿は年不相応に頼もしい。


「それで虎獅狼。忘れないでね、兎さん」


 悪戯っぽく笑いながら放たれたその一言で確信した。青年は黒兎の顔も名前も知っている。


「──食べたら殺すで」


 開かれた扉の先で何が起こっても虎獅狼ならば大丈夫だ。自分の心配さえしていなかった黒兎も前を向く。

 中にいたのは、月色の着物を着た輝夜と老人一人、そして軍人十人だった。輝夜は金色の装飾がよく似合う。彼女の斜め後ろに立つ老人も金色の装飾を身に付けている。老人は、黒兎が知る皇帝ではなかった。


 合流した阿倍たちと合わせると軍人は十五人になるだろうか。たった二人のを相手にするだけなのに厳重だ。


「大変申し訳ございませんでした!」


 すぐさま土下座する。手は後ろで拘束されているが、それとは関係なく額はしっかりと床に減り込ませた。

 そんな黒兎を見て一瞬だけ室内がざわめく。あの黒兎が正しいイントネーションで土下座した。その言動は黒兎と付き合いが長ければ長い程に動揺するものだった。


 それは輝夜も例外ではない。部屋に入った瞬間にへらへらと笑って口だけの謝罪をしてもおかしくない男が黒兎なのだ。

 訝しげに黒兎を見下ろしたが、黒兎は動かない。輝夜がやめさせるまで続けるつもりなのだろう。だが、輝夜は黒兎が言動を正したところで結末を変える女ではなかった。


「……謝って済む問題ではない」


 声も肩も怒りに震わせ、輝夜は黒兎を睨み付ける。輝夜が黒兎に怒りをぶつけるのは今日が初めてではなかったが、怒りの中に悲しみが混じったのは今日が初めてだった。


「なんで……っ」


 黒兎が土下座していなければ殴っていた。それでも気は済まない。それ程の大罪だった。


「……傍に、いてほしかったのに」


 息が止まったのは黒兎だけではない。輝夜はこの十年、一度だって弱音らしい言葉を吐かなかった。他人に対して充分過ぎる程に厳しかったが、自分に対してはそれ以上に厳しかったのだ。黒兎が石井たちの指導について行けたのは、近くで輝夜が第一皇女として頑張っていた事実も大きい。そんな彼女が。

 やめろと言われなかったが反射で顔を上げてしまった。黒兎を見下ろす輝夜のつり目は彼女の涙で潤んでいる。


「姫様……俺のこと知ってたんですか」


 驚き過ぎてイントネーションが元に戻った。そんな小さな不敬を気にする者はいなかった。

 宮殿の禁所に住む未成年で輝夜と関わったことがない人間はいない。黒兎は確かに輝夜から「友」と呼ばれたが、輝夜が皇女として職務に励めば励む程その他大勢の一人になってしまったと思っていたのに。


「一度会ったら忘れられない──。貴様は昔からそういう男だ」


 輝夜は皇女である前に一人の少女だった。



 急かしているのだろうか。重々しく輝夜を呼んだのは六十代に見える老人だ。顔を見て思い出すことはなかったが、その声で遅れて思い出す。彼は皇帝の血縁関係にある者だ。輝夜と同じように表舞台に顔を出す時もあるが、基本は皇帝と同じように声で自分の思いを民に伝えている。


 彼が今の輝夜と月光国を支えているのだろう。輝夜は唇を噛み締めて、小枝のような棒を虎獅狼に向けた。一体何を。戸惑っている間に枝の先から黒い光線が飛び出した。


「────?!」


 それは瞬く間に虎獅狼に当たり、虎獅狼は呻く間もなく床に倒れる。


「工藤ッ!」


 なんだ今のは。見えたが反応できなかった。先程まで平常だった心臓が早鐘を打つ。


「さようなら」


 輝夜からは聞いたことがない、生命の宿らない掠れた声だった。視線を戻すと枝の先は黒兎に向けられている。


 ……先程の光線を食らったら死ぬのだろうか。虎獅狼が起き上がる気配はない。今のを見て避けられる自信もなかった。


 別れを告げられてから数秒の間があって。放たれた黒い光線に当たった黒兎も床へと体を傾ける。


 朧気に見えたのは、今生の別れを静かに嘆く輝夜姫と呼ばれた少女の泣き顔だった。





 温かいそよ風が黒兎くろとの頬を撫でる。土の匂いが鼻腔を擽って、太陽の光で目を覚ます。視界に入ったのは青空と緑色が美しい高い木で、黒兎は勢いよく起き上がった。

 ──輝夜かぐや()()()()のは覚えている。だが、問題はその後だ。その後の記憶が一切ない。


 月光国げっこうこくの宮殿にいたはずなのに、誰が黒兎を深い森の中まで運んだのだろう。

 思考を巡らせていると、着ている衣服が軍服ではなく虎獅狼こじろうと揃いの囚人服になっていることに気付く。


「せや! 工藤くどうは?!」


 辺りを見回した。すると、数メートル離れた先に虎獅狼が倒れているのが見えた。


「工藤ッ!」


 良かった。会えた。自分は一人ではない。

 駆け寄って虎獅狼を数秒間揺さぶったが、彼はなんの反応も示さなかった。


「工藤──って、なんでこないなもん持ってんねん」


 黒兎が目を留めたのは、虎獅狼の上半身に紐できつく結び付けられた刀だった。月光国軍にいた時に虎獅狼が使っていた刀なのだろうか。随分と使い込まれている。


「まぁ、今はどうでもええか。大丈夫、息はしとる。まだ死んでへん、せやろ工藤!」


 こんな森の奥で死なせない。虎獅狼を肩に担いで今度は注意深く辺りを見回す。森の外に出られそうにはなかったが、かなり奥に人が立っていた。


「人や! 良かった、行くで工藤!」


 躊躇わずに駆け出す。木の根が足元の邪魔をするが、黒兎の障害にはならなかった。


「すんませーん! 助けてくださーい! おーい! すんま……」


 速度を徐々に落としていく。黒兎の声を聞いて振り向いたのは、黒兎よりもほんの少し長身でほんの少し年上に見える男と──あまりにも低身であまりにも年老いて見える七人の男たちだった。

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