第十八話 『冒険者ハインリヒⅠ』
虎獅狼は肝心なことはまったく覚えていないようだった。黒兎は沈み、リタに与えられた部屋に戻る。
私物は一切ない簡素な部屋だ。黒兎はここに私物が増える前にドナトリア王国から出なければならない。
黒兎にも、そして輝夜にも時間がないのだ。
虎獅狼が目覚めたならば明日にでもトレステイン王国に旅立ってウーリに黒兎の故郷の話をしなければならない。ただ、ウーリにも知らないと言われたら、黒兎はどうすればいいのだろう。帰り道がわからない旅を続ける気力が自分にはあるのだろうか。
悩み、いい加減風呂に入りたいなぁと思いながら服を脱ぐ。部屋には鏡台があり、背中を向けると、項にできた小さな痣がよく見えた。
花のように見えるこの痣は生まれつきのものではない。これは──。
「ふむ。ヴァル嬢の呪いか」
低い、落ち着いた男の声が聞こえてきた。同性の黒兎でさえ聞いていると思わず安心してしまいそうになる大人の男の渋い声だ。だが、部屋には黒兎しかいない。命を狙われていたら死んでもおかしくない状況に心臓が早鐘を打つ。
「だっ、誰や!」
声が上擦った。護身用の銃を構えると、「銃を下ろすんだ。私は君の敵じゃない」と告げられる。
見られている──なのに視線は感じなかった。
「ここだよ」
声は先程からずっと同じ方向から聞こえてくる。黒兎は鏡台に視線を移し、鏡に映った自分を見つめた。
「初めまして。私はハインリヒ、皆からはハインツと呼ばれている」
名乗ったということは鏡がハインツなのだろうか。黒兎は銃を構えたまま「せやから誰やねん」と尋ねる。
「私はどこにでもいる魔法の鏡だ。人間ではない。君たちの言う魔法道具に近いのかもしれないな」
黒兎はゆっくりと銃口を下ろした。ハインツは嘘を吐いていない。信じなければこの状況を説明することができなかった。
「ヴァル嬢を殺したのは君だろう」
尋ねているが半ば確信している。黒兎は嘘が通用しないような気がして「せやで」と胸を張った。
「今更なんやねん。復讐でもしに来たんか」
ヴァルトラウトをヴァル嬢と呼んでいるのだ。魔法道具に近い存在というのも魔女であったヴァルトラウトとの繋がりを感じる。
「いいや。それがヴァル嬢の天命だ、何もしない」
「ならなんの用やねん」
ハインツに詰め寄った。と言っても相手は鏡台だ。近付いた自分の顔を見てすぐに離れる。
「人助けに理由は要らないと教わったからね。私もそうしようと思ったんだ」
虎獅狼がそう言ったのはつい先程のことだ。黒兎は訝しんでハインツをじろじろと眺めるが、結局は鏡台だ。ハインツに背中を向けてベッドまで歩き、背中から倒れる。
「安心してくれ。ヴァル嬢が君にかけた呪いは、既に解けている」
「ほんまか?!」
そして勢いよく起き上がった。黒兎の項に刻まれているのは、キョウトの子供たちを例外なく殺す魔女の爪痕だった。
十年前、黒兎の目の前で両親が倒れた時から存在していた消えない痣。それは何故か、黒兎だけではなく当時キョウトに暮らしていた子供たち全員の項にも付けられていた。
魔女が存在しない月光国だ。医者を含め、誰もその痣の意味を知らずに多忙な日々を過ごしていた。何の前触れもなく人が死んだのは、都をトウキョウに遷し禁所での生活に慣れた頃だった。
亡くなったのは、十八歳になった直後の男だった。その日から次々と、十八歳の誕生日を迎えた者だけが死んでいく。
月光国の人間は魔法に疎いが馬鹿ではない。項に痣があるキョウトの生き残り──すなわち子供たちが成人した瞬間に亡くなり続けることで理解する。だからあの日、キョウトの大人たちが死んだのだと。だからあの日、キョウトの子供たちは生き残ったのだと。
ヴァルトラウトは大人のみを殺したのではない。成人したら死ぬ呪いをかけて月光国から消えたのだ。
呪われたのは黒兎を含めた禁所の子供たちだけではない。輝夜も項に痣を持っている。
政府が成人年齢を引き上げたかったのは、皇族である輝夜を死なせない為だった。
痣ができて十年、もう何百人もの子供たちが亡くなっている。黒兎が当時六歳だったのだ。痣持ちの人間が少なくなって、輝夜の──皇帝の命が危うくなってから動き出した政府の人間には怒りを隠せない。
「姫様……陛下の呪いもか?!」
黒兎にも、そして輝夜にも時間がなかった。黒兎にはあと一年と数ヶ月。そして輝夜には一年もない。
「ヴァル嬢に呪われた者全員が解呪している。勿論、呪いの内容は関係ない」
「──ッ!」
黒兎の瞳に光が宿った。心が熱く、燃えている。全身が喜びで震えている。
「君はドナトリア王国の英雄で大陸の英雄だ」
それ程の悪行を重ねてきた。ハインツはヴァルトラウト程恨まれている人間を知らない。そして、ヴァルトラウト程ハインツに話しかけてくれる魔女はいなかった。
喜びを全身で表現する黒兎はあまりにも年相応で、ハインツはしばらく黒兎の姿を映す。「魔法の鏡」と人は言うが、ハインツは何もできないただの置物だ。復讐さえできない。黒兎とは違う。
「きゃあぁぁあぁあぁああ!!」
黒兎の動きが止まったのは一瞬だった。すぐに護身用の銃とランプを持って部屋から飛び出す。
──誰が何と言おうと黒兎は立派なリタの騎士だ。
ハインツは自分の身を守る為にドナトリア王国の騎士を一人残らず殺したヴァルトラウトを想い、彼女の存在を自分の中から時間を掛けて消していく。もう二度とヴァルトラウトには会えないのだ。ならば、彼女を慕っていたこの気持ちは思い出せない方がいい。
「どないしたんリタ!」
黒兎はノックもせずにリタの部屋の扉を開けた。リタは腰が抜けたのか床に尻を付けている。
「あっ、あっ、あの……!」
「すまない、私だ」
「お前かいッ!」
リタが震える手で指したのは鏡台で、声の持ち主はハインツだった。黒兎は盛大にツッコみ、遅れて犯人がハインツで良かったと安堵する。ハインツでなければ間に合わなかった。
「リタ様ッ!」
それはカラマ、タラ、ローラも思うことだろう。リタが無事であることを確認した三人は黒兎と同じく安堵し、ハインツの声を聞いて悲鳴を上げた。
黒兎に復讐することはできないが、嫌がらせは成功したようだ。ハインツはそれで満足する。黒兎は改めて四人に挨拶するハインツを無視し、ふと思い立ってリタの部屋から出た。そして向かったのは、虎獅狼の部屋だった。
「工藤!」
同じくノックもせずに開けるとランプの明かりを消してぐっすりと眠る虎獅狼が視界に入る。
「何してんねんッ!!」
予想はしていたが実際に目の当たりにするとあまりにも信じられなくてまた怒鳴ってしまった。虎獅狼は「んあ……」と目を開けて黒兎を視認する。
「……俺も行かなきゃ駄目だった?」
リタの悲鳴に気付いた上で寝ていたようだ。確かに虎獅狼は騎士ではなく客人だが、月光国軍に所属していた者の態度としてはどうしても許せず、黒兎は拳を作る。
「次やったらほんま許さへんぞ」
「善処するよ」
「『ごめんなさいもうしません』やドアホ!」
虎獅狼は黒兎を狂人扱いするが、黒兎の方が虎獅狼を狂人扱いしたい。
「二人とも、喧嘩はやめるんだ」
落ち着いた声が聞こえてきたのは虎獅狼の部屋の鏡台からだった。ハインツは神出鬼没──というか鏡あるところにハインツありなのだろう。
「だ、れ、の、せ、い、や、とぉおぉお!」
怒りで気が変になりそうだった。どいつもこいつもと思うのは、ウーリやしょうゆとの相性も悪かったからだろう。
虎獅狼は体を震わせる黒兎を眺め、黒兎とタラは怒りん坊だなぁと思った。ハインツは喜怒哀楽の喜怒が激しい──見ていて飽きない小僧だなぁと思った。
「とりあえず落ち着いてくれ」
落ち着いていられるかと黒兎は思うが、これ以上怒っても何にもならない。作った拳をハインツが見えるように解く。
「君たちに話があるんだ。今日はもう遅いから、明日の朝の何時でもいい。二人揃って鏡の前に来てくれ」
それは、魔法の鏡であるハインツらしい呼び出し方法だった。