第十一話 『リタ・リープクネヒト』
それが何の匂いなのか、女であるリタはすぐにわかった。
恐る恐る父の部屋を訪れた彼女は、ベッドに横たわる変わり果てた父の姿を見つめて瞳を閉じる。
受け入れたくなかった。受け入れたらもう立てなくなる。
震える足で父の部屋から出て、騎士たちを探す為に廊下を歩く。だが、夜中だったせいで気付けなかった。
「────」
声は出ない。月光に照らされた廊下の奥に立っていたのは、数日前に父と再婚したヴァルトラウト・アベルだった。
リタは急いで踵を返す。ヴァルトラウトが魔女であることは、父がヴァルトラウトを見初めてリタに紹介したあの日から知っていた。だが、彼女が大陸中の御尋ね者であることは、辺鄙な国に暮らすドナトリア王国民の誰も知らなかった。
──寒い。
リタは白い息を吐きながら逃げ続ける。大陸の最北西に位置するドナトリア王国は大陸でも珍しい雪が降る国だが、寒くて寒くて敵わないと思った日は今日が初めてだ。
──助けてほしい。
そう思った日も今日が初めてだ。ドナトリア王国の王女である彼女は常日頃から多くの騎士たちに守られてきた。助けてほしいとリタが思いそうな出来事はすべて起こる前から対処されていた。
優しさは時に毒となる。もう取り返しがつかない。毒はリタの全身に巡り、蝕み、ゆっくりと殺す。
長く思えた廊下の角を曲がると見回りをしている騎士がいた。顔見知りの騎士だ。騎士もリタに気付き、城内とはいえ夜中に歩き回っているたった一人だけの大切な王女を咎めようとして、剣を抜く。
もう何年も見てきたリタの美し過ぎる顔だ。その表情の変化に気付けない馬鹿はこの国には一人もいない。リタに向かって駆けた彼に右手を伸ばした。口を大きく開いて走り出した。
「助け──」
言い終わる前に騎士が貫かれる。心臓を一突き。即死だろう。
騎士を貫いたのは黒い棘だった。黒い棘はリタの背後から伸びており、すぐにリタの太腿も貫かれる。
崩れ落ちた。声は出なかった。
黒い棘はすぐに抜かれる。かと思えば太腿の別の場所を貫いてくる。リタがこれ以上どこにも行かないように、そんな思惑が透けて見えて拳を握り締める。
やがて、飽きたのか心臓も貫かれた。全身から溢れ出すのは父を鮮やかに彩った赤だろう。白い大理石を汚していく。本当は暗くてよく見えないが。
激痛に耐えられなくなって倒れると、自身から溢れ出した液体に溺れる。血の味だ。次第に体が冷えていく。
「──ふははっ」
可笑しそうに笑うのは背後にいる魔女だ。彼女は笑い声に気付いて集ってきた騎士たちを次々と貫く。その度に声量を上げて笑う。
「あーっはっはっはぁ!」
何故彼女は笑うのだろう。何がそんなに楽しいのだろう。どうしても理解することができない。理解したくもない。
もう動けない体で泣いた。悔しくて悔しくて仕方がなかった。意識も次第に遠のいていく。
どうして父は、母を永遠に愛してくれなかったのだろう──。
目を覚ましたリタが見たのは、絶命した騎士たちだった。日光がすべてを明るく照らしており、前方も後方もよく見える。全員リタに顔を向けており、開いたままのすべての双眸がまるでリタを責めているようで吐き気がする。
血の匂いは知っていたが、死臭は知らなかった。
必死に起き上がると力が抜ける。貧血だ。遺体の山はリタを中心としてできており、誰の血かもわからないそれに手足を取られながらも立ち上がる。
死ねなかったようだ。リタはゆっくりとした足取りで廊下を歩いた。
どれくらい歩いただろう。気付けばそこは謁見室で、玉座に座るヴァルトラウトと目が合う。ヴァルトラウトは両目を見開いて固まった。夢を見ているのではないかと思ったようだ。
ヴァルトラウトが杖をリタに向けると黒い棘が再びリタの体を貫く。既に血に塗れた純白のネグリジェがさらに赤く染まっていき、深紅のネグリジェが完成する。リタはそれをただ眺めていた。上手く死ねなかった彼女の思考は鈍っていたのだ。
糸が切れた操り人形のように倒れた。それでもリタは死ねなかった。
リタを殺せないと判断したヴァルトラウトはリタを城の隅に位置する塔の中に幽閉し、国王とリタの死亡を国民に伝えて国を乗っ取った。それを伝えたのはヴァルトラウトで、それ以外の情報は一切入ってこない。リタに接触する人間は気が向いた時にリタを殺しにくるヴァルトラウトだけだった。
「もう、殺して……」
耐えられなくて懇願する。
「何度も何度も殺してやっているだろう」
ヴァルトラウトの双眸には怒りが滲んでいた。手を抜いて生かしている訳ではないのだ、それを認めてしまったら静かに水底に落ちてしまう。終わらない痛みに心が腐る。
それが二年続いたある日、知らない男が檻の奥に姿を現した。
四十代くらいの脂肪が程良い体型の男はリタを哀れみの目で眺めていた。リタは男から視線を逸らした。男のその目を見れなかった。
「外に出ましょう」
そう言われ、実際檻を開けられても、リタは男の言葉を信じなかった。
誰かに裏切られた記憶があった訳ではない。ヴァルトラウトからは何があっても逃れられないと本能がそう言っているから。男に連れ出されて塔から出ても、城から出ても、国から出ても、男のことを疑い続けた。
「さぁ、行きなさい!」
男が追い払うように手を動かす。リタの背後には森があり、それはドナトリア王国からさほど離れていない位置にあったが、その中ならばリタをヴァルトラウトから隠してくれると思ったのだろうか。
リタはごくりと唾を飲み込んだ。根拠はないが大丈夫だと思えた。
「ありがとうございます、あの、貴方は……!?」
名前だけでも教えてほしい。覚えていたらいつかきっと恩を返せる。
「ただのしがない狩人です」
狩人はリタに恩を売るつもりはないようだった。先王だった父のように優しく微笑む狩人の顔を目に焼き付けていると、「さぁ早く!」と急かされる。
「本当にありがとうございます! この御恩はいつか必ず返しますから!」
頭を下げて急いで走った。行き先はどこでもいい。自分はどうせ死ねない。
体を棘に貫かれても。燃やされても。水中に閉じ込められても。二年間何も食べていなくても生きている事実がある。
自分は不死身なのだと思った。不死身ならばどんな無茶だってやれると思った。
走って走って見えたのは小屋だった。何も考えずに扉を開けると七つの小さなベッドが並んでおり、沈むように七つのベッドに横になる。柔らかいそれは心を優しく包んでいるようで目尻に涙が浮かんだ。傍のテーブルには新鮮な果物が幾つも入ったバスケットが置いてあるが、どうしても手が伸びなくて泥のように眠る。
たっぷりと眠って目を覚ましたリタが出逢ったのは七人のノームで、乾いた血に塗れたリタを心から心配する彼らがリタを愛した。
リタが行商人に絞殺されるとリタの首を絞めた紐を解き。リタが行商人に毒の櫛で刺されるとそれを抜いて。彼らはリタの幸せを願った。何度亡くなっても救うからと誓われた。リタも心配させたくなくて行商人を信用するのをやめた。
自分は不死身なのだと思っているが、命を粗末にすることもやめた。
そんなリタが口にした林檎に毒が仕込まれていた。
リタが亡くなった原因が誰もわからず、いよいよ棺に入れられた時、それを教えてリタを救ったのが黒が良く似合う男だった。
「へぇ〜。むっちゃ綺麗やなぁ」
黒兎は観光に来たかのような態度で城の廊下を歩く。リタがこの廊下を歩くのは二年振りだったが、ヴァルトラウトは血と臓物で汚れた城で暮らしたくなかったのだろう。予想以上に綺麗で少し驚く。
辿り着いたのは謁見室だった。広いその部屋には玉座と大きな鏡しかない。黒兎は真っ先にバルコニーに向かい、瞳を輝かせてドナトリア王国を一望する。リタは誰も座っていない玉座を一瞥し、黒兎の後に続いた。
「おっ! リタ! 見てみぃ!」
黒兎が指差す先にはドナトリア王国の城門があり、話を聞き付けたのか元国民であろう人間が少しずつ入ってくる。そこに立って彼らの身分を確認しているのはトレステイン王国の騎士団だ。彼らには頭が上がらない。
「良かったなぁ」
黒兎はそう言って楽しそうに笑った。リタは黒兎にも頭が上がらない。
「コノエ様は騎士様なのですか?」
「ん? いんや」
なのにあれ程の実力が。
「俺、軍人のなり損ないやねん」
驚いていると静かに答えられる。黒兎の表情から笑みが消え、どこか寂しそうに変わっていく。
「グンジン……」
聞いたことがない単語で思わず繰り返した。話し方もイントネーションも不思議な男だ。黒兎は本当にどこから来たのだろう。
「どうしてグンジンになろうと思ったのですか?」
多分騎士と同義語だ。黒兎の寂しさの理由が知りたくて尋ねると、黒兎の瞳から熱が消える。
「──復讐や」
黒兎の瞳は朽ちていくドラゴンを捉えていた。雪のように冷たいその瞳は、雪国で生きるリタが慣れ親しんできた冷たさで。理由はわからないが同じ感情でいてくれることが嬉しくて。理解してくれることが嬉しくて。
「抱き締めていいですか」
言葉が落ちた。独りではない実感も欲しかった。
黒兎はきょとんとした表情でリタを見下ろす。その瞳には熱が戻っており、不思議な表情で黒兎を見上げるリタを映している。
「あかんで」
断られたのだとなんとなく理解した。
「人妻やん、自分」
黒兎の言う通りリタはウーリの妻だ。リタは「そうですよね、失礼致しました」と視線を伏せる。断ってくれて良かった。ウーリが知ったら黒兎の命はなかったかもしれない。
「そんなことより怪我大丈夫なん?」
「はい、もう塞がっています。コノエ様は?」
「俺も塞がったで。カラマのねーちゃんに『有り得へん』ってドン引きされたけど、普通やんな?」
「そう……ですね」
死なないからヴァルトラウトに勝てると思っていた。革命ならば命を粗末にすることにはならないと思っていた。
「良かったわ。怪我されたら俺処刑やもんな」
「…………」
否定できない。黒兎がいた世界がどういう世界なのかは知らないが、この世界は王の一言で首が飛ぶ。そうはさせたくない。
「あの、コノエ様。私の騎士になってくれませんか?」
黒兎のこの世界の居場所になりたい。