第十話 『俺、やりました』
「古代語……」
リサは再び口に手を当てて衝撃を受ける。この世界の文字が読めない黒兎と虎獅狼、手がないハインツ、文字という概念がなかったカレンに現代語を知らないリサ。
黒兎はシルヴァンへと視線を移すが、シルヴァンは自分は文字を書くことも読むこともできると自慢することも黒兎たちを馬鹿にすることもなく、落ち込むリサを悲しそうな表情で眺めていた。
「リサが読み上げるからねーちゃん代わりに書いてくれへん?」
ドミニカたちに頼む手もあるが、他所のパーティには借りを作りたくない。書けないパーティの面倒を何度も見ていた女は「いいっすよぉ」と快諾し、リサから羽根ペンを受け取った。
「えーっと、パーティ名が『オラティオ』っすよね」
「えぇそうよ」
女は魔法ギルドに喧嘩を売った黒兎たちの会話にしっかりと聞き耳を立てていた。パーティ名を記入して手が止まり、「リーダーは?」と顔を上げる。今からパーティになるのにリーダーは既に決まっていたらしい。女は話題に上がらなかったリーダーを知らなかった。
「コノエ・クロトです」
「俺?!」
間髪を入れずにリサがそう言って黒兎の声が裏返る。
大陸で生きてきた経験を活かしてパーティを支えるリサ、興味本位で何事にも率先して動くカレン、何事にも動じない最年長の虎獅狼、そしてそのどれにも該当しない黒兎。それらを踏まえると適任はどう考えても黒兎ではない。
「え。『俺』でしょ」
カレンはそう言って黒兎を見上げる。隣にいる虎獅狼も黒兎の反応に目を見開く。
「え。違うの?」
リサも驚きを隠せなかった。トロイメライが最終的にリサを託した相手は、大陸の北から一歩も出てこないカロリーナではなく大陸を旅をする一行のうちの一人の黒兎だ。初めて会った時から黒兎がリーダーだと思っていたし、それを疑った瞬間は一度もない。それは、トロイメライもそうだったと思う。
「じゃああんたがリーダーじゃないすか」
パーティメンバー全員が認めているのに、何故黒兎にはその自覚がないのだろう。女は頬杖をついて茶番を眺める。こうなったら話が長くなることを女は経験上知っていた。
「クドウもコノエが死んだら終わりって言ってたじゃあん」
「え? 言ったっけ?」
「言うたわアホ」
「クドウって本当に忘れっぽいのね」
まだ数日しか共に過ごしていないリサもいよいよ呆れる。黒兎は心優しいリサに改善を諦められたら手遅れだと思っているが、虎獅狼は今もまったく動じていなかった。
「しゃあないな。お前ら終わっとるし」
「この旅を始めたのはコノエ坊だろう」
肩を竦める黒兎にハインツがツッコむ。このパーティを物理的にも精神的にも引っ張っているのは黒兎だ。ハインツも黒兎がリーダーだと信じて疑っておらず、黒兎こそがこのパーティの指針だと思っている。
そんなハインツの言葉を受けてその場にいた全員が動きを止めた。ぼーっとしていた女だけが「ん?」と何が起きたのか理解していない表情を見せる。
故郷に帰りたい、呪いを解きたい、そんな感情で走り出したこの旅の進路は既に滅茶苦茶だ。
こんなつもりではなかったが、何もかも聞かなかったことにしてオズ王国を目指すつもりもない。
「リーダーは近衛黒兎で頼むわ」
それに全員がついて来てくれるならば、黒兎は全員の想いに応えようと思う。
「了解っす」
女はさらさらと黒兎、虎獅狼、ハインツ、カレン、リサの名前を記入した。ハインツが誰のことなのかは気にならないらしい。黒兎はリサの文字と女の文字がまったく違うことに気付き、リサが現代語を覚える道のりの長さを想像して絶望した。
「最後はシドニーでお願いします」
「?!」
シルヴァンはくちばしを大きく開けて衝撃を受ける。
「一緒に行くのよね?」
帰る国の有無は関係ない。連れて行けと言ったのはシルヴァンだ。リサはシルヴァンも仲間だと思っている。
「グァッ!」
行くと言っているのか。軽く鳴いたシルヴァンを見て女は微笑み、最後にシドニーという偽名を記入した。
「んじゃ、シドニーも入れるっすか?」
女は盆を指す。そこに入っているのはただの水ではなく魔法の水なのだろう。
「やめとくか」
黒兎はシルヴァンが全力で首を左右に振る前からシルヴァンを止めた。シルヴァンの中に流れている血は長い間ベルロワ王国を治めている王族の血だ。それでシルヴァンの身元が判明すれば偽名を使っている意味がなくなる。
「強制じゃないっすからねぇ。んじゃ、これで登録するっす」
「よろしゅうな」
女は紙を回収し、カウンターに並べていた黒兎たちの討伐依頼書に向かって懐から取り出した杖を振った。
「おっ」
討伐依頼書はふわりと浮かんで壁の一番高いところに貼り付けられる。その下には多くの討伐依頼書が貼られており、黒兎はなんとなく隅々まで眺めてリタを見付けた。
「…………」
少なくとも百枚以上は貼られているのに、リタは写真でも人の目を引く。天井近くに貼られたリサはよく見ないと気が付かないが、リタを見上げて指差す冒険者は少なくなかった。
ベルロワ王国の小さな冒険者ギルドでこれなのだ。王国内の他のギルドや他国のギルドにも貼られていることを考えるとどれだけの人間がリタの顔を知っているのだろうと不安になる。
旅に出たことは後悔していないが、リタの傍にいられないことにもどかしさを感じていた。矛盾しているが両立する感情だ。先程ハインツが見せたリタの無事な姿を信じて黒兎は深呼吸をする。
ハインツがいてくれて良かった。ハインツがいる限り黒兎とリタの関係は切れない。ハインツがいるから黒兎は安心して旅ができる。そうなったのはあの日ハインツが黒兎とリタに声を掛けてくれたからだ。
カロリーナが殺されても誰も恨まないと告げたハインツだから、ヴァルトラウトが殺されても黒兎とリタに声を掛けることができたのだろう。誰も恨まないと言われた時はにわかには信じ難かったが、ハインツは最初からそうだったことを思い出した。
「私たちはあそこよ」
黒兎の視線に気付いたアリアドネは壁の端を指す。そこにはクラウジーニョだけではなくドミニカやアリアドネたちの討伐依頼書も貼られている。
「有名人やなぁ」
こうして周知されているから黄金郷に閉じ込められていた中年の男女パーティはすぐにドミニカに気付けたのだ。
自分たちもいつかはそうなるのだろうか。わざとではなくうっかりでウーリや魔法ギルドから討伐依頼を出されている黒兎は頭を抱える。ウーリに恨みはあるが魔法ギルドとはなるべく対立したくない。わざと他所のパーティを襲うクラウジーニョたちが討伐依頼を出されるのは理解できるが、黒兎たちが一体何をしたと言うのか。
「貴方たちもじゃない」
「お前らもう何もすんなや」
黒兎はすぐに全員に注意喚起をする。
「やっているのはコノエ坊だぞ」
絶対にツッコまない虎獅狼の代わりにハインツがツッコんだ。カレンもリサもシルヴァンも黒兎とウーリの諍いは知らない。忘れる虎獅狼の代わりにハインツが伝えなければ黒兎は間違った方向に進んでいくだろう。
「やってへん!」
「やってるんだぁ……」
カレンは陸上生活を知らないだけで人間関係を築いてこなかった孤独な女ではない。こういう時の黒兎とハインツならばハインツの方が正しいことを今までの旅で学んでいた。
「俺が何した──」
納得できない黒兎が口を開くと、頭上に熱と光を感じる。無視できないそれに全員が視線を集めると、一枚の討伐依頼書が燃えていた。
「あ」
女が声を漏らす。
「あそこに貼ってあったのって……」
「東の魔女っすねぇ」
「マジか! この間天の魔女が死んだばっかだろ!」
黒兎たちはギルドの店員の会話で何が起きたのかを察した。
「東の魔女死んだん?」
「みたいねぇ。二つ名持ちの魔女狩りでもやってるのかしら」
「いや、ヴァルトラウトやったんは俺やけど」
「やってるわねぇ……」
アリアドネは黒兎とカレンが何を話していたのかは理解していないが、天の魔女を殺害しておいて何もしてないと言える神経を疑う。
「えっ?! コノエがやったんすか?!」
ドナトリア王国の革命の話はベルロワ王国まで届いていないのだろうか。
リタはそれを言い触らす人間ではない。そして多分だがウーリも自分の名声には興味がない。
「いや、俺は……」
誰も話していないのに話していいのだろうか。ウーリの名声はどうでもいいがリタの名声は気にしてしまう。
「討伐報酬誰も受け取りに来ないから事故死かと思ってたっすよ〜」
「俺俺俺俺!」
黒兎は手を上げてカウンターへと体を傾ける。そんな黒兎の腕を掴んで水晶に触らせた女は「えっ?! マジなんすか?!」と何故か遅れて驚いた。
「てめぇイカれてんのか……」
黙って事の顛末を眺めていたクラウジーニョも驚きを隠せない。
「なんだよお前! なら最初からそう言えよ!」
黒兎と戦った剣士は怒っており、カレンと戦った魔法使いは引いている。
「えぇ? なんなん?」
そして、そんな反応をされると大陸の常識を知らない黒兎は困惑してしまう。
「ヴァル嬢がそれだけの魔女だったということだ」
ハインツが補足するが、黒兎は素直に納得することができなかった。
「コノエ坊とリタ嬢には呪いが効かなかっただろう。普通の人間はそこで死ぬ」
「あぁ。そういうことならはよ言えや〜」
呪い無効の体だとしてもドラゴンと化したヴァルトラウトに勝てるのは異常だと思うが、ハインツは余計なことは言わない鏡だ。納得した黒兎は女から報酬を貰おうと背筋を伸ばし、「伏せて!」と叫ぶアリアドネに突き飛ばされる。
「あぎゃーッ!」
杖を振ったアリアドネに光線を当てられたシルヴァンはダチョウのフリを忘れて叫んだ。光に包まれたシルヴァンは可愛らしい犬の姿となり、偶然傍にいたアルフィーは当然現れた犬に毛を逆立てさせる。
そして、それ以上にアルフィーを驚かせたのが破壊された天井とそこから降ってきた人間だ。
豪華で綺麗な衣服を身に纏う二十歳前後の男女は鋭い目付きで建物の中をぐるりと見回す。
「シルヴァン・ベルトランはいるか」
合わせて六人いる彼らは誰一人として驚きで硬直する犬がシルヴァンだとは思わない。黒兎は機転を利かせたアリアドネを一瞥するが、アリアドネはシルヴァンを探す金髪の男から視線を外さなかった。