第十話 『皇帝と女王』
月光国軍の入隊式が終わり、罪人を罰し、自室に戻った輝夜は入口付近に置かれていた花瓶を掴んで床に投げた。割れた花瓶には、輝夜の母である皇后──いや、今となっては皇太后に位置する月皇咲夜が愛した菊が飾られている。黄色く色付いたそれを宮殿の至る所に飾っていた彼女はもういない。黄色く色付いたそれを見て誰よりも喜んでいた妹ももういない。母と、妹と、そして自分のことを深く愛してくれた父も──もういない。
そして今日、黒兎もいなくなってしまった。
いや、自分の手で壊してしまった。
輝夜が泣いて我儘を言えば黒兎は今でも月光国にいたかもしれない。だが、十年も第一皇女の振りをしながら皇帝として生きてきた彼女はもう大人に対して我儘を言えない。
そんな中でも、ほんの少しだけ勇気を振り絞って我儘を言えた相手が黒兎だった。
魔女が宮殿を襲って十年。父と母と妹がいなくなって十年。そして、輝夜の寿命はあと一年。輝夜にはもう時間がない。それは十年前も軍人だった者やキョウトの民だった者しか知らない機密情報で、彼らは皆、輝夜がこの一年を今までの十年の比ではない程に重く苦しく過ごすことを知っている。
その残された一年を月光国軍に入隊した黒兎と共に過ごせると──ほんの少しだけ、期待していたのに。傍にいて、ほしかったのに。
『おっちゃん! おれ、絶対あいつ倒す! だから戦い方教えてくれ!』
皇帝である輝夜がそれ程までに黒兎に執着するのは、生き残った子供たちの中でそう言ったのが黒兎だけだったからだ。
父を亡くし、母を亡くし、妹を亡くし、生まれた時から傍にいた軍人の大半を亡くし、キョウトで暮らしていた民の大半も亡くした。魔女を恨んでいるのは輝夜だけではない。同年代の子供の黒兎も骨の髄まで魔女のことを恨んでいる。独りではないのだと思えて涙が溢れたのはその時が最初で最後だった。
『約束しなさい』
体を鍛えていた黒兎に言う。突然現れた第一皇女に驚き、慌ててダンベルを手放して頭を下げた黒兎の両頬に触れて頭を上げさせる。
『あの女をぶっ殺すって……! 約束しなさい』
その場には、黒兎を指導していた石井も、輝夜を護衛していた軍人たちもいた。全員が魔女を恨み、殺してやると思っていた。汚い言葉を吐いた輝夜を窘める者はいない。今ここで吐き出さなければ後で苦しむと誰もが理解を示している。
黒兎の黒目に輝夜が映り、輝夜の黒目に黒兎が映り。
お互いの感情を触れ合った肌で伝えて嚥下する。
『命かけて』
黒兎の返事は、輝夜と黒兎のこれからの人生そのものだった。
「嘘吐きッ!!」
叫ばなければ生きていけない。
「嘘吐き! 嘘吐き! 嘘吐き! 嘘吐き!」
枕を持ってベッドに何度も叩き付ける。そうしなければ何をしてしまうかわからない。
叫べば叫ぶ程に涙が溢れる。こんな終わり方なんてあんまりだ。例え自分たちが生きている間に魔女を殺せなかったとしても、輝夜直属の軍人として傍にいてくれれば幸せだったと告げて安らかに死ねたのに。
「馬鹿野郎ぉ……!」
声を振り絞った。泣き過ぎて頭が痛い。まともな思考ができなくなって枕を落とし、ベッドに突っ伏す。
黒兎が馬鹿野郎であることを誰よりも知っているのは輝夜だ。黒兎が馬鹿野郎だから輝夜は黒兎を忘れられないのだ。
──忘れたくない。
終わるその時まで命を燃やすと決めて走り出した馬鹿野郎の背中を。馬鹿野郎の涙を。馬鹿野郎の作り笑いでさえも。覚えていたい。
輝夜はゆっくりと体を起こした。この世界にはまだ黒兎の残り香がある。涙を拭うと、慌ただしい足音が聞こえてきた。
「陛下ッ!」
振り返ると、閉め忘れていた扉の奥に石井が立っていた。石井は輝夜の部屋には入らず、廊下で息を整える。かなり急いで来たのだろう、髪は乱れ、顔色はかなり赤くなっている。
陛下と呼ばれたのだ。第一皇女ではなく、当然輝夜としてでもなく、皇帝として対応しなければならないのに輝夜はまだ黒兎を亡くした傷を癒せていない。どうしても皇帝の顔ができない。
「くろッ……近衛が……!」
石井にしては珍しく、息を整えても言葉が詰まった。
石井は大佐だ。皇帝でもあり皇女でもある輝夜と簡単に言葉を交わせる立場にはいない。それでも輝夜と石井は十年の仲で、思い返せば最初に相手に声を掛けたのは輝夜だった。
二人は十年前から今日までずっと黒兎の話しかしていない。つまり今日も、輝夜と黒兎の一件を聞いて飛んで来たのだろう。
「その件は……」
なんと言えばいいのか。黒兎の親代わり同然の石井を監督不行届だと言って責めようか。いや、輝夜がそうしたら石井の命はない。諦めよう。
「近衛が例の魔女を殺しましたッ!」
諦めを表情に浮かべていた。告げられた言葉が理解できなくてぽかんと口を開いた。
「……ぇ」
声が掠れた。心臓が早鐘を打つ。石井はらしくもなく大粒の涙を流して崩れ落ちる。嘘を吐いている訳ではないようだ。石井は嘘が吐ける男ではない。石井がそういう男だと知っているから輝夜は石井を信頼している。石井は輝夜の親代わりにはなれないが、輝夜は石井と先帝を重ねて見ていたから体が浮く。
「本当に……」
石井に抱き着きたくなる衝動を既の所で堪えた。思わず視線を落とすと輝夜が部屋中の花瓶を割って散らかした黄色い菊の花が視界に入る。
黄色は輝夜の色と告げて微笑んだ母を思い出した。だが、輝夜が今会いたくて堪らない相手は黒兎だ。
「……うっ、うぅっ……!」
散々泣いてもう出てこないと思っていた涙がとめどなく溢れてくる。やはり会いたい。会って皇帝を散々泣かせた罰としてぶん殴って、抱き締めたい。
「うわぁぁぁあぁぁあぁん!!」
泣いても、泣いても、止まらなかった。今日だけは止めたいとも思わなかった。
涙が流れるのは輝夜だけではない。空に向かって吠える黒兎を見上げていると、リタは涙がとめどなく溢れてくる。それは、もう枯れたと思っていた涙だった。
母を亡くし、父を亡くし、物心ついた時から傍にいた騎士の大半を亡くし、ドナトリア王国で暮らしていた民の大半も失くした。ヴァルトラウトを許せないのはリタだけではない。リタを生き返らせた黒兎もヴァルトラウトに対して異常な怒りを見せている。理由はわからないが同じ感情でいてくれることが嬉しくて。理解してくれることが嬉しくて。その人ごと欲しくなる。
ずっと独りだと思っていた。実際リタは先王が亡くなって国外に放り出されるまで独りだった。
多くの人間に救われてリタは今ここにいる。手を差し伸ばしてくれた人間に優劣をつけるつもりはないが、リタを丸ごと救い出したのは間違いなくドナトリア王国の英雄となる黒兎だ。
『傭兵にしてくれるんやったら命懸けてもええよ』
面白そうだと今にも言いそうな笑顔で返事をした黒兎がリタの心をどれ程軽くしたか。心から笑っているようには見えなかったが、その表情が。求める対価が。リタに罪悪感を抱かせない。その優しさが脆くなった心に染みる。
「っ……! ひっく……!」
耐え切れなくなって膝から崩れ落ちた。それでもこれだけは言わなければ。伝えなければ。
リタは懸命に心を落ち着かせて息を吸い込んだ。次第に落ち着いてきた輝夜も震える手で菊を握り締めて息を吸い込んだ。
「──ありがとう」
「──ありがとうございます」
黒兎が振り向く。リタに対して軽く手を上げ、月光国にいる輝夜に対して「約束、果たしたで」と呟き空に微笑む。
ヴァルトラウトの亡骸から飛び下りてリタの下に戻ると、リタは黒兎に対して困ったように眉を下げ、意を決したように一歩足を踏み出す。
「あの……っ、お名前、聞いてなかったですよね」
「あぁ……」
確かに名乗っていなかった。黒兎は真剣な表情のリタに笑顔を見せる。
「近衛黒兎や」
心から笑えたのは十年振りか。リタは「コノエ様」と名前を呼んで頭を下げる。
「本当に、本当に……ありが……」
「いやいや、礼を言うのは俺の方やから!」
リタは返しきれない恩を黒兎に感じていた。その気持ちは理解できるが黒兎もリタに恩を感じている。
「ですが、私は何の役にも立てなくて……」
リタはこんなつもりではなかった。自分でヴァルトラウトを殺す──自分の手で終わりにさせることがすべてだと思っていたのに。
「そんなことないんちゃう? 知らんけど」
黒兎は笑って答えた。その気持ちも理解できるが、リタはドナトリア王国の新しい女王としてやるべきことは既にやっているように思う。
「……ぇ」
リタはなんのことかわからないようだった。黒兎はドナトリア王国を眺め、身を引いた。
城に集い始めたのはトレステイン王国の騎士団だ。全員がげんなりとしているのは背中に乗せた老人が原因だろう。
「王女様……!」
長い間この国で生きている老人たちはリタの顔を知っている。涙を浮かべ、少しずつ少しずつ流していく。号泣する体力さえないのだ。
「いいえ、女王様ですよ」
微笑むカラマが訂正した。栗毛の愛馬から下りていた彼女が愛馬に触れると、愛馬は嬉しそうに鳴く。
「ドナトリア王国、万歳!」
誰も言わないことを察して黒兎が叫んだ。全力で拳を掲げると、黒兎よりも大きな声でノームが続く。
「貴方たちもやりなさい」
自分はやらないのに部下たちには命令するようだ。トレステイン王国の騎士たちは何故自分たちがこんなことをと今にも言いそうな表情で黒兎とノームに続く。それに戸惑うのはリタだった。
「背筋を伸ばしてください」
王を近くで見てきたカラマがリタに声を掛ける。リタが歌い出した時はどうなることかと思ったが、リタが歌ったから国中の人間に革命が伝わったのだ。
「もう誰にも渡してはいけませんよ」
国民が求めている人間はリタだ。トレステイン王国の王妃でも、ドナトリア王国の女王は彼女しかいない。ドナトリア王国の王の座をウーリにさえ渡してはならないと釘を刺す。
「はいっ……あの、私、ウーリ様にもお礼を言わなければ……」
「あの人には言わなくていいんです」
リタを制したカラマは呆れた表情で、心優し過ぎる彼女の未来に同情した。