第1話 はじめまして、魔女のおにーさん
空気は少しだけ冷たく、陽光はほのかなぬくもりをはらんでいる。
真っ白なシーツの波の狭間で、アンナは両腕を伸ばした。薄い生地を何枚も重ねて作られた緑青色の夜着がこぼれ落ちて、あらわになった手首を彼がつかんでくれる。
夜明け色の髪を持つ彼だ。地下牢の青年。貴公子のように整った顔立ちをしているのに、人に懐かない獣のような凛とした空気をまとっている。そんな彼は、ベッドの上でアンナを腕に閉じ込めているのだった。
瑞々《みずみず》しい果実に触れるように、彼はアンナの手首に口づけてくれる。素肌に触れたぬくもりが幼くて、アンナはくすくすと笑いながら彼の髪に手を差し入れた。指先に絡まる感触が心地良い。
「髪、結んでさしあげたいわ」
青年がやや不満そうに眉根を寄せた。
「そこまで長くない」
「でも、結べないほど短くもないでしょう」アンナは試しに青年の髪を後ろにまとめてみた。「ほら、わたくしの指の長さくらいかしら。ちょっとだけ余るもの。花束につかうリボンで結んだら、とびきり美しくなるはずよ」
普段は隠れている耳元と首筋が見えるのも随分と新鮮だ。彼の髪色なら、夜青色や赤葡萄色の細いリボンが似合うかも。胸を高鳴らせて思ったところで、青年が灰をまぶした炎の瞳をつと細めた。
「アンナ」
低い声で名前を呼ばれて、アンナはどきりとしてしまう。めったに笑わない青年が、少しだけ満足そうに頬を緩めたものだから、心臓がいっそう早く鼓動を打った。
「ルーさま……あの……」
「意識してくれているようで何より」青年は流し目でアンナを見つめたまま、今度は食むように手首へ口づけた。「あまり僕を待たせないでくれ」
「まっ、待たせるって……なにを……?」
「分からない?」
まるで子供が甘えるような口ぶりなのに、瞳の奥では夜を知る大人の密やかな光が灯っている。えもいわれぬ色気にあてられて、アンナは自分の頬が熱くなるのを感じた。ずるい。こんなの本には書かれていなかった。抗議の声はけれど、結局は喉奥に引っかかって出てこない。
ましろの花弁をとおしたように、春の朝の空気は柔らかく眩しい。彼がもう一度名前を呼んで、顔を寄せてくれる。それに抗わず、でも恥ずかしさが勝って目だけは閉じて。
それから。
*****
「んんん……ルーさま……駄目よ……」
「……アンナ・ビルツ」
「んふ、駄目だったら……えへへ……わたくしにだって心の準備ってものが……」
「アンナ・ビルツ!」
「ぴゃ!?」
ぱん、と耳元で手を叩かれて、アンナは飛び起きた。ぐしゃぐしゃに乱れたベッドのうえで、よだれまみれの枕を抱えた彼女は二度ほど目をしばたたかせる。
「は、え、ルーさま? えっ?」
「お目覚めになられたようでなにより」
黒シャツとズボンをきっちりと身に着けた青年――ルーは、ベッドのそばで腕を組んだ。
カーテンの隙間からは光が漏れている。どうやら、朝らしい。そのことはわかったのだけれど、アンナはまじまじと腕の中の枕と、彼を見比べた。
「ルーさま、わたくしと一緒に寝てらっしゃったわよね……?」
ルーが半眼になった。
「……何の話だ」
「えっ! だ、だって、こんなにベッドも乱れてるし」
「君の寝相が壊滅的に悪いせいだと思うが?」
「それに、ぎゅっと抱きしめてくださったりとか、わたくしの名前を呼んでくださったりとか、き、」先ほどまでの光景を思い出して、アンナは頬を赤らめた。「ききききキスとか!! それからそのあとのっ! あのっ!! ルーさまの指先が、わたくしのっ! ぴょあ!?」
ルーが無言でカーテンを引き、差し込んだ春の光がアンナの目を直撃した。思わず枕に顔を埋めれば、面倒くさそうなため息が響く。
「先に食堂へ行ってるぞ。身支度を整えて早く来ることだ」
「あう……ルーさまったら、つれないわ……」
「冷めた紅茶を飲みたいのなら、どうぞご自由に」
「そんな……! 紅茶を人質にとるなんて、あんまり……あっ、そうだわ」
扉を半分開けたルーが振り返った。アンナは乱れた夜着の胸元を押さえ、頬を赤らめながら上目遣いに彼を見る。
「ご興味があるなら、わたくしの着替えをご覧になってもいいのよ……?」
「……一生眠ってろ」
「きゃあ、ルーさま! そんなゴミを見るような目をなさらなくても! 思わず胸がときめいちゃうわ!」
ばたんと扉がしまる音が春の空気に響く。アンナは遠ざかる足音を笑顔で聞き届けた。
それから心の中だけで数えること、三つ。
「だ、大丈夫だったかしら……嫌われてない?」
ベッドから飛び降り、おろおろしながら取り出したのは、『熱々恋愛指南書~花の乙女の恋の歩き方~』だ。桃色の表紙をめくり、一章第五節に記されている文言を読み返す。
そっけない異性には、あざとかわいさで胸きゅんハプニングを演出すること。
「んんん……顔の角度も、言葉選びも間違ってないはず……はずだけれど……」
アンナは本で鼻先を隠しながら、ベッドの惨状を確認した。シーツはぐしゃぐしゃ、蹴り飛ばされた毛布は床に落っこちている。
ううん、これはなんというか。
「雰囲気づくりがいまいちって感じだねえ」
耳元で面白がるような男の声が聞こえて、アンナは飛び上がった。
振り返った先にいたのは真っ白の男だ。ふわふわの白銀の髪と代わり映えしない白のローブのような服をまとった彼は、へらりと笑う。
「やあやあ、アンナ嬢。今日も絶好調でなにより」
「……何の御用ですの、アルヴィム先生」
「いやだなあ、そんなに睨まないでよ。俺は君たちの様子が心配で心配でね。なんといっても年頃の男女なわけだし。だからこそ、メレトスの屋敷からはるばる訪ねてきたってわけ。あ! 君の婚約者殿は屋敷で大人しくさせてるから安心してね」アルヴィムは目をキラリと光らせた。「それで? 君が持ってる可愛らしい表紙の本はなにかな?」
「なんでもありませ、あっ!」
アルヴィムはひょいと本を取りあげた。慌てて奪い返そうとするアンナを器用に避けながら、ページをめくる。
「いやー、恋愛指南書なんか読んで、ずいぶん成長したなあ」
「ちょっと! 横取りするなんて卑怯なのだわ!」
「ふむふむ、本の真ん中くらいで結婚式の話になって、そのあとは夫婦円満の秘訣が書いてるんだ。入門書にしては手堅いし、これなら君の叔父さんも安心して君を独り立ちさせられるね……おっ、なになに。夜の準備に必要なものは、」
「返してくださいっ!」
やっとの思いでアンナが本を奪い返せば、白銀のふわふわ男は面白いことを思いついたと言わんばかりににやっと笑った。
アンナは思わず後ずさる。
「……なんですの、その顔は」
「んんんー? そんな、俺はなにも考えてないよ? なんといっても清く正しい先生だからね。ただねえ、やっぱり過去、現在、未来をきちんと考えて計画をたてるべきじゃないかい。うん、俺はそう思うな」
「話が分かりにくいのだわ。もっとはっきりと、」
「ルーにも好きな女の子ができるかもしれないよね」
ぶすっと胸を刺すような言葉に、アンナはよろめいた。
その可能性は考えなかったわけではない。なんといっても、ルーは美しいし、近寄りがたい性格も手懐けたくなる心をくすぐるところもあるし、それでいて礼儀作法も完璧にこなす。彼のそんなところにアンナの胸はときめくわけで、当然世の女性もほうっておかないだろう。
でも、でもだ。だからって。
「なにも……そんなにはっきりとおっしゃらなくても……!」
「君がはっきりしろと言ったんだよ、アンナ嬢。まあいいや、これは冗談だし」
「冗談ですの!? 本当に!?」
「本題はこっち」
いらぬ心配の渦に放り込まれたアンナを置き去りにして、アルヴィムはたもとから取り出した小箱と封筒を押しつける。
箱の中身は綺麗に修理された瓶底眼鏡だ。そこまではいいのだが、封筒のほうはやけに分厚い。赤色の封蝋でなんとか閉じたという感じだ。
というかこれ、一度開けて、もう一度閉めたんじゃないかしら。やけにそわそわしているアルヴィムを横目に見つつ、慎重に封をあける。詰め込まれた紙片、その最初の一枚に書かれている文字を読み上げた。
「わくわく! ルネ地方のんびり癒やし旅行にご招待……ご招待?」
「そういうこと!」アンナの指先から紙を取り上げたアルヴィムは、どうだと言わんばかりに改めて広げてみせた。「というわけで、明日から俺は旅行に行ってくるので!」
「えっ、わたくしじゃないの?」
「やだなあ、君には魔女たちの世話があるだろ。これは見せびらかしたかっただけ」
「……最低だわ……」
「そんなことはないさ。証拠にほら、引き継ぎ資料をきちんと準備しておいたからね」
「引き継ぎ資料って」
とんとんと、アルヴィムが残った紙束を叩くが、聞きたいのはそういうことではない。アンナは紙束を握りしめ、アルヴィムをじっと見た。
「お待ちになって。魔女さんたちが来るまでに、帰ってくるのではないの? 彼らに力の使い方を教えるのは先生の役目だったはずよ」
「それがねえ、そういうわけにもいかないんだな。なんといっても、旅行期間は一ヶ月と決められていてね」
「決められてるって、単に先生がそうしたいだけでしょう」
「おっ、さすがアンナ嬢。鋭いね! よっ、ご慧眼! 天才! とってもかわいい! 魔女たちの素敵な先生になること間違いなし!」
「そんな雑な褒め方は結こ、うみゃっ」
とんっと肩のあたりを押され、アンナはバランスを崩してベッドに尻もちをついた。慌てて顔を上げたが、アルヴィムはいそいそと開け放した窓へ足をかけている。
「ちょっと、先生……!」
「それじゃあ、アンナ嬢。楽しい裏庭生活を……あっ、そうそう」
ひらひらと振っていた片手を止めて、アルヴィムは笑顔で付け足す。
「魔女のなかに、ルー好みの女の子がいなければいいね」
アンナは先生の顔面に向かって、思い切り枕を投げつけた。
*****
「なにか気になることでもあるのか」
「いいえ、全然、これっぽちも」
「それは子供向けのおもちゃだと思うが」
ルーの冷静な指摘で、アンナはようやく自分が小さな黒い杖を持っている事に気づいた。
朝食を終え、二人は屋敷の近くにある街を訪れている。
石造りの白壁、橙赤色や孔雀石色の露店の天幕、綿毛のような黄色の花弁をつらねたミモザの花束。なにもかもが春の陽気に照らされていて、道行く人々も心なしか浮足立っているように見える。
そんななか、アンナたちは露店で青果と調味料を買い求めた。いよいよ明日、魔女を屋敷に迎えるためだ。
そのための食事の準備なのよ。ここまでの経緯を思い返して、アンナは再確認する。今は雑貨店にいるわけだけれど、それもちょっとした日用品を買い足すため。うん、そうだわ。まったくもってそう。
じゃあ、どうしてわたくしは杖なんか持ってるのかしら。
腕ぐらいの長さのそれを、アンナは試しに振ってみる。
ぽんっという軽い音ともに花束が飛び出した。
「わぁ……」
「…………」
「…………」
「……なにか気になることでもあるんだな」
だから上の空なんだろう、といわんばかりのルーの言葉に気恥ずかしくなって、アンナはぎゅっと杖を握りしめて笑った。
「な、なんでもないのよ! ほんとに、これぽっちも、ぜんぜん!」
「じゃあその杖は?」
「必要だなって思い出したの! なんというのかしらね! ええ、そう、最初の余興のときとか!」
余興ってなんなの、と早速自分の言葉の支離滅裂さに泣きたくなるが、アンナはやけくそ気味に支払い台へ向かった。馴染みの女店主が含み笑いする。
「良い恋人だねえ、アンナちゃん」
「こっ、恋人……」他人から言われるのは新鮮で、アンナは思わずじんときた。「え、わたくしとルーさま、ちゃんと恋人に見える……?」
背後でルーが咳払いした。店主は含み笑いをしつつ、意味ありげにアンナの後ろへ目配せする。
見ればちょうど、二階から彼女の夫が降りてきたところだった。一体何を察したというのか、恰幅のいい腹を揺らして、男は親指をぐっと立てて見せる。
「ええ?」
「あっちは俺に任せろってさ」戸惑うアンナの腕をつついて、女店主は上機嫌で声をひそめた。「安心しな。男同士のほうが話しやすいってものさね」
「話しやすいって」
なにを、と問う前に、店主は杖をもって店の奥に引っ込んでしまった。新しいものと取り替えて、袋に詰めてくれるのだろう。気遣いはありがたいが、この状況で放り出されると手持ち無沙汰になってしまう。
アンナはちらと脇に置かれていた姿見へ目をやった。天上から下げられた生成りの布と、足元に並ぶ小瓶の入った箱。それらに挟まれて、灰色の髪と薄青の目を持つ女がこちらを見返している。
紺色のフレアワンピースに緑青色の紐リボン。胸元で慎ましく耀くのは薔薇十字だ。黒の革靴はつま先が丸く、きっちりしつつも可愛らしさを演出できるものを選んだ。年上のルーの隣に並んでも、子供っぽすぎるということはないはず。
実際、店主は恋人と思ってくれたのだから。
「恋人……」
しみじみと呟いて、アンナは頬を両手でおおいながらうずくまった。嬉しくて顔が緩んでしまう。一方で、ちりちりと刺すような罪悪感もあった。だってこれは、アンナが強引にはじめた関係だ。
なによりもしも、明日来る魔女たちのなかに、ルーの好みの女性がいたら。
「んんん……焦りは禁物よ……」アルヴィムの余計な一言でぶりかえした不安をほぐすように、アンナはもみもみと頬を揉んだ。「だって、全員男の人っていう可能性もあるわけだし……女の人がいたとしても、ルーさまの好みじゃないかもだし……わたくしはルーさまのことが大好きだし……むむむ、そうね……もちろんルーさまの意志を尊重するのが大事だけれど……」
でも、どうかしら。あぁ見えて、ルーさまは優しいのよ。今だってさりげなく荷物を持ってくれているし、歩調もあわせてくれるし、なんだかんだで話も聞いてくれる。
例えば、彼が女の人に迫られたら? 女の人を傷つけないために、誘いを断らない可能性もあったりする……? えっ、もしかして押し切られちゃうってこと?
「えええええ! それは駄目! ぜったいに駄目、みゃうっ」
「っ、」
思わず立ち上がったところで、ごつんと頭を打った。涙目で顔を上げれば、ルーが顎をおさえて眉をひそめている。
*****
彼女を喜ばせるならお揃いの装飾品がいいだとか、記念日の隠し事は重要だが、素っ気なさすぎるのも不安にさせるから駄目だとか。おそらくはありきたりで、返事に困る話を延々としてくる男から逃れてアンナのもとにたどり着けば、待っていたのはものの見事な頭突きだった。
文句の一つでも言おうかと思ったが、涙目の彼女にルーは仕方なくため息一つに留める。
「う……ルーさま……ごめんなさい……」
「大丈夫だ。それより君は? 体調でも悪いのか」
「ん、それは大丈夫なのだけれど」
「けれど?」
「ルーさまが押し倒されないか心配で」
「押し倒……なんだって?」
思わず聞き返せば、立ち上がったアンナが実に真剣な表情で手を組む。
「あのね。ルーさまはとってもかっこよくて、綺麗で、ちょっとした気遣いも完璧で、それでいて人を寄せつけない孤独みたいなところも感じさせるから、かえってお近づきになりたくて、」
「端的に」
「ルーさまは乙女心をくすぐるのよ。女の子なら絶対に恋しちゃうし、そんなことになったら押し倒されちゃうわ」
ルーは額をおさえた。
「……なんで僕が押し倒されるほうになってるんだ」
「えっ、じゃあルーさまが……押し倒して……くださる……?」アンナはかあっと顔を赤らめた。「えっ……ええっ……!? そんな! まだ日も高いのに! とっても積極的で熱烈で……っ! うみゅっ」
「妄想するな。鼻血を拭け」
道中で買いつけた紙ナプキンを押しつければ、アンナはすんすんと鼻をすすりながら「ルーさまのそういうところが心配なのよお……嬉しいけれどお……」と涙声で付け足す。
一体何が、そういうところなのかもわからないし、こうやって泣いている理由だって想像がつかない。泣く理由なんてないと、声をかけるのは簡単だけれど。
ルーは、何度目か分からないため息をついた。こうして自分が悩んでいる間にも、彼女は自分なりの結論を出して前に進んでしまうのだろう。ずいぶんと泣き虫で、感情を隠そうともしなくせに、アンナはそういうところだけが、ルーのよく知るアンナ・ビルツなのだ。
余計な面倒事に巻き込まれなければいいと願う。
願うくらいなら、彼女を守るべきだと幾度繰り返したか分からない決意を確認する。
そこで顔をあげたアンナと再び目があった。ずれた眼鏡の隙間からのぞく青の目は、少しだけ涙で濡れている。雪解けのころの泉のように綺麗で、まぶしい。
「大丈夫か」
「ん、大丈夫よ」さきほどよりは幾分しっかりとした口調で頷いて、アンナは「あのね」と小さな声で付け足す。「わたくしは、ルーさまのことが大好きですからね……?」
なにをいまさら、と思わず笑ってしまえば、アンナが唇を尖らせた。
だって確認しておかないと、ルーさまが女の人に押し倒されちゃうかもしれないんだもの。そんな彼女の斜め上の発言を適当にあしらっていたところで、女店主が包みを持ってやってくる。
おどろくほどに何もない日常で、けれどきっと、これがいいのだと、ルーは思う。
アンナの買ったおもちゃの杖の用途がついぞ分からない。そんなところも含めて。
*****
翌日、ビルツ邸と裏庭は春らしい晴天に恵まれた。
開け放した廊下の窓からは、暖かな風が吹き込む。客間の換気も十分、ベッドシーツは清潔で皺一つなく、乾燥させた切り花は薔薇水をはった器に浮かべて、各部屋の小卓に彩りを添える。それらはすべて、記憶喪失の少女と、彼女に寄り添う青年が準備したもの。
そんな二人は今、白と黒を基調とした正装に着替え、魔女たちを迎えた食堂の扉を開く。
それは、二人きりのささやかな時間が終わる瞬間。魔女たちと過ごす季節の始まり。
そして、少女の淡い恋心と、青年の穏やかな願いに嵐が吹く。
「……は?」
扉を開けて固まった。そんなアンナがなんとか絞り出せたのは、その一言だけだ。
軽食を並べたテーブルには、白いテーブルクロスがかけてある。向かいあって座るのは、白と黒の正装をまとった今年の魔女たちだ。
痩身で猫背、黒栗色の髪を室内帽におさめた陰気な女。
赤銅色のくせ毛をしきりにいじりながら、手元の紙束を何度も見返す神経質そうな青年。
禿頭に強面、膝の上に猫人形をのせた壮年の男。
ここまで三人。そして四人目――肩のあたりで切りそろえた黒髪に、愛らしくぱっちりとした目を持つ少女が目の前にいる。
正確にいえば、ルーの目の前に。
さらに正確に言えば、彼の胸元をつかんで――少女はアンナよりも背が低いからそうするしかないのだが――、その頬に軽く口づけて。
……口づけて?
「……っ、な……!?」アンナはようやく我に返って、絶叫した。「な、なななな、なにしてるんですの…!?」
「うるさいなあ、おばさん。ただの挨拶でしょ」
「おば……っ!?」
アンナがぴしりと固まるなか、少女はルーから身を離す。ぽってりとした唇に指先をあて、小首を傾げてにっこりと笑った。
「はじめまして、魔女のおにーさん。ボクの名前はティカ。夜のお相手はいつだって募集中だから、気軽に声かけてね」