第7話 だから、本当に困ったときは助けてと言ってね
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「じゃあ、リリア。あなたは何になりたいの」
お姫様になりたいと言ったわたくしを笑っていたリリアは、「そうね」と考え込むような素振りを見せた。
雪が降るというだけでも珍しいのに、その日は夜になっても降り止まなかった。窓には花弁のように薄い白雪がはりついていて、寄宿舎の寝室では小さくなりはじめた炎が暖炉のなかでゆらゆらと揺れている。
肌寒さに身震いして、わたくしはベッドの毛布にくるまった。向かいのベッドに腰かけたリリアも、肩のストールをなおして口を開く。
「私は私でありたいかな」
「貴族のままで良いということ?」
「それが私らしさであるというのなら」栗色の髪を揺らして顔を向けたリリアは、からかうように目を光らせた。「そういう意味では、王子様にも、お姫様にも、魔女にもなれるかも」
「……先に答えて損したわ」
頬をふくらませながら背中を向ければ、くすくすと親友が笑った。
「相手の出方をしっかりと探って質問すべきということね。いい教訓になったんじゃなくて? アンナ王女様」
「わたくしは王女にはならないわ」
「なる、ならないという話ではないでしょう。生まれた時から今まで、それにこの先も、あなたは王女よ。陛下が死なない限りはね」
火かき棒で灰をかく音がしたあと、部屋がふっと暗くなった。隣のベッドが軋み、衣擦れの音がする。
ルーさまは寒くないかしらと、ビルツ邸に残してきた従者の心配をしたところで、「でも、良かったわ」というリリアの声が聞こえる。
少し迷って、結局わたくしは体の向きを変えた。向かいのベッドで、同じように毛布をかぶったリリアと目があう。
寄宿舎で出会ったルームメイト、聡明で思慮深い貴族の令嬢、学園に入ったばかりのアンナ・ビルツの幼稚な自尊心を粉々にした好敵手。
だからこそ、何者にも代えがたい親友は、にこりと微笑んだ。
「一番最初の返答が、きっとアンナの本心だもの」
「……王子様に助けを求めるお姫様になりたい、って?」
「そう。助けを求めることは、大切なことだから」リリアは穏やかに目を閉じた。「だから、本当に困ったときは助けてと言ってね。私も助けてと、あなたに言うから」
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ささやかなぬくもりに目を覚ましたアンナは、息を呑んだ。
くすんだ布のはられた天井は客間のものに違いない。けれど重要なのは、穏やかな陽光に照らされて、夜明け色の髪をもつ青年が自分を見下ろしているということだ。文字どおり、目と鼻の先で。
黒シャツ一枚で、胸元のボタンは二つほど空いていて、そこから白い包帯がのぞいていて、その影で首筋と鎖骨がよく見えて、隆起する喉に男性らしさを感じたりもして。
いや、待って。そんな、しどけない姿なんて。
えっ、つまりそういうこと? どういうこと?
「起きたか」
「わっ……わたくし……」
「? どこか具合でも悪、」
「わたくし、頑張ってあなたの子供を産むわ」
両手を握りしめて宣言すれば、何をいってるんだと言わんばかりに青年――ルーが半眼になった。
アンナは首を傾げる。
「ちっとも記憶に無いけれど、子作りしたのよね? わたくしたち」
「……するわけがないだろう」
「えっ。眠りの君さまったら、そんなに大胆な格好をなさってるのに?」
「これは傷の手当のせいだし、僕は君に指一本だって触れてない」
「嘘ね。少なくとも、地下牢からここまで、わたくしを運んできてくれたのでしょう?」
アンナはにっこりと笑った。わかりやすい沈黙のあと、ルーは渋い顔をして身を離す。
「君はどこまで冗談なんだ」
「まぁ! 全部本当よ! ルーさまが運んでくださったことは感謝してるし、子供は男の子と女の子を一人ずつと思ってるし、まぁそのまえに夜を共にするというか、ベッドの上で触れあうというか、その、きっ……きっ……んんん、せっ、接吻とか! とかとか! きゃー待って待って!! ちょっと心臓がもたないわ!」
「妄想で盛り上がるな……」
噴き出すような笑いとともに、明るい声が響いたのはその時だ。
「いやあ、ずいぶんと楽しそうだね!」
アンナたちは入り口を見やる。
来訪者を端的にあらわすなら、白であり、優男だ。
限りなく白に近い銀の髪を緩く束ねてはいるものの、ふわふわとあちこちから毛先がこぼれている。ローブにも似た緩やかなシルエットの服装もやはり白。アンナの記憶がたしかなら、自称・永遠の二十九歳だったか。
そんな陽気な男は、若葉色の目を二度瞬かせて、「あれっ」と首をひねった。
「反応が薄くない? ここは喜んだり驚いたり泣いて感謝したりするところじゃない?」
「……アルヴィム先生」いつもとちっとも変わらない男の名前を呼び、アンナは渋々《しぶしぶ》と尋ねた。「どうして、ここにいるんですの」
アルヴィムは待ってましたと言わんばかりに、満面の笑みを浮かべた。
「やぁやぁ! いい質問だね、アンナ嬢。それはもちろん、緊急救助要請を受け取ったからさ。まったくびっくりしたよ。この屋敷から、メレトスの家に電話があったことなんて今まで一度でもあっただろうか! いやない! しかも、女中に聞けば、メレトスはどこかに出かけてる最中ときた。敏い俺は、ここでピーンと来たわけだけれどね! 電話に出て二度びっくり、通話口にいたのは君じゃなくて若い男で、」
「僕が連絡した。怪我の手当と狩人の処遇を決める必要があったから」延々と続くアルヴィムの話を無視して、ルーはアンナに尋ねた。「君は彼と知り合いなのか?」
アンナは頷いた。
「アルヴィム先生は、メレトス様の屋敷の居候なの。まぁ! そんなに心配そうな顔をなさらないで。こんな人だけれど、わたくしのことを色々と気にかけてくださってるのよ。本を読むように勧めてくださったのも先生だし、暴力をふるわれるようなこともないし。このとおり、空気は読めないし、話は長いけれど」
「なるほど」
「ちょっとちょっと、なるほどじゃないよね!?」
屋敷からビルツ邸にたどり着くまでの道中の様子を語っていたアルヴィムは、聞き捨てならないと言わんばかりに顔をしかめた。
「最後のほうは俺の悪口だよね。良くないよ、そういうのは」
「事実を言っているだけよ。アルヴィム先生」
「本当のことでも、言っていいことと悪いことってのがあるじゃないか。俺の繊細な心が傷だらけになってしまうよ? あっ、ちょっとちょっと。別にどうでもいいなんて顔しないで」
まったくもう、と憤慨しながら、アルヴィムは無理矢理にアンナの隣に座った。
飲み物でもとってこよう、と言いおいて、ルーが部屋を出ていく。ぴんと伸びた背中も淀みない足取りも、一見するとけが人には見えない。
なにより、彼は狂っていないのだった。彼は魔女で、アンナの目は魔女を壊してしまう目なのに。当たり前のそれは嬉しいことで、でもいつか駄目になってしまうんじゃないかというささやかな不安もある。
アンナがじっと背中を見つめていれば、アルヴィムが再び笑った。
「心配しなくても大丈夫さ。なかなかに体に優しくはない傷だけどね、大人しくしてれば春までには塞がる」
「それって、あと一月はかかるってこと?」
「不満そうな顔をするね。まぁまぁ、のんびりするのも大切なことだよ。アンナ嬢」アルヴィムはソファに肘をつき、目元を指で叩いてみせた。「ところで、だ。俺が作ってあげた眼鏡はどこにいったのかな」
う、と言葉に詰まって、アンナは目をそらした。アルヴィムが面白がるように言う。
「君にしては珍しく、わかりやすい反応だね」
「……落としたのよ。たぶん、地下牢にあるはずだわ」
「素晴らしい、正解だ」
アルヴィムはローブのたもとからひしゃげた瓶底眼鏡を取り出してみせた。ちょっと、持っていたのなら今の質問は無意味でしょう。アンナが文句をいうより早く、先生は白々しく天井を見上げる。
「さてさて、じゃあどうして眼鏡はこんなに壊れてたんだろうね。まるで誰かさんに乱暴されたみたいだ。それにあの狩人姿の男! まさか今年の魔女の生き残りが、まだ屋敷に残っているなんて思いもしなかったなあ」
「い、色々あって」
「そうだね、色々あるよね。人生だもんね」
上機嫌な返事のあとには、回答を待つような沈黙が落ちた。当然のようにルーはまだ帰ってこないし、穏やかな朝の時間の流れはじれったくなるくらいゆっくりだ。
胸元で、鈍色の薔薇十字がささやかに光る。
アンナは根負けして隣に目を向けた。微笑んだままの男に白状する。
「……メレトス様と遊戯をしてたのよ。夜が終わるまで、狩人から逃げ切れればわたくしの勝ち。期限は冬が終わるまで」
「危険な遊びだ」
「うまく逃げ切れてたのよ」
「そうだろうね。去年の春に比べれば、君はずいぶんとうまく、自分の目を使えるようになっている」アルヴィムは穏やかに言った。「それでも、どうだろうな。やはり危険なことに変わりはなかった。例えば、メレトスが現れたら? 君が狩人を直接見ることを強要されたら? あるいは、狩人以外の人間が、君の命を狙うような状況になったら?」
並べられた仮定はすべて事実だ。アンナは観念して、しおしおと頭を下げた。
「ごめんなさい。なにも相談せずにいて悪かったわ」
「うんうん。素直に謝れて、えらいえらい」アンナの頭をくしゃりと撫で、アルヴィムは言う。「助けてほしいときは、助けてというべきだ。やせ我慢をせずにね」
奇しくも、その言葉は親友のリリアにそっくりだった。じんと胸が熱くなったアンナが顔をあげれば、「ところで」とアルヴィムがうきうきした様子で声を潜める。
「君、ルーとキスをしたんだって? ね。その時の様子、ぜひじっくり聞かせてほしい、ぶっ」
アンナは顔を真っ赤にして、先生の頬を思い切りひっぱたいた。
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コーヒーと紅茶を用意して戻ってきたルーを待っていたのは、へらへらとソファで笑うアルヴィムだけだった。何事かと問うまでもない。部屋を飛び出したらしいアンナとすれ違ったし、男の頬には真っ赤な手形が残っている。
アルヴィムが呑気に言った。
「いやあ、女心って難しいなー」
「また何か余計なことをしたんですね」
「またとは失礼な。俺のやることにはすべて意味があるんだよ」
ルーは答えず、アルヴィムにコーヒーを押しつけた。紅茶はアンナの分だが、さてどうしたものか。追いかけたところで、面倒な絡みをされそうだ。
斜め上の妄想で盛り上がるアンナを思い出す。急に面倒くさい気持ちになったし、実際それは微妙に顔に出ていたのだろう。コーヒーを一口飲んだアルヴィムはのんびりと言った。
「追いかけるがいいよ。なんだかんだ言って、お前は昔からアンナ・ビルツのことが好きだろう」
「殴られたいんですか」
「わぁ、相変わらずお前も俺に辛辣だ」アルヴィムはからからと笑ったあと、目を細めた。「まぁ、いいさ。狩人の処遇は俺に任せて、お前はアンナ・ビルツを守りなさい。こんな形で見つかるとは思ってもみなかったけれど、あれは間違いなくお前の薔薇十字なのだから」
ルーはため息とともに、手元の紅茶を見やった。
凪いだ水面が冬の日差しを弾く。淡い輝きのまぶしさに目を閉じて、静かに頷いた。
「はい、分かっています。先代」
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三年前、この国は革命を迎えた。
国を二分する争いは王女率いる革命軍が勝利し、王族のほとんどは断頭台の露と消え、私腹を肥やした貴族もほうぼうに逃げ去った。人々は彼らの名残が残るものを嫌って次々と取り壊したが、唯一、美しき花々の咲き乱れるビルツ邸の裏庭だけは残された。
霜で覆われた東屋や格子棚。土がむき出しのままの花原。寒風に揺れる高木や低木。そして、芽吹きのときを待つ野生薔薇。年に一度、国中から選ばれた魔女たちによって守られてきた裏庭は、春待つ今だけは記憶喪失の少女と、過去に囚われた青年のもの。
これは、そんな二人が魔女たちと過ごす四季の記録。
あるいは、悪い魔女が断頭台にのぼるまでの物語。