第6話 絶対に、大丈夫
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アンナは呆然と座り込んだ。ルーという名の青年が光を振るった。そのときにはもう、流星のように尾を引く光は銀色に輝く長剣となり、放たれた銃弾を弾いている。
魔女の力だわ。アンナはぼんやりと思った。自分が見たからだ。彼の罪を暴いたから。魔女は誰かに罪を言い当てられて、初めて力を手にする。だから魔女は、常に二人一組なのだ。
けれどアンナの目は、あまりにも良すぎて、魔女の罪を全て暴いた挙げ句に、狂い殺してしまう。今までみんなそうだった。狩人の男もそうなりかかっている。けれどたぶん、ルーは違う。確信がある。根拠はないが、その確信は暖かかった。約束するといった時の彼の顔を思い出して、アンナはまた泣いた。泣き虫の自分が、本当に嫌いだ。
ルーが長剣で切り捨てれば、間近にあった猟銃が深緑の光になって消える。残った無数の銃が一斉に発砲音を響かせた。彼は微妙に体をずらしてかわし、ついでと言わんばかりに何発かを刃で撫でるようにして斬った。
どこまでも静かで、無駄がない。影のなかを歩む獣のように、身を低くして次々と猟銃に刃をあてる。深緑の光が散る。銃声が響くが、人影のない石床を削るばかりだ。
ルーが狩人に肉薄した。残った猟銃はやはり、〈王狼〉の青年を狙ったのだった。
だが、銃弾は放たれない。
狩人が信じられないと言わんばかりの面持ちで呻く。
「どうして……」
「八が四に、四が二に、二が一に。最後は零に。斬ったものを半分にする。それが僕の魔女としての力だ」残る銃をすべて切り捨てて、ルーは男を見据えた。「当然、銃弾を切れば、弾数が半分になる。旧式アベルタ型回転式小銃なら、装填される銃弾は最大八発だから、それほど斬る必要もない」
「っ、ひ……」
長剣の柄が、狩人の後頭部を叩いた。掠れた悲鳴一つを残して、狩人の男が地面に倒れる。
ルーは滑らかな動作で剣をおろした。ちゃり、という金属同士が擦れる音がする。顔を蒼白にしたメレトスが、〈王狼〉の鍵を掲げようとしたらしい。だが、やはりというべきか、ルーの方が動きは早かった。
長剣を鳴らし、冷たい殺気を隠しもせずに警告する。
「失せろ」
青い顔をした婚約者が慌てたように階段をかけのぼっていく。足音が遠ざかって、聞こえなくなった。地下牢が急に静かになる。
安堵と疲れで、アンナは体の力を抜く。終わったんだわ。信じられない。地下牢のあちこちは銃弾でえぐられていて、気絶した狩人の男は地面に倒れたままだ。それでも、誰も死んでいないのだ。目を見てしまったのに、誰一人として死んでない。
彼のおかげだ。アンナはまじまじとルーの背中を見やる。長剣はいつの間にか消えていた。肩の傷からは鮮血がこぼれている。立ち姿はけれど、神々しかった。美しい夜明けの獣だ。荒々しいのに静かで、孤独であるのに守護者でもある。矛盾しているのに、少しもおかしくない。
でも、どこかに行ってしまいそうだわ。
「ルー、さま」不安に駆られたアンナは近づき、ためらいがちに名前を呼んだ。「あの、」
大丈夫かしらと尋ねる前に、ルーが振り返った。
アンナは凍りつく。灰をまぶした炎の瞳はガラス玉めいていて、感情がない。
夜の彼だ。
「っ、ぁ、ぐ……っ」
無造作に伸びてきた血まみれの手に、アンナは喉元を掴まれた。慌てて引き離そうとするが、指先に震えと冷たさを感じるばかりで、少しだって手がかからない。ぎりぎりと空気を締め出されて、視界がちかちかと瞬く。
そう、でも、震えだ。
震えてるのは、彼の方だ。
「……っ……」
胸が潰れるような苦しさがあって、アンナは顔を歪めた。命令だ。アンナを殺せという〈王狼〉の命令が彼を縛っている。それを命じた男も、鍵も、ここにはないのに。
ねぇ、でも落ち着いて考えてみるべきだわ。アンナと同じ声をした、冷たい理性が囁いた。命令が彼を縛っているのは事実でしょう。彼を助けるべきというのも正しい。けれど、彼を苦しめているのは、他ならぬわたくしだわ。
殺したくないのに、殺そうとする。だから彼は苦しんでいるのよ。わたくしが生きようと見苦しく足掻くから、なおのこと。命令に従えたほうがずっと楽なはずなのに。
だから無駄な抵抗なんかせずに、わたくしが今ここで死んでしまったほうがいい。彼にとっても、魔女にとっても、この国にとっても、きっときっと、それが最良の選択だわ。
ねぇ、わかってるでしょう。その結論に至ったから、わたくしはあの冬の日、命を絶とうとしたんでしょう。
ねぇ。
「……や……ぁ……」
アンナはぎゅっと目をつぶった。いや、と心の中で繰り返す。何度も何度も繰り返して、冷たい声を追い払う。
わかっている。彼は苦しんでいて、一番手っ取り早い解決方法は自分が殺されてあげることだ。そんなこと、わかっている。でも今は。今だけは、死にたくない。彼ともう少しだけ一緒にいたい。
だって、庭を見る約束をした。恋をする約束をした。帰ってくると約束した。だから彼は、自分を守ってくれた。
ならどんな方法であれ、今度は自分が彼を守るべきだ。
「っ、……命じ、ます……」
アンナは無意識のうちに、薔薇十字を掴んだ。やけに熱いそれを苦労して掲げる。
「わたくし、は……っ……これから、悪い、魔女になる……」
彼が自分にくれたのは、彼の名前と罪だった。ならば自分は、彼に理由と命令を与える。
彼が今、アンナ・ビルツを殺さないですむ理由を。
彼がいつかアンナ・ビルツを殺してしまっても、心を痛める必要がないように命令を。
「多くの人を殺す、悪い魔女に……っ」
それは事実だ。アンナの目は魔女を狂い殺す。狩人以外の今年の魔女は、アンナが見たから全員死んだ。そして間違いなく、次もそうだ。だから。
「だから……っ、然るべき時が来たら……っ、わたくしが誰かを殺してしまいそうになったのなら……! わたくしを殺しなさい……! これは命令よ! ルー・アージェント!」
声は届いただろうか。きっと届いたはずだ。
ルーの手の力が弱まった。アンナは咳き込みながらも立とうとしたが、彼が青い顔をして倒れかかってくる。
二人して、ずるずると座り込んだ。互いに体が震えていた。顔は見えなかったが、彼は泣いているんじゃないかと思った。だからアンナは、彼を抱きしめた。
「大丈夫よ」砕け散ってしまいそうな勇気をなんとかかき集めて、アンナは泣きながら言った。「絶対に、大丈夫。わたくしたちは幸せになれるわ。きっと……きっとよ」