第1話 君が僕を好いてくれるのは、純粋に嬉しい
ビルツ邸の厨房は三人で使うにちょうどよく、二人で使うにはいささか広い。
石造りの洗い場と、煤のついた炉と、干した香草や果実の砂糖漬けを詰めた小瓶が並ぶ楢木材の食器棚が二つ。部屋の中央には、ところどころ小麦粉のついた作業机が置かれている。裏庭へ通じる勝手口の近くには小窓があって、西洋人参木の青紫の花と一緒に、東屋へ続く細道を眺めることができるのだった。
アンナは厨房が好きだった。裏庭そのものや図書室もお気に入りの場所だが、厨房――とりわけ初夏の厨房は、それとは違う魅力がいくつもある。
例えば、炉に火を入れる前にしか味わえない冷涼な空気と、裏庭の鳥のさえずりを楽しめること。
例えば、焼きあげたばかりのスコーンの甘い香りを、一番のりで胸いっぱいに吸いこめること。
例えば今みたいに、お茶会の準備を口実にして、彼と二人きりになれること。
「花実の砂糖漬けと檸檬果汁を等量」手を動かしながら、ルーが作業机に置いた紙切れを読みあげた。「それから薬草を五枚」
「せっかくだから、大口瓶にいれてつくりましょう」アンナは洗ったばかりの硝子瓶を差し出した。「そうそう。ゆっくり混ぜたら、縁いっぱいまで林檎果汁を注いで……じゃじゃーん! 夏にぴったりのガーデンカクテルの出来上がりです!」
アンナは声を弾ませながら、両手を叩いた。
作業机には、淡い黄色のガーデンカクテルの大瓶のほかに、スコーンや、サンドイッチが置いてあって、小窓から差し込む夏の光につやつやと輝いている。使い終わった食器を洗えば、これらを籐籠に詰めて裏庭へ持っていくのだ。
本当に楽しみだわ。ティカさんたちも、きっと喜んでくれるはず。お茶会への期待を膨らませつつ、アンナは隣のルーを見やって、ますます頬を緩ませた。なによりも大切なのは、彼と一緒に準備できたということなのよ。
だって今、わたくしたちは隣り合って立っているのだわ。ねぇ、信じられるかしら。この広い厨房で、離れようと思えば、いくらでもそうできるのに! もちろん、飲み物をつくるという共同作業のためだし、ルーさまとわたくしの間には、小瓶一つぶんの距離があるのだけれどね。んんん、でもこの距離がルーさまの奥ゆかしさの象徴で。
そしてやっぱり、今日もルーさまは美しいのだわ。
アンナはうっとりと片思いの相手を見つめた。夏の日差しが、ルーの夜明け色の髪を美しく照らしている。ここ数日の暑さのためか、彼は少しばかり長い後ろ髪を紐でくくってまとめるようになった。日に焼けていない白い――けれど男らしい――首筋は魅惑の塊だし、黒シャツを無造作にまくった腕も、なんというか、絶妙な色気がある。
えぇえぇ、もちろん。見えそうで見えないちらりずむにも浪漫があるのだけれど。
やっぱり夏の醍醐味よね。
「ルーさまの素肌……」
「……声に出ているが? アンナ・ビルツ」
ルーに呆れ声で指摘され、アンナは慌てて顔を引き締めた。
ため息をついた彼は、硝子瓶を鳴らしながら柄の長い銀匙を引き上げる。
「妄想は、ほどほどにすべきだな。顔がだらしない」
「だ、大丈夫なのだわ! ルーさまでしか、夢を膨らませないもの」
「綺麗な言い回しをすれば良いってわけでもない」ルーはうんざりしたように言った。「だいたい、僕なんかのことを考えてどうするんだ。もっとあるだろう。他に大事なことが」
「もちろん、おっしゃるとおりよ。でも、今考えなきゃいけないのはルーさまのことだけ」
「……あのな」
「本当よ」ルーの渋い顔に向かって力強く頷いたものの、いささか不安になって、アンナは手元へ目をおとす。「そのはず、でしょう? だって、少なくとも今は、魔女さんたちとうまくやれてるもの」
指先を組む。黒のワンピースの胸元で白銀の薔薇十字が夏の光をささやかに弾く。まるで祈っているみたい――ううん、わたくしがうまくやれてるって信じたいだけなのかも。ちょっぴり不安が大きくなったところで、ため息と、もう一度、銀匙が硝子瓶を鳴らす音がした。
アンナは顔をあげる。
「ティカ・フェリスの一件があったのは春の終わりだ」ルーはカクテルをぐるぐると回しながら言った。「そこから数ヶ月、一つも問題は起こっていない。裏庭の手入れは全員で、食事や洗濯は魔女同士で組を作っての当番制。仕組みづくりが重要という好例だな。まぁ、ちょっとした意見の食い違いはあるが」
「……この前の洗濯物のたたみ方、とか?」
アンナはそろりと言った。ルーが手を止め、瞳に愉快そうな光を宿しつつ、真面目くさった顔で頷く。
「あれは最近でも、一番のいさかいだったな。シーツを縦にたたむか、横にたたむか。おまけにレイモンド・ラメドは角までしっかり揃えろと主張する過激派だった」
アンナは思わず笑った。
「ふふ、そうね。さすがに彼ほど、きちんとしなくてもいいとは思うけれど……ティカさんは縦にたたんだり、横にたたんだりってかんじだから、しまうときにちょっとだけ困るのよね。ほら、たたんだ後の大きさが違うでしょう」
「だからレイモンド過激派に目をつけられたというわけだ」
「大論争だったわ。どっちも自分の考えを曲げないんだもの」
「最終的には、君から解決策を掲示してやっただろう? 畳み方の統一化だ。素晴らしい。共通の規律というのは、どんな争いも平和に導いてくれる」
「わたくしだけの解決策ではないわ。ルーさまと、フラウさんと、ディエンさんと……みんなで話して決めたのよ。そのことがきっと、大事なのよね。平和で、平等ってことだから」
三年前の革命がもたらした、唯一にして最大の幸福を思って、アンナは目元を緩めた。こればかりは乾いた書物の文章からだけでなく、今も実感できることで、素直に喜ばしい。
ルーが銀匙を手放した。灰をまぶした炎色の目をひっそりと輝かせて、アンナを見つめる。それから今度ははっきりと笑みを――幼子が手放しで喜ぶときにも似た、あどけない笑みを浮かべて言った。
「うん、笑顔に戻った」
アンナは一気に顔が熱くなるのを感じた。慌てて目をそらし、薔薇十字に指先をぎゅっと押しつける。
「……ルーさまが、励ましてくださったから……」アンナはしどろもどろに答えて、唇の裏を噛み、さらに指先へ力をこめた。「でもその……そういうのは、ちょっと……心臓に悪い……のだわ……」
「そういう?」
「笑いかけてくださる、のが」
そこまで言いさして、アンナは急いで顔をあげた。
「あっ、違うのよ! 笑ってくださるのはいいのっ! ルーさまの笑顔は素敵だし、可愛らしいし、わたくしも大好きだから……っ! ただその、突然という、の、が、」
アンナは息を呑んだ。ルーに指先をつかまれたからだ。
ばくばくと鳴る心臓の音を聞きながら、アンナは夜明け色の髪の青年を見あげる。彼は少しの間だけ視線をそらした。それなのに親指の腹は、アンナの指先をしきりに撫でているのだった。
柔らかいぬくもりと重さが、離れてはもどってくるたび、アンナの胸が息ができないほど震える。
まるで夢の中のくちづけみたいと、アンナは思った。
そう。夢の彼は、花びらに触れるみたいに大切にわたくしを扱ってくれて。わたくしも、今よりずっと上手に受け答えができるの。唇で触れてくれるのは手だけじゃない。額にも、つま先にも……そんな不埒な夢を思い出しかけて、アンナは痛いほど強く目を閉じた。違う、今は現実なのよ。
しっかりしなくちゃ、と言い聞かせて、アンナは目を開けた。
分厚い眼鏡ごしにルーと目があい、夢のなかの涼やかな彼と違って、本物の彼の頬が少しだけ赤いことに気づく。たったそれだけのことなのに、ささやかな覚悟は消し飛び、アンナは息ができなくなった。
ルーさまも、照れてらっしゃるのだわ。わたくしと同じように。
「……どんな、理由であれ」ゆっくりと言ったあと、ルーは気持ちを落ち着かせるように深く呼吸をした。「君が僕を好いてくれるのは、純粋に嬉しい」
「う、れ……しい……?」蚊の鳴くような声でアンナは繰り返し、もっと小さい声でささやいた。「でも……どうして……? わたくしなんかの、好きなんて、適当にあしらってくれて、かまわないのよ」
「適当には、できない。いや、君からすれば、今までの僕は、適当にあしらっていたように見えていたかもしれないが……」
「ルーさ、」
「アンナ」
なにか意を決したように、ルーがアンナの名前を呼んだ。心臓があまりに鋭く鼓動を打ったので、間抜けにひらいたアンナの唇の隙間から空気の塊が転がり出てしまう。
待って、と思った。されどももちろん、吸いこむべき空気は二人の間に消えてしまったし、ルーの言葉も止められない。
「……アンナ。春の終わりから、ずっと伝えようと思っていた。僕は、」
耐えられなくなって、アンナはルーの手を振り払った。
彼が驚いた顔して口を閉じる。アンナは足をもつれさせながら後ずさり、丸椅子に置いていた空っぽの籐籠をつかんで叫んだ。
「わっ、わたくし……っ! 外の様子を見てくるわ! ルーさまはここで待ってらして!」
*****
浮足立って、じっとしていられないほどの気恥ずかしさと、頭が爆発してしまうんじゃないかと思えるくらいの大混乱とに襲われたのだ。
「……だからぁ……わたくしに原因があるとするなら、そこなのよ……ぉ……」
「めんっっどくさ」
アンナが半べそをかきながら締めくくれば、テーブルの向こう側でティカが心底うんざりした顔で呟いた。
みっともない逃走劇から一転、藤棚から青々とした夏の陽光が差し込む東屋である。中央に置かれたテーブルには布がかけられ、綺麗に洗ったグラスが並び、軽食の到着を今か今かと待っていた。
すなわち、サンドイッチやスコーンやガーデンカクテルの到着を、ということである。
されども、アンナがつかんだのは空っぽの籐籠だったのだから、いつまで待っても到着するはずがない。
ティカが苛々《いらいら》したように息をつき、テーブルをぐるりと見回した。他の参加者に同意を求めたかったようだが、室内帽をかぶった陰気なフラウは、ティカを眺めてでれでれと笑うばかりだし、黒シャツで襟元をあおいでいるレイモンドのほうは、単語をかきつけた紙切れを眺めてはぶつぶつと呟くばかりだ。
結局ティカはしかめつらをし、空のグラスをとりあげてアンナに突きつける。
「早く食べ物とってきて。お腹すいた」
「いやよ」アンナは鼻をすすり、肩を縮こまらせた。「だって……分かるでしょう? 気まずいのよ。わたくしが一方的に飛び出してきたんだから」
「ボクには理解できない理由でね」
「まぁ! さっき、きちんと説明したでしょう? なんだったら、もう一度する? わたくしはルーさまとガーデンカクテルを作ってて……」
「のろけ話はいいんだってば!」
やってられないと言わんばかりに、ティカは手足を投げ出した。今日の彼女は袖の短い白のブラウス――スカートの部分は、かろうじて魔女の正装である黒のワンピースに手を加えたものを使っている――を着ているので、白い肌がよく見える。
「はぁもう、一体なんなの!? お菓子と飲み物があるっていうから、テーブルの準備をしたっていうのにさ!」
「ふ、へへ……」フラウが陰気に笑った。「ティカちゃん、たくさん指示してくれたもんね……日陰で、じっとしてるだけだったけど……」
「余計なことは言わなくていいんだよ、フラウ。とにかく、だ。自分で言い出したことの責任は、自分でとるのが大人ってもんでしょ。気まずいとか、子供みたいな理由で逃げるな。とっとと手をつなぐなり、キスするなり、一発ヤるなりして末永く爆発しろ」
ティカの乱暴な言い方に、アンナは顔を真っ赤にし、テーブルを叩いて立ち上がった。
「そっ、そんな破廉恥なこと、できるわけないでしょう……!?」
ティカが半眼になった。
「でも、キスはしたんでしょ」
「手は繋いでないもの!」
「妄想は?」
「毎晩してるに決まってるのだわ!」
「……うわ、してるんだ」
「そうよ! でもね、違うのよ! だからこそ問題なの!」
ティカがうんざりした顔をする。アンナは椅子に座り直して、繰り返した。
「ぜんぜん、違うのよ。わたくしの想像なんかよりもずっと、ルーさまの笑顔は子供みたいに可愛くて。頬が赤くなるくらいに照れてらっしゃって、わたくしの指を何度も撫でてくれて……」体の内側が浮き立つような感触を思い出して、アンナはぎゅうと黒のワンピースを握る。「なのに、わたくしったら、全然上手に受け答えできないの……ここ最近、ずっとそうなのよ……このままじゃ、嫌われちゃうのだわ……」
うっかりこみあげてしまった涙を、まばたきを繰り返してなんとか誤魔化す。
ティカが気まずそうに顔をしかめた。ややあって、彼女は食事をとってくるようにフラウへ頼み、隣に座っていたレイモンドの背を叩く。
うめき声を上げる彼に体を寄せて、ティカが早口で言った。
「ね、ねぇ! 聞いてないフリしないで、なんか言いなよ。ガリ勉男」
「ちょ、そういう言い方はないだろ。というか、俺は君たちの話なんて聞いてない」
レイモンドが顔をしかめた。ティカは眉をひそめ、「じゃあ」と尋ねる。
「アンナがルーとできていないことはなにか?」
「手をつなぐこと……あ」
反射的に答えたレイモンドが、しまったという顔つきになる。ティカは勝ち誇ったように鼻を鳴らした。
「ほらね、やっぱり聞いてたんじゃないか」
アンナはそろりと、レイモンドを見やった。彼は気まずそうに視線を泳がせ、ぼそぼそとティカへ反論する。
「俺がここにいるのは、おしゃべりのためじゃないんだ。部屋が暑くて、勉強に集中できなかったからで……そもそも、彼女を泣かせたのは君だろ。責任を押しつけないでくれるかな」
「う、うるさいなあ……!」ティカがますます気まずそうに反論する。「ボクは事実を言っただけで……」
「言えばいい、ってものじゃないだろ。配慮とか思慮とか……とにかく君は、そういうのをいい加減に勉強すべきで……洗濯物のたたみ方の時にも、話したけどさ……」
「はぁ? このタイミングで説教とかする? あのねえ、」
「あ、あのっ!」不穏な空気に、アンナは声をあげた。「わたくしは、大丈夫よ! 泣いてなんかないもの! ちょっと、その、泣きそうなだけで……っ」
沈黙が落ちた。ティカが居心地悪そうに身動ぎし、レイモンドがわざとらしく咳払いをする。
「ええと、だからその、なんというのかな」レイモンドはアンナのほうを向き、いささか明るすぎる声で言った。「ティカの言うとおり、ルーのことで心配する必要はないというか……彼も嫌ってはないんじゃないかな、君のこと」
「そ、れは……もちろんね、そうあってほしいと思うけれど……」ルーの名前が出てきて、アンナは再びしゅんと肩を落とす。「でもほら、わたくしって、騒がしい女じゃない。ルーさまに話しかけて頂けるだけで、子供みたいにはしゃいじゃうし……なによりね、ルーさまはティカさんのことが好きなのよ」
「それこそありえないってば」ティカがぶっきらぼうに言った。「というか、ボクはあいつのこと好きじゃないし」
「えっ」
一瞬だけ思考が止まり、次いでアンナは目を丸くした。
「ええええっ!? じゃあ、ルーさまの……片思い……!?」
「あー……アンナさん、待って。一つ確認したいんだけど」レイモンドが手を上げて制した。アンナが口を閉じたのを確認し、神妙な面持ちで尋ねる。「ルーが君のことをどう思ってるか……いや、こういう曖昧な聞き方は駄目だな……その、ルーは君に好きと伝えてないのか?」
アンナはぱちぱちと目を瞬かせ、首を傾ける。
「なにも、おっしゃってないけれど」
ティカとレイモンドは互いに顔を見あわせ、どちらからともなく呟いた。
「……それが原因か……」
「そう、それが原因なのさ!」
裏庭に快活な声が響き渡った。
夏のはじめに煉瓦を敷き直したばかりの道を踏み、青年が姿を表した。生成りのチュニックに黒のズボンという出で立ちで、白のフードは小脇に抱えている。ゆるく束ねた髪の色は白に近い銀で、うきうきとした様子で輝く目は若葉色だ。
そんな男は、上機嫌に言う。
「久しぶりだね、アンナ嬢! はじめまして、今年の魔女諸君! 皆から愛され頼りにされる兄貴分、謎めいた美貌に婦人方を惑わせてしまう罪な男、そして永遠の二十九歳ことアルヴィム・ハティ先生だよ!」
得意げに手を胸に当てて自己紹介をすませたアルヴィムへ、アンナは顔をしかめた。
なんといっても、春先に旅行へ行くと言いおいて、結局二ヶ月近くも帰ってこなかった男である。彼の発言が適当なのは今にはじまったことではないが、それにしたって今回のは無責任すぎだ。
「なにより、先生が来ると話がややこしくなるのだわ」
「あっはは、アンナ嬢。声に出てるよ? 繊細な俺の心が傷ついちゃうよ?」
「まぁ、先生。あえて言ってるんですのよ。気づいてくださって何より……あっ、ちょっと。どうして隣に座るの!」
「そりゃあ、俺は客人だからね。ところで、」胡乱な顔つきをするティカとレイモンドを見回し、アルヴィムは真面目な面持ちで頷いた。「君たち、鋭い。そうなんだよ。すべての原因は、ルーの言葉が致命的に足りてないところにある。だから俺は考えたわけ」
「えっと……」ティカが控えめに問いかけた。どうにかこうにか、お前は誰だよ、という問いを押し殺して、といった感じの口調だ。「何を考えたっていうの?」
アルヴィムが待ってましたとばかりに、ぱちりと指を鳴らす。
「俺たちでルーをたきつけてやるのさ! アンナ嬢の叔父君という最強の味方を使ってね!」
*****
妙な悪寒がして、ルーは眉をひそめた。
籐籠へスコーンを詰めていた手を止め、厨房を見渡す。露の浮いたガーデンカクテルの大瓶、日陰の食器棚、火のはいっていない煤けた炉。どこをとっても変化がない。
アンナが出ていって、代わりにディエンが厨房へやってきた。そのこと以外は。
洗い場に重ねた食器を拭いていた禿頭の大男は、ルーの視線に気づいて片眉をあげる。
「不愉快そうな顔だな」
「そう見えているのなら何より」ルーは淡々と返しながら、最後のスコーンを籐籠にいれた。「お前と一緒にいる時間ほど、無駄なものはない」
「まったく同感だ。俺もアンナ嬢に会いに来たというのにな」視界の端で、ディエンが肩をすくめる。「お前のせいで彼女が逃げてしまったんだから、どうしようもない」
「……僕のせいではないが?」
一緒に食事を準備している間の優しい時間と、つかんだ指先の柔らかなぬくもりと、戸惑いに揺れるアンナの美しい青の目。
それから、またしても伝えられなかった言葉。
思い出したくもない事の顛末を再認識したせいで、ルーの反論が一瞬遅れた。ディエンは両眉を上げ――明らかに馬鹿にしている――、朗らかに笑う。
「まぁ、心配するな。いざお前が失敗するとなっても、俺がいるからな」
ルーはむっとして応じる。
「意味が分からないな。情報伝達は正しくすべきじゃないのか」
「お前がふられたら、俺がアンナ嬢と付き合おう」
「ありえない」
「どっちがありえないんだ?」
言葉に詰まり、ルーは籐籠の蓋を握る手に力をこめる。
お前がアンナと付き合うほうに決まってるだろうが。そう吐き捨ててやりたいのをなんとかこらえられたのは、アンナを想うからこそだった。
彼女の気持ちは、彼女自身が決めるべきだと、ルーは思う。
昔とは違う。今の彼女はもう、血筋だとか肩書だとか、面倒なしがらみから解放されて自由のはずなのだから。
ちり、と頭の片隅で金属の擦れるような音がする。ルーはささやかな痛みとともに息を吐いた。その意味で、自分の気持ちもまた、彼女には強制できない。
あと一歩のところで逃げてしまった彼女の背中を思って、少しばかり気分が沈んだ。僕は彼女に、嫌われてはいない……はずだ。たぶん、おそらく。
そこで、かたん、というささやかな物音がした。
裏庭へ通じる勝手口が開き、ルーは眉をひそめる。
怯えた様子で入ってきたのはフラウだ。問題は、その後ろから顔をのぞかせた二人の子供である。
年の頃は十歳ほどだろうか。柔らかい金髪を短く切った男が一人、赤毛を三つ編みにした女が一人。薄汚れた麻の服とズボンは揃いの作りをしている。
双子らしき子供達は、何も言わないルーを見やり、それからディエンのほうを見て、ぱあっと顔を輝かせた。
「やっと見つけた! ダディ!」
*****
ビルツ邸の裏庭に、夏が訪れた。
みずみずしい葉の緑の間で、西洋人参木の青紫の花が揺れている。東屋や格子棚から降り注ぐ藤の蔓は、眩しい日差しをさえぎって、涼やかな影を地面に描いた。庭の最奥、野生薔薇の生育も順調だ。今はまばらに咲くばかりだが、これから秋にかけてたくさんの花が開くに違いない。
きらきらとした空気と、舞踏会が始まる直前のような弾ける寸前の陽気。
それらに祝福されて、記憶喪失の彼女と、地下牢の彼の、夏の物語が幕を開ける。




