第2話 泣く理由なんて、どこにもないだろうに
夜が明けて、擦り切れたソファの背もたれがほんのりと白んでも、アンナは眠ることができなかった。
暖炉に火を入れ、氷を溶かしたような冷水で顔を洗い、着古したワンピースを着て、硬いパンを食べる。その間中ずっと、眠りの君のことだけを考える。
どうして彼がいたのだろう。そもそもあれは本当に彼だったのか。いいや、見間違えるはずがない。じゃあ自分は、彼に銃を向けたのだ――何度も何度も繰り返した結論に至って、アンナは体を震わせた。
食べかけのパンをテーブルの端に寄せ、アンナは口元を手でおおった。そうでなければ、自己嫌悪のあまり吐いてしまいそうだった。仮にも好きと思った相手を、撃つなんて。
窓の外で、鳥が羽ばたく音がする。アンナはのろのろと顔を上げた。今日は晴天で、窓は結露で輝いている。静かで明るい朝だ。まるで昨日ことが夢のようだった。
彼は、やっぱり今も地下牢にいるのだろうか。
それとも、夢みたいに跡形もなく消えている?
いいや、もしかして昨日の銃弾のせいで死んでいるんじゃないか。なんの根拠もない想像に顔を青くして、アンナは立ち上がった。
もつれるようにして廊下を駆け、地下牢に飛び込んだアンナは息を呑む。
青年は、牢の中でうつ伏せに倒れていた。左手で押さえられた肩は黒っぽい血でべっとりと濡れ、額には汗が滲んでいる。薄く開いた唇から苦しげな息が漏れていて、それでやっと彼が生きているらしいことが分かった。
「眠りの君さま……」
アンナはそろりと名前を呼ぶが、答えはない。当たり前だ。彼は死にそうなんだから。
それで、自分は彼を見殺しにする? ひどく冷たい問いかけが胸中に浮かんで、アンナはぶるりと体を震わせた。駄目、駄目よ。見殺しなんて、そんなの。
一段とばしで地下牢の階段を駆け上った。屋敷中の薬瓶と包帯を集め、熱い湯を注いだ木筒と一緒に籐籠へいれる。書物室でばたばたと幾冊かの本を抜き取り、治療に関わる本を抱えてから、慌ただしく地下牢に戻った。
「止血帯……幅の広い帯でまんべんなく力をかけて結ぶ……流れている血が赤いなら鮮血……待って、今は黒いわ。なら、血が止まりかけてるということ? なら、こっちの項目の……」
眼鏡を外す。ざらざらの紙を乱暴にめくって、何度も読みこんだ文章を、さらに何回か読み返しながら、遠目に傷口を確認した。自信なんて一つもないまま、立ち上がる。牢屋の扉に手をかける。
入るな、という拒絶の声を思い出した。それを振り切るように牢の中に入った。
血で滑りやすい石床を進んで、青年のそばに膝をつく。小声で謝って、血まみれの青年の手を肩から外した。手は恐ろしいほどに冷たい。くぐもった声は掠れていて、べとつく血の臭いは死の香りそのものだ。
アンナはぎゅっと唇を噛んで、籐籠を引き寄せる。
本に書かれていたとおりに手を動かした。幸いにして傷口は浅かった。そして、乱雑に切られた薄布が何枚か――血を吸いすぎているせいで、何かの役に立っているとは思えなかったが――あてがわれてもいた。なんらかの処置がなされた後だったのだ。ならばどうして、彼はこんなに冷たい床の上で放置されているのだろう。分からなかった。
青年のことで、アンナが知っていることは何一つとしてない。
止血の布を取り替え、肩の周りにこびりついた血をぬぐい、汚れた服と傷口が触れ合わないように、さらに何枚か布を挟んで服を整えた。青白い顔の青年はやっぱり目を覚まさない。アンナはさらに本のページを幾枚かめくり、ラベルを慎重に確認して痛み止めの瓶を取り上げた。
丸薬を一つ、水とともに口に含んで細かく砕いた。ごめんなさい、ともう一度だけ心のなかで謝って、アンナは青年の口元に手を添えた。唇を重ねる。
「っ……や、めろ……!」
「あっ……」
思いのほか強い力で体を押され、アンナは尻もちをついた。渡しきれなかった苦い薬が口の中に滲む。青年はうつ伏せになって何度も咳き込んでいる。
薬を吐き出そうとしているのだ。その事に気づいて、アンナは「駄目よ」と声を震わせた。
「飲んで。お願い。痛み止めの薬なの。毒なんかじゃないから」
「……っ、必要……ない……」
「そんなことないわ。だって、すごく苦しそうじゃない。傷も、だって、血がいっぱいでてるのよ」
「……必要、ない……」
「必要ないわけ、ないじゃない!」
アンナは泣きながら、床に転がった薬瓶をつかんだ。新しい丸薬を奥歯で噛んで、「ほら!」と声をかける。
「毒なんてないわ! だからお願い、飲んで……! このままじゃ死んじゃう……! そんなの、駄目! 駄目なのよ……!」
青年が、ぐっと押し黙った。湿った衣擦れの音がして、アンナはまた突き放されるのかもしれないと、身を固くした。違った。
青年が、アンナの胸元をつかんで弱々しく引き寄せる。再び唇が重なって、アンナは目を見開いた。口の中をまさぐる舌は熱い。苦くて、血の味がする。
唾液を飲み込む密やかな音とともに、青年がアンナを離した。口元を手で拭い、顔を背ける。
「塩辛い……」
「……塩、辛い……のは……」アンナは呆然と呟いた。「分からないわ……なにもいれてないはずだけれど……」
「君が泣いているせいだろう。泣く理由なんて、どこにもないだろうに……悪いが、せめて牢の外に出てくれ……殺してしまうかもしれない」
アンナはぼんやりと頷いて立ち上がった。青年が苦労して鉄格子に背を預けたので、アンナも同じ場所に背を向けて座り膝を抱える。
牢の天井につけられた小窓から、鳥のはばたく声がした。痛みに耐えるような青年の息遣いは相変わらずで、アンナは彼の気でも紛らわせようと口を開く。
「殺すっていうのは、どういうことか訊いてもかまわない……?」
「……命じられたからだ。僕は逆らえない」
「あなたをこの牢から出した人に?」
「そうだ」
「あなたは……」アンナはあちこちが欠けた石床をじっと見つめた。「王狼と呼ばれていたわ。それが名前なの?」
「名前ではない。〈王狼〉は僕以外に与えられるべき過去の栄光だから」
最後の返事はぶっきらぼうだけれど、どこか滲むような優しさもある。アンナは思わず聞き惚れた。こんな声も出せるのだわ、と思うと胸が甘く痛む。
短い沈黙のあと、「それで」と青年が尋ねる。
「君はどうしてあんな場所に?」
ふわふわと浮かれていたアンナは、我に返った。そうだ、わたくしは彼のことを撃ったのよ。昨晩の恐ろしいほどの寒さを思い出して、アンナはぎゅっと己の体を縮こまらせる。
「……ごめんなさい。あなたに怪我をさせてしまったわ……」
「自己防衛という意味では正しい選択だったのだから、気にしなくていい」
「でも、」
「それよりも、君の置かれた状況を教えてくれ。真夜中の屋敷を逃げ回るなんて、どう考えたっておかしい」
「おかしくはないわ。毎晩のことだもの」
「毎晩?」
「そうよ」
当たり前のことのはずなのに、青年に咎めるように問われて恥ずかしくなる。血に濡れた指先を擦りながら、アンナはぼそぼそと続けた。
「三年前の革命で、この国からは貴族がいなくなったでしょう。この屋敷だって例外じゃないわ。だからアンナ・ビルツは空っぽの屋敷に住むようになった」
記憶喪失のアンナにできるのは、書物の内容をそらんじることだけだ。それはけれど、人間の記憶よりもよっぽど正確なはずだ。
「ビルツ邸には花々の咲き乱れる裏庭があって、あんな革命の後でも街の人達は残しておくことを望んでいた。でも、誰も庭師として屋敷に来たがらない。だからアンナ・ビルツは魔女とともに庭の手入れをすることにしたの。年に一度、国中から何人かの男女を選んで、庭を育てるのよ。冬の終わりに選ばれた魔女たちは、春に種をまいて、夏に花弁を集めて、秋の煌華祭で花を炎にくべて屋敷を去る」
書いてあるとおりの言葉をなぞるのは簡単で、アンナの気持ちを落ち着かせた。感情が込められていなければ、なにかを感じる暇だってない。
「アンナ・ビルツは、きっとうまくやっていたのね。でも、わたくしはそうではなかった。秋が来るまでに魔女を殺してしまったの。毎晩わたくしを追いかけているのは、最後の生き残りよ。彼は敵討ちのために、わたくしを殺そうとしている。そしてわたくしの婚約者は、夜にだけ狩りをする許可を与えたのだわ。冬の夜は長くて、狩りは貴族たちの暇つぶしだったから」
アンナは口を閉じた。返事はない。退屈させてしまったかしら、と心配になり、アンナは冷たい石床に手をついた。
振り返ろうとしたところで、青年に手を握られる。
「やっぱりおかしいじゃないか」
ぶっきらぼうな声音は、今度は苛立っているようにも聞こえて、アンナは振り返ることができなくなってしまう。
もう一度、石床に目を落とした。ささやかな光は、アンナたちのところまでは届かない。青年の手は見た目に似合わず荒れていて、冷たいのに暖かい。そんな些細なことで、けれど、せっかく止まった涙を流すわけにもいかなかった。
だから、小さく鼻をすすって、アンナは「えへへ」とわざとらしく笑ってみる。
「手をつなげて嬉しいのだわ。まるで恋人みたい」
「……こんな場所、恋人にはふさわしくないだろう」
「あら、場所なんて関係ないのよ。例えば、そう。わたくしがこの前読んだ浪漫小説ではね……」
せっかくだからと、アンナは最近読んだもののなかでも、とびきり甘くて危うい恋愛小説について話し始めた。面倒くさそうな――正確にいうなら、「それを僕に聞くのか」と言わんばかりのやりづらそうな――青年の返事が、穏やかな寝息にかわるまで。