第1話 おはようございます、眠りの君さま
どうせなるなら、お姫様がいいわ。誰か助けてって泣いたときには、とびきりかっこいい王子様が助けに来てくれるの。
リリア。あなたときたら、そんなわたくしの言葉を笑っていたわね。「そんな人はどこにも存在しないし、アンナは助けてなんて泣かないでしょう」って。
でも残念。あなたの言葉が半分はずれってことが今日証明されたわ。だって今、信じられないくらい綺麗な男の人がわたくしの目の前に眠っているんですもの。
「……眠ってなどいない」
「あら」しゃがみこんで男の顔を眺めていたアンナは、ぱっと顔を輝かせた。「あらあら、まあまあ! おはようございます! とっても奇遇ね! わたくしも今ちょうど通りがかったところでね、ええもちろん偶然よ! それにしたって、こうやって目を覚ましてお話できる日がくるなんて! 一刻ごとに様子を見に来たかいがあったわ!」
「息をするように矛盾するな、君は」
表情に乏しく、されど声音だけはうんざりした様子で男が返す。おりしも小さな天窓から、朝一番の冬の日差しが差し込んで彼を照らした。
素晴らしいタイミングだわ。アンナはうっとりと思いながら、瓶底眼鏡をかけなおした。当然、男の顔はぼやけて見にくくなるが、心の写真帳にはしっかりと納めてある。
色白で黒髪の、美しい青年だ。上下そろいの着古した服は黒色。なのに、不清潔な感じはどこにもない。肉食の獣が日陰で休んでいるときのような、ほんの少しの気怠さと凛とした雰囲気を漂わせている。上背はアンナよりもあると思う。思うというのは、彼が立ったところを見たことがないせいだ。
青年は、今日も石壁に背を預けて眠っていた。石造りの床の上だ。そして、アンナと彼を隔てるのは無骨な鉄格子。
ひと月前、アンナはこの地下牢で眠れる青年を見つけた。その間、一度だって目を覚まさなかった彼につけた渾身の呼び名はこうだ。
「眠りの君さま……」
アンナがほれぼれと呟けば、微妙な沈黙のあとに青年がゆっくりと問うた。
「何の目的で、ここに来た。アンナ・ビルツ」
「まあ嬉しい! わたくしの名前をご存知なの?」
「この国で、君の名前を知らない人間はいない……なんだ、その気持ち悪い笑みは」
「えっへへ……だって、憧れの眠りの君さまに名前を呼んでもらったんですもの! 胸がきゅってなるわ! ときめきなのだわ!」
「……もう終わりでいいか」
「あーん、待って待って! もっとお話しましょ! せっかく数百年ぶりのお目覚めなのだもの……あっ、ごめんなさい! これはわたくしの妄想の話だったわ!」
呆れたような青年の沈黙を無視して、アンナはぴんっと指を立てた。
「さっき目的はなにかと仰ってたわね。よろしい、お答えしましょう。わたくしは屋敷を散歩していたの。せっかくだから、あちこち扉を開けてね。そうしたらなんとびっくり、階段下の物置に階段があったというわけ。実際ここは地下ではなくて、半地下だけれど。ところで眠りの君さま、あなたはどうしてこんなところに? やっぱり、悪い魔女に呪いをかけられてしまったのかしら? 姫を助けることができずに、長い眠りについてらっしゃったとか? それにしたって、本当に美しいお顔だわ。一体どこの方なんでしょう? あぁ大丈夫よ。これでもわたくし、古い地図もしっかり読み込んでるから、地理には詳しくて……うん? 眠りの君さま? 死んだ魚のような目をして、どうなさったの?」
「……君の子供みたいな質問量にうんざりしているだけだ」
「まあ」アンナは目をぱちりと瞬かせたあと、微笑んだ。「それなら良かったわ。てっきり体調が良くないのかと。もうすぐ春とはいえ、ここはひどく寒いもの」
「薄着の君に言われたくはない」
「心配してくれるのね。でも大丈夫よ。慣れているから」
くたびれた灰色のワンピースをはたいて、アンナは立ち上がった。牢屋の扉を軋ませて開ける。鍵は必要ない。最初からかかっていないのだから当然だ。
ならば彼は、どうして地下牢にいるのだろう。浮かんだ疑問はけれど、彼がうんざりするだろうから胸に留めておいた。
「というわけで、眠りの君さま。せっかくだから上の部屋に行きましょう? お話はいつだって、おいしいお茶と菓子を囲んですべきだわ」
「断る」
「えっ」
アンナが間抜けな声をあげる間にも、青年は目を閉じてしまった。まるでこれ以上の理由は必要ないと言わんばかりだったし、実際、彼の言葉の続きもない。
少し迷ったあと、アンナはおずおずと声をかける。
「でも、ここは寒いわ。体に良くないでしょう?」
「必要ない」
「霜が降りることだってあるでしょうし」
「厳冬の山を歩くのに比べれば、はるかにましだ」
「その……わたくしがうるさいと言うのならば、どこか別の部屋に行きますから」
「……君のせいじゃない」
最後のほうのアンナの声はずいぶんと小さかったけれど、青年には聞こえたようだ。
うんざりしたような、でもどこか柔らかな声音の返事のあとで、青年がまぶたを上げた。灰をまぶした炎色の目がアンナに向けられる。
「命令がない。だから僕はここから出られない。それだけのことだ」
*****
あのとき命令していたら、彼は出られたのかしらと、アンナは考える。
月のない夜を迎えた、ビルツ邸の廊下だった。青黒い冬の闇のなかに、人の姿はない。眼鏡を外してそれを確認したアンナは、柱の陰で寒さに身震いする。動きやすいように着替えた男物のシャツとズボンのなかで、体を縮こまらせた。
結局、眠りの君が牢から出ることはなかった。あれきり本当に、何も言わなくなってしまったからだ。そしてアンナが、どうしても彼に命令できなかったから。
運悪く今日は冷え込んでいて、廊下でさえ寒い。きっとあの地下牢は凍えるほどだろう。やっぱり、無理矢理にでも彼を連れ出すべきだったかしら。ちょっとばかり弱気になりかけて、アンナはぶんぶんと首を横に振った。
だからって、命令は良くないわ。わたくしは彼と、主従になりたいのではないのだもの。
代わりに、なにか温かいものを彼に届けましょう。そのためにも、今夜も生き残らなくては。アンナが小さな決意を新たにしたところで、足音が聞こえる。
白い指先をきゅっと握り込み、アンナは眼鏡をかけなおした。心の中だけで三つ数えて、廊下へ飛び出す。
間髪いれずに銃声が響いた。一発目は偶然外れた。二発目の前に、枯れた鉢植えの観葉植物を引き倒した。銃弾が陶器を砕く音を聞きながら、アンナは一階に通じる階段にたどり着いた。
手すりを背に振り返る。
男が銃をかまえている。ぼろぼろの狩人の服に、目だけが飢えた獣のようにぎらついていた。垢まみれの削げた頬を動かして、男が呻く。
「いい加減に死んでくれ」
「いいえ」アンナは慎重に眼鏡をずらしながら言った。「わたくしは死にたくないの」
男の猟銃だけを見て、アンナは呟く。
『深緑の慟哭』
猟銃が破裂し、深緑の光を散らして消えた。驚きはない。
男の武器は彼の魔女としての力そのもので、アンナの目は魔女を殺すものなのだから。
男の悪態に背を向けて、アンナは踊り場から身を投じた。二階から一階までの高さはさほどないし、飛び降りも初めてではなかった。両足ですりきれた絨毯を踏んで着地する。じんと痺れるような痛みに呼吸一つぶんだけ耐えて、アンナはよろよろと客間に向かった。
ソファの陰に身を潜める。冬の夜、狩りの時間を迎えたビルツ邸でアンナができることは多くはない。逃げること、身を潜めること、そして狩人の男を傷つけないようにして武器を消すこと。日が昇れば狩りの時間は終わりで、穏やかな屋敷の時間が戻ってくる。だからそれまで耐えればいい。
そういう遊戯なのだからな、と薄ら笑いを浮かべて言ったのは、アンナの婚約者だった。貴族たちの冬の暇つぶしさ。お前だって、革命の前は興じていたんじゃないか。血濡れの革命家。裏切り者の王女。なぁ、アンナ・ビルツ。そうだろう?
憂鬱になりそうになって、アンナはかじかんだ指先を強くこする。駄目よ、楽しいことを考えて、と言い聞かせた。
いつもならば決まって、屋敷の裏庭を思い浮かべるところだ。それは春の柔らかな土にまく花の種であり、夏の光を弾いて輝く東屋の新緑であり、秋空に舞う野生薔薇の花びらでもあった。
けれど今日は違う。
目を閉じた途端に、眠りの君の端正な面立ちが浮かんで、アンナはにやけそうになる頬の内側をきゅっと噛んだ。やっぱり彼はかっこいい。
暁間近の空を思わせる黒髪も、どこか物憂げな横顔も、灰をまぶした炎の色の瞳も、どこを切り取っても惚れ惚れするほど美しくて、少し寂しげで。胸がぎゅっと苦しくて、でもじんわりと暖かくなる。
間違いない。これはきっと初恋で、一目惚れで、愛というものなのだ。
そうやって甘い暖かさを噛み締めたところで、アンナは窓の外が白み始めている事に気づいた。ほっと胸をなでおろす。
狩りの時間は終わった。じきに、ビルツ邸の穏やかな朝が始まるだろう。
*****
短い眠りから覚めたアンナは、いつものワンピースに着替え、午前中をたっぷりと使ってビーフシチューとサラダを準備した。冷えたパンを暖炉のそばに置いて温め、毛布と一緒に籐籠へいれて地下牢へ続く階段を降りる。
「眠りの君さま」
名前を呼びながら階段を降りきったアンナは、はたと足を止めた。黒髪の青年は壁に背を預けて眠っている。
足音を忍ばせて鉄格子に近づいたアンナは、これまたいつもと同じようにしゃがみこんで、眼鏡をそっとずらした。
陽光を弾く黒髪に滲むような青が混じっていること、思いのほかまつげが長いこと、眠っていても眉間に皺を寄せていること。貴公子のような整った顔立ちなのに、手は骨ばっていて、男の人という感じなのだ。いくつかの新たな発見は、心臓を甘くざわつかせ、アンナは悩ましく息をつく。
「んんん……眠りの君さま……」
「……妙な声をだすのはやめてくれ」
平坦な返事とともに、青年が目を開けた。無感動だけれど、ほんの少し迷惑そうな視線だ。瓶底眼鏡を押し上げながら、アンナはうきうきと声をかける。
「おはようございます、眠りの君さま。今日もとってもいい朝ね」
「何をしに来た」
「それはもちろん、お世話を……あっ、待って、待って! お世話って、決して変な意味ではないのよ!? 夜の営みとか、そういう意味ではなくてね!?」
「要件を言え。手短に」
アンナは手元の籐籠を引き寄せた。
「食事を準備してきたの」
青年が半眼になり、次いでふいと顔をそむけた。
「必要ない」
「こっちは毛布よ。三日前に干したばかりだから、虫除けのセージの香りもしないはず」
「必要ない」
「それからこれは本」
「必要ない」
「ええもちろん」アンナはすまし顔で本を揺らした。「わたくしが読むために持ってきたのですもの」
青年が唇を引き結んだ。どこか子供らしい沈黙が愛おしくて、アンナはこらえきれずに笑う。
毛布を格子の間から差し入れて、アンナは冷たい石の床に座った。本を開いたところで、青年がぼそりと言う。
「こんな寒い場所に居座るつもりか」
「大丈夫よ。これくらい慣れっこなのだわ」
「他にもやることがあるだろう」
「それも大丈夫。夕飯の支度もしたし、冬だから花の世話もないわ。読書だけがわたくしの仕事よ」
「そんなはずは」アンナがちらと顔を上げれば、青年が一度口を閉じたあと、目をそらした。「……読書が仕事の人間なんていないだろう」
「わたくしには、去年の冬より前の記憶がないの」
黙り込んでしまった青年に、アンナは肩をすくめた。
彼女が目を覚ましたのは、書物室だった。千切れた本の紙片がばらまかれていて、足元には黒光りする拳銃が落ちていた。窓には映っていたのは、蒼白な面持ちの若い女だ。肩に少しかかるくらいの灰色の髪と、凍りついた青色の目をしている彼女が自分であるということに気づくのに、少しだけ時間がかかった。
自分が何者かわからない。典型的でありふれた記憶喪失だ。
アンナは本を閉じて、表紙に手をおく。
「でも、本には過去が書かれているでしょう? だから、たくさん読めば欠けた記憶も補えるはず」
「本気で言ってるのか」
「もちろん」怪訝な顔をする青年へ、アンナは微笑む。「だって、アンナ・ビルツは有名人ですもの」
彼女の写真や絵姿はない。けれど多くの書物が、彼女について記している。
アンナ・ビルツは、この国の最後の王女だった。王と貴族の圧政に苦しむ民を救うため、彼女は革命を起こし、成功させた。貴族は粛清され、ほとんどの王族は断頭台の露と消えた。三年前の話だ。
その後の革命家は表舞台から身を引き、婚約者とともに屋敷で暮らすこととなる。春になれば国中から魔女を集め、夏を共に過ごし、秋に魔女たちを見送る。そんな日々だ。
わたくしがアンナ・ビルツと同じ人生を歩めているかは、分からないけれど。腹の底をちりと焼くような不安から逃げるように、アンナは明るく言った。
「いずれにせよ、読書は楽しいわ。花咲く楽園の美しさも、真夏の青葉のみずみずしさも、冬の寒さをしのぐ二人きりのぬくもりも、なんだって書いてあるのだもの。世界は美しいし、わたくしたちは世界に愛されている。文字を読むだけでそれを感じられるのって、素晴らしいことだと思わない?」
「……世界は僕たちを愛してなんかいない」
青年の声が急に低くなった。アンナが顔を向けたときにはもう、彼は目を閉じている。
「眠ってしまわれるの? せめて、ご飯だけでも食べたほうがいいんじゃなくて?」
「必要ない」
「でも」純粋に青年の体調が心配になったアンナは、ビーフシチューを持って立ち上がった。「もうずっと食べてないでしょう? 体に良くないわ。動けないのなら、わたくしが持っていって、」
「入るな」
警告に満ちた鋭い声に、アンナは牢屋の扉にかけていた手を引っ込めた。冷え切った鉄の温度が、指先に切り裂くような痛みを残す。
名前を呼んでも、もう返事はなかった。アンナはきゅっと唇を噛み、それでもと心の中で呟いて、料理の皿を格子の前に置く。
とぼとぼと階段を登って地下牢を出た。日が落ちる寸前にもう一度だけ青年の様子を見に行ったが、料理は一口も食べられぬまま、冷たい暗闇に放置されていた。
*****
冬の夜の空気は凍りつくほどで、鳥の鳴き声は氷を叩き割る音に似ている。
使われていない寝室に身を潜めたアンナは、閉じた扉に耳を当てていた。足音が聞こえないか確かめたかったからだ。けれど気になるのは耳障りな鳥の鳴き声ばかりで、少しだって集中できない。
嘘だ。ずっとずっと、頭の中で繰り返し響いているのは彼の声だった。必要ない。突き放すような、拒絶の言葉だけ。
アンナは床に目を落とす。氷の柱を突き立てられたみたいに、心臓が痛い。わたくしのせいだわ。おしゃべりしすぎてしまったせい。うるさい口を閉じて本だけを読んでいればいいと、婚約者も言っていたのに。浮かれていた自分が恥ずかしい。
愛だとか、恋だとか。お前には一番似合わない言葉じゃないか。なぁ、アンナ・ビルツ。
薄ら笑いの婚約者の言葉をなんとか思考の隅に追いやって、アンナは冷たいドアノブをひねって外に出る。
どんな時間を過ごしたところで、夜になれば狩りが始まるのだ。この日も、暗い廊下をいくばくか歩いたところで、かちゃりと金属の響き合う音がした。
アンナは振り返る。青黒い闇に沈む廊下で、例の狩人の男が銃口を向けている。発砲音が響く寸前で、アンナは廊下の端へ転がるように駆けた。頬をかすめるような痛みがあって、足が止まりそうになる。
駄目よ。怖がらないで。いつもどおりに。己に強く言い聞かせて、アンナは男に向かって歩を進めた。冷たい眼鏡をずらして叫ぶ。
『深緑の慟哭!』
放たれた銃弾三発がアンナの眼前でかき消える。怯んだ男を体当りで突き倒し、アンナは銃へ手を伸ばした。
「暴れないで! あなたを傷つけるつもりはないわ!」
「どの口が! お前がヨハネスたちを殺したんじゃないか! 魔女殺し!」
「っ、それは、」
なんとか猟銃をもぎとった瞬間、男に右頬を強く殴られた。眼鏡が外れ、アンナは地面に倒れ込む。近づいてくる男に、アンナは慌てて目を隠した。
「見ないで!」
男の手は止まらなかった。だが、アンナに届くこともなかった。
夜色の影が、二人の間に割ってはいったからだ。影が男を突き放して振り返る。それは人間だ。右手に持った短剣が月明かりを弾いている。
だが、味方ではなかった。
短剣の切っ先も、凍えるような殺気もアンナに向けられていたからだ。
恐怖のまま、彼女は猟銃の引き金を引いた。男の肩のあたりで鮮血が散って、動きが止まる。そう、相手は男だ。美しい青年。背が高く、青の滲む黒髪を持つ。
アンナは銃を中途半端に構えたまま、呆然と呟いた。
「……眠りの君さま……」
牢の中にいるはずの青年は、返事をしなかった。灰をまぶした炎の瞳を凍りつかせたまま、しばらくして廊下の奥から響いた呼び声にぴくりと体を震わせて身を翻す。
呼ばれたのは、きっと青年の名前だったのだ。
『王狼』というのは、まさに彼にぴったりの響きだったから。