68 days left ③
誤字報告ありがとうございます。
「私は……レイラ・リンドグレーンと申します」
「……レイラ・リンドグレーン?」
「はい。ひと月前、中央公園で事故に遭いました」
私が意を決して自分の正体を明かすと、リチャード様が息を飲んだのがわかった。
「あの日、私は婚約者と待ち合わせをしておりました。婚約者を呼び出したのは私です。私は……いいえ、私達は婚約についてお互いに話し合う必要がありました。彼の考え次第では、婚約を考え直さねばならなかったからです」
あの場にどうしてレイラがいたのか。自分がレイラである事を証明するためには、詳しく話した方が良いだろう——そう判断した私は、戸惑いを隠せない様子のリチャード様の反応をうかがいながら、説明を続ける事にした。
「彼と待ち合わせの時間を少し回った頃でした。いつもならば少し早く来て待っている彼ですが、あの日はそうではありませんでした。そんな時、こちらに真っ直ぐ走ってくる馬を見て……腰が抜けて座り込んでしまい……そんな時、誰かが私に覆い被さってくれたのですが、今思うとそれがアンナ様だったのではないかと……」
ダニエル医師の話を聞いた上での憶測ではある。幸い、馬に踏まれたのではなく、私たちの目の前で急に進行方向を変えようとしてバランスを崩した馬から鞍などの馬具が落ちてきてそれらで全身を打撲したらしいが、幸い骨折や最悪の場合死に至るような怪我をせずに済んだとか。
「護衛は連れていなかったのか?」
「少々込み入った話をするつもりでしたので、少し離れた場所で控えさせておりました」
「どうしてアンナの身体に?」
「わかりません。誰かが覆い被さったと思った途端に気を失ったんだと思います。その後は、気付いたら公爵家のアンナ様の寝室でしたから。むしろどうしてこうなったのか私が聞きたいくらいです。それに……自分の身体がどうなっているのか……とても、気になります……」
リチャード様は、考え込むような素振りを見せた。
「事故にあった経緯はわかった。それで、お前がレイラ・リンドグレーンであるとどう証明する?」
リチャード様にそう言われるのは想定済みだ。
「あの日、婚約者を呼び出した理由も、どんな話をするつもりだったのかも、私の兄——次兄のレイモンド・リンドグレーンが知っております。兄は王宮勤めですので、出勤時か帰宅時を狙って城門へ行けば比較的容易に会えるかと」
何なら、私しか知り得ない兄との思い出を話して兄に判断して貰えばいい。
「レイモンド・リンドグレーンならば面識はある。親しくはないが、学院の同窓だった」
あの妹馬鹿か……という呟きは聞かなかった事にする。
親しくはなくとも、面識があるならば話は早い。
「もしかしたら、レイラ嬢の身体にアンナが、という可能性もあるわけか……それについても、レイモンド・リンドグレーンに確認しよう」
「それは、私も知りたいです!」
「確認したら、必ず伝えると約束する」
出来れば兄に会いたいけれど、顔見知り程度ならばあまり無理を言ってもいけないだろう。
「それでは、私の質問に答えて頂いてもよろしいでしょうか?」
私がそう尋ねると、彼はとても気まずそうな顔をした。
「その前に、詫びねばならない。失礼な態度を取って悪かった。レイラ嬢だって不安だったはずだ。なのに、試すような真似をし、問い詰めて申し訳なかった」
「別に構いません。実際、私はアンナ様のふりをして過ごしていたわけですし」
あっさり頭を下げたリチャード様には驚いたが、素直に過ちを認められる人には好感が持てる。
秘密を共有した相手が、直感ではあるけれど信頼できそうな人でよかった。
「俺は、リチャード・モルテンソン。ダニエル・モルテンソンの息子だ。アンナとエレナの従弟にあたる」
リチャード様の話によると、彼はアンナ様と共に幼い頃から領地経営について学んでいるという。現在はアンナ様の部下として、新たな特産物を開発しながら、領地の一部を任されているらしい。
本来ならば、アンナ様の夫となる人の補佐をする予定だったらしいが、アンナ様の婚約が解消されてからは、アンナ様と一緒に、アンナ様が事故にあってからはほとんど一人でその役割を担ってきたのだという。
「先程レイラ嬢に出したのは、アンナと共に東方の国で飲まれている茶の製法を参考に、我々が製品化しようとしている試作品だ。公爵領の一部地域では以前から茶の木を栽培していたのだが……普通に加工してもあまりパッとしないから安い値しかつかない。エレナの呟きがきっかけでアンナと二人、試行錯誤を繰り返してここまで辿り着いたんだ」
そんな思い入れの強いものならば、私の感想で確信を持つのも納得だ。
「東方の不発酵茶を好んで飲んでいたのはエレナだ。『毎日でも飲みたい』と言うくらいにね。『じゃあ作ろう』と言い出したのはアンナで、俺は散々振り回された。生産者と試行錯誤を重ね、何度も何度もアンナにダメ出しを食らって、やっと納得できるものが完成したと思ったら、『初めて飲んだ』ときたもんだ」
「……アンナ様ではないと気付かれて当然ですね」
ネルさんとの会話が増え、アンナ様の情報を得ていった私は気が大きくなっていたのだ。
調子に乗ると碌なことがないなんて、当たり前のことなのに。
「いや、俺とネルしかおそらく気付いていない。父は医者としての知見から、おそらくその考えに至る前に、医学的なアプローチで別の可能性を見つけてしまうせいもあるが」
私とほとんど毎日会話を交わしているのは主にダニエル医師とネルさんだけだ。公爵夫人とはお茶を飲んで以来顔を合わせていないし、他の使用人ともほとんど直接のやり取りはない。
「アンナの記憶が部分的に欠損している可能性を父から聞かされていた。事故からしばらく目覚めなかったのは、強く頭を打った可能性があると考えたらしい。ただ、外傷がない事から、頭を打った衝撃より心因的な原因も考えられるそうだ。そういう訳で、余計なストレスをかけて悪化するのを恐れて記憶の欠損についてレイラ嬢に伝える事は控えたらしいが、一応邸のものには周知しているらしい」
「それもあって、周囲の方や公爵夫人にこれまで私の不自然さを指摘されることがなかったのですね」
「……まあ、そうだな」
リチャード様は私から目を逸らして、気まずそうに言った。
「夫人の場合は、不自然な事にすら気付いていない程、アンナに興味がないと言った方が正しいかもな……」
リチャード様の辛そうな表情を見たら、なんだか私の方が悲しくなってしまった。
「それよりもだ。レイラ嬢は元に戻りたいんだよな?」
「はい、もちろんです」
「俺としても、アンナに戻ってもらわないと困る」
「私も、微力ながらお手伝いさせて頂きます」
きっとリチャード様にはとっても、ネルさんにとっても、アンナ様は大切な人だったのだろう。
私が……レイラが私ではないという事に家族や婚約者は気付いているのか……そう思うとチクリと胸が痛んだ。