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68 days left ②

 ダニエル医師の遣いだというリチャード様は、愛想の良い青年だ。

 顔立ちが整っているのに、彼の纏う柔らかな雰囲気だとか口調のせいか近寄り難さはない。

 彼のニコニコと人好きのする笑顔は、初対面だとは思えないくらいの安心感を与えてくれるし、こちらも気負わずに済むので非常にありがたい。


「刺繍をされていたのですか?」

「ええ」


 彼は私の座るベンチの隣に置かれたカゴへ視線を向け、私へそう尋ねた。


「モチーフはライラックですか? 少し見せて頂いても?」

「途中なのですが……どうぞ」


 手を差し出されたので、枠をはめたままのハンカチを渡す。

 花の部分は差し終えて、葉の刺繍をしている途中だ。


「本当に見事ですね。とても繊細で綺麗だ……」


 ライラックの小さな花を一つ一つを丁寧に刺すのはとても根気のいる作業だった。1本どりで丁寧に刺繍していくのはとても繊細な作業でもあり、それは伝わった事が嬉しい。

 刺繍を見る彼の視線はとても真剣だ。男の人なのに珍しいと思ってしまう。


「お褒めいただきありがとうございます」


 私がそう声をかけると、彼は驚いたように顔を上げた。


「刺繍がお得意なのですね」

「得意か苦手か……どちらかで答えるならば得意ですけれど、得意というよりも、好きという方がしっくりきますね」

「好き、なのですか……」


 なぜか、そう言って彼は黙り込んでしまった。

 先程までの笑顔も消え、なんとも言えぬ気まずい空気が流れる。私は変な事を言ってしまったのだろうか。


「そういえば、ダニエル様の遣いだと伺ったのですが、どういったご用件ですか?」


 慌てて話題を変えると、リチャード様の顔に笑みが戻ったのでホッとする。


「アンナ嬢に快気祝いをお届けに参りました。東方の国の茶です。香りも色も紅茶とは全く違うのですが、紅茶と同じ茶葉から作られているそうですよ」

「珍しいものをありがとうございます」

「お嬢様、せっかくですので、頂いたお茶をお淹れしましょうか?」

「是非そうしてください。贈り主にも感想を伝えますので」


 リチャード様がそう言ってくれたので、そうさせていただく事にする。

 東方の国のお茶は、淡いグリーンをしていると聞いた事がある。鮮度が品質を左右するらしく、とても貴重なものなのだ。そのため、実際見るのも飲むのも初めてだ。

 流石ネルさんは公爵家のメイドなだけある。珍しく貴重なお茶の淹れ方も心得ているらしく、とても手慣れた様子だ。


「香りを活かすため、湯は少し冷ましてから淹れるのがポイントなのですよ。紅茶と同じように淹れてしまうと、苦味や雑味も出てしまいますし」

「リチャード様はお詳しいのですね」

「ただの受け売りの知識ですよ」


 ガラスのティーポットから注がれる水色は、とても綺麗な黄緑色だった。

 それから、少し遅れてふんわりと香る、青くて甘い香り。


「綺麗……」

「透き通って、とても美しいでしょう? 香りが飛ばないうちに、是非お召し上がり下さい」

「頂きます」


 一口含むと、まず感じるのはフレッシュな香り、そしてまろやかな甘み。それからほんのり感じるほろ苦さが追いかけてくる。


「初めて頂きましたが、とても美味しいですね。味も香りも、とても好みです」


 私は、率直な感想を伝えた。本当に美味しいのだ。

 けれど、私のその感想を聞いたリチャード様の顔からすっと笑みが消え、真顔になる。先程までの雰囲気とは一変し、まるで別人みたいだ。

 真顔になると、顔が更に美しく整って見える。美形の真顔は怖い。まるで怒っているみたいだ。


 いや、怒っているみたいなのではなく実際怒っているのかもしれない。

 視線は鋭く、眉間には皺がよっている。それに、とても不機嫌そうだ。


 彼の気に障るような事を言ったつもりはなかった。

 初めましての相手に対して、失礼な態度は取っていない。先程までは和やかに会話をしていたはずなのに、おかしい。


 彼の態度は、私が頂いたお茶の感想を伝えた途端に豹変した。

 あの感想のどこが悪かったのか?

 いや、悪かったとは思えない。


 戸惑う私に対し、リチャード様の顔はどんどん険しいものへと変化してゆく。気付けば、明らかに彼は私を睨みつけていた。


「お前は、誰だ?」

「……え?」

「お前は誰だと聞いている」


 先程までの朗らかな声が嘘のように、低くドスの効いた声には、わかりやすく怒りを孕んでいた。


「お前、アンナじゃないだろう? ならば、誰だ?」


 彼は、会うなり「初めまして」と言ったのに、どうやらアンナ様とは初めましてではなかったらしい。それどころか、敬称を付けないあたり、随分と親しい関係だったように思える。

 チラリとネルさんを見ると、真顔の彼女と目が合った。


「……初めましてと返された時は、ふざけるなと思ったけどな。どうやら本当に初めましてだったらしい。せっせと刺繍をしているからエレナがアンナの身体を乗っ取った可能性も考えたが、そういうわけでもなさそうだ」


 エレナ様がアンナ様の身体を乗っ取る——その発想が出来る人ならば、私の事を話したら信じてもらえるかもしれない。


「アンナは刺繍が嫌いだ。ある日突然、必要ないからと道具をあっけなく手放してしまうくらいな」


 ああ、そうか。だからネルさんが用意してくれた道具は新品だったのだ。

 ネルさんはきっと私がアンナ様ではないととっくに気付いていたに違いない。


「……気付いていたなら、どうしてもっと早くに言ってくれなかったの?」


 私はネルさんに問いかけた。リチャード様を無視する形になってしまうが、ひと月一緒に過ごした彼女が黙っていた理由が知りたかった。


「アンナ様である確信も、アンナ様ではないという確信もなかったからです」


 温度のない声だった。表情からもなんの感情も読み取れない。


「奥様に対する態度、食べ物の好み、ふとした時の仕草はアンナ様とそっくりなのです。それに、アンナお嬢様が刺繍をお嫌いだと仰るようになった経緯を考えると、時間のたっぷりある今ならば、奥様の勧めで再開される事もあり得なくはないと思ったのです……。どうしても違和感が拭えなかったのも事実ですが、以前のアンナ様と変わらず好感が持てましたから、指摘をする事でこの関係を積極的に壊したくはありませんでした。とは言え、放置する事も躊躇われましたのでリチャードに判断を仰いだ次第です」

「ネルからは早い時点で報告をもらっていた。泳がせろと指示したのは俺だ」


 彼はここにきてからずっと、私の一挙一動を観察していたのだろう。

 ネルさんからの報告、彼との会話やふとした行動、そしてきっと私が口にしたお茶の感想で確信を得たのだ。


「まずはお前が何者か聞かせてもらおうか? どうして、いや、どうやってアンナの身体を乗っ取った?」

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