Le rêve ①
ある日突然、世界が変わってしまった。
つい先日まで、私は女主人としてこの屋敷を切り盛りしていた。
自他共に認める愛妻家な夫、私を慕ってくれる使用人達。たくさんの優しい人達に囲まれて、何不自由なく暮らしていたはずだった。
2人の娘はそれぞれ他家に嫁ぎ、学院に在籍する息子は王都で寮生活を送っている。子供達が巣立ってしまった事に少し淋しさを感じながらも、定期的に届く手紙を心待ちにしながら送る日々は幸せだった。
今は身の回りの世話をしてくれる者もいないから、何日も同じドレスを着たまま寝起きをしているし、湯浴みだってもうしばらくしていない。
食事ももう何日も摂っていない気がする。
けれど気持ち悪く感じる事も、空腹を覚える事もなかった。どんなに動き回っても汗もかかなければ、喉さえ渇かない。
皆が私を無視するようになった。私が話しかけても誰も返事をしないし、視線すら合わせてくれない。
それに、なぜか今まで暮らしていた屋敷に立ち入ることができなくなっていた。
仕方なく、これまで暮らしていた屋敷ではなく、離れの別館でひっそりと過ごすようになった。
この別館は新居として、私達の結婚に合わせて義父である先代が建てて下さったものだ。
夫が爵位を継ぐタイミングで領内の、ブランシュの丘の上にある別邸に義両親が引越したのをきっかけに、私達は本館で暮らすようになった。今は娘達が家族を連れて滞在する際に使っているが、いずれ息子が結婚したら息子夫婦が住む事になっている。
そのため定期的に離れ別館の手入れする者がやってくるが、私がいてもお構いなしに掃除をする。箒やハタキが私にぶつかりそうになる事もしばしばなので、その間は庭を散歩したりして彼らから距離を取るようにしている。
今日だって、掃除道具を持って入ってきた使用人達を避けるように散歩をするべく庭へ出てきたのだ。そして、久しぶりに本館の正面に広がる庭まで行ってみようと足を運んだ。
その際、近道をするため使用人用の入口のすぐ近くを通った事を後悔した。
『最近の奥様は新しいドレスや宝石を買い漁り、散財し過ぎだ』とか、『些細なことで激昂し、怒鳴り散らしてばかりだ』とか、『以前とはまるで別人のようだ』なんて声が聞こえたのだから。
ちょうど昼休憩の時間と重なっていたせいか、少なくはない人達の口からそんな声が聞こえてきた。
中には、『もう辞めたい』という声もあった。
何かの間違いだと思った。私は離れの別館にたった1人で引きこもっているのに。
買い物なんて、最後にしたのはいつだったかしら。
悲しい、寂しいという感情は今もあるけれど、怒る事など殆ど無い。
以前と比べられても、最近は皆と全く関わっていないのに。
泣きそうになるのを堪えて、私は遠回りをして別館に戻る事にした。途中、私のお気に入りの中庭を通って。
ライラックの花の見頃を迎えた中庭には、見覚えのないテーブルとチェアが置かれている。
一体誰の指示で置かれたのだろうか。不思議に思っていると、メイド達がワゴンを押して中庭に入ってくるのが見えた。思わず植え込みの影に隠れてしまったのは、彼女達の表情が曇っていたからだ。
「突然お茶会の準備を命じられたかと思えば、また宝石商を呼びつけているらしいわ」
「失踪した侍女の娘も図々しいわよね。強請られるまま買い与える奥様も奥様だけれど……」
「奥様は侍女を守れなかったお詫びだっていうけれど、失踪したのは侍女の意思でしょう? それに、奥様自身も新調しすぎよ。この半年で一体どれだけ使ったのかしら?」
「私達の給金はどんどん減らされているっていうのに、本当にいいご身分ね」
ライラックの花が見頃を迎えている事にどうしておかしいと思わなかったのだろうか。
別館で暮らし始めたのは、秋の半ばだったと記憶している。私が今も着ているのは、秋らしい色合いだからと選んだワイン色のデイドレスだ。
ライラックの花は、例年通りならば春の半ばから咲き始める。
つまり、私は間違いなく冬を越しているという事なのだ。なのに、暖炉に火を入れる事は一度もなかった。
それに、その間に私が食事をとった事もなければ、湯浴みも着替えも一度もしていない。だというのに空腹でもないし、不快感だって全くない。
息を潜めながらも混乱を極める私は、その後やってきた人物を目の当たりにして、言葉を失ってしまった。
まるで王宮で行われるお茶会に参加するかのような、格の高いデイドレスを着た女性が二人。
一人は、かつて私の侍女として仕えてくれた侍女によく似た女性だ。おそらく、先程の話にも出てきた彼女の娘なのだろう。
もう一人は、恐ろしく私に似ている女性だった。恐ろしく似ているけれど、化粧や髪型、ドレスの好みが私と全く違う。きっとよく似た別人のはず。
けれど、メイド達は彼女を「奥様」と呼んで給仕をしている。
そのうちに宝石商らしき男性がやってきたが、我が家が懇意にしている商会の者ではないようだった。
お茶の用意がされたテーブルの隣にはもう一つテーブルが運び込まれ、宝石商はその上に鞄を置いて開いた。
今まで我が家と懇意にしていた宝石商は、文字通り宝石を売りに来る。加工前の石を選び、オーダーメイドでアクセサリーを作ってもらうのだ。色々なシチュエーションでも使えるよう、品質の高い石を選び、シンプルだけれど洗練されたデザインに加工してもらうのが常だった。
けれど、目の前で行われているのは全く違う。既に注文済みの物を受け取るのかと思いきや、そうではないらしい。並べられたアクセサリーをまるで菓子を買い求めるかのような気軽さで選んでいく。
テーブルと共に運び込まれた姿見にアクセサリーを身につけた姿を映しては、こんなデイドレスが必要だの、もっと華やかな夜会用のドレスが欲しいだのと話していた。
しまいには、次回来る時には違う色の宝石を使ったアクセサリーを持ってくるように指示まで出している。
こんな事をしていたら、使用人達の不興を買っても仕方がない。
この時になってやっと、彼女が私に成り代わって好き放題やっている事に気付いた。使用人達の愚痴も彼女の行動の結果なのだろう。
「もう、いい加減にして!」
思わず、そう叫んで立ち上がってしまったけれど、誰も私に見向きもしない。大胆に近づいても、声をかけても、私をまるでいない者の様に扱うのだ。
誰も私の世話をしようともせず、声をかけても無視される。その理由がわかってしまった。
皆、私が見えないし、私の声が聞こえないのだ。
目の前にある姿見に映らない自分の姿や、暑さも寒さも空腹も感じない事からも、私が普通じゃないのは明らかだ。
どうして今まで気付かなかったのだろう。
そう長くはない時間観察しただけだけれど、喋り方や言葉の選び方、それからほんのわずかだけれどこの土地の人々とは違うイントネーションには聞き覚えがあった。華やかなものを好むところもそうだし、好んで口にするお菓子や、紅茶に入れる砂糖の数、それから手持ち無沙汰になると髪を指に絡める癖もそう。
憶測ではあるけれど、彼女の正体がわかってしまった。
どうして、と思うと同時に妙に腑に落ちる自分もいた。
どんな方法を使ったのかは不明だが、彼女がわたしに成り代わろうと思った動機はわからなくもない。
彼女は、失踪した私の侍女は、侍女として生きていく事が不満でたまらなかったのだから……