48 days left ①
翌日の午前、私は兄の執務室で私が事故に遭ってからのシトリン領について報告を受けていた。
リチャード様は朝食時に伯父から誘いを受け、近場の視察へと出かけているためここにはいない。
伯父は視察とは言っていたが、そうかしこまったものではなく、馬に乗って散策をしつつ領内を案内する形の気軽なものらしい。
私、いやアンナも誘われはしたが、馬車ではなく馬で移動するというので辞退した。午後から予定がある事を考慮して移動速度の速い馬を選んだのだろう。残念ではあるけれど、足手まといになるのは嫌なので仕方ない。
伯父とリチャード様が出かけてから、私はモニカの案内で兄の執務室へと向かった。兄が気を利かせて、モニカにアンナを連れて来るように指示してくれたので私は堂々と兄の執務室へ立ち入ることが出来る。未婚の、しかも婚約者のいない兄とアンナ様が二人きりというのは外聞が悪いので勿論ネルさんも一緒だ。とは言え、ネルさんは私達が領地経営に関わる話をするのをわかっているので、モニカが退室した後、しばらく時間を置いてからお茶を用意しに行くとそれらしい理由をつけて席を外してくれた。
兄の執務机を借りて私が不在の間に処理された書類に一通り目を通す。それから、ここにいる間のスケジュールを確認し、めぼしいところをピックアップした。
白磁の工房に限らず、シトリン領の特産品に関わる人達をリチャード様と引き合わせ、色々売り込むのだ。リチャード様個人としてというより公爵家の人間として彼らと引き合わせる。
もちろん私もアンナとして同行するし、職人たちの前ではレイラである事を悟らせない様に振る舞うが、私は売り込む側だ。
シトリン伯爵家として、モルテンソン公爵家と縁を結んでおいて損はない。領地や特産品に魅力を感じてもらい、今回の事業とは別で、定期的な交易の約束を取り付けられたらと思っているのだ。
おそらく、伯父も似たような事を考えているのだろう。伯父がまさに今リチャード様を連れて回っているのが、私がピックアップして売り込もうとしていた地域なのだから。
昨日リチャード様に話した湖周辺のワインは既に高値で取引されているため売り込む気はない。これ以上人気が出ると需要と供給のバランスが崩れてしまい、法外な価格で取引されることになるだろう。そうなれば偽物が出回ったり、領地に還元されない形で市場価格だけが無駄に高騰してしまう恐れがある。産地としてはそれは避けたいところだ。
伯父や私が売り込もうとしているのは、葡萄の栽培地は異なるが、湖周辺で栽培されたものに引けを取らないほど上質な葡萄で醸造されたワインだ。
湖周辺で栽培された葡萄がが湖面から反射する光を浴びて育ったものならば、こちらは白い街並みからの反射光を利用して育てられたものだ。
ブランシアと呼ばれるその地域は伯父が子どもの頃は特に何もないところだったらしい。伯爵家の別邸があると言えばあるが、村があるわけでも、農地が広がっているわけでもない。
シトリン領が街道の整備に力を入れ始めたのは祖父の代に遡る。
より多くの街道を整備するため、なるべく資材は自領内で賄いたいと考えていたところ、ブランシア周辺では良質な石灰岩が採掘出来る事が地質調査の結果判明した。
そこで、ブランシア周辺に採掘場を作り、街道整備の拠点として技術者や労働者が集められた。
祖父は先見の目がある人だったのだと思う。ブランシアを整備の拠点として終わらせるつもりは無かったようだ。
領主主導の事業なのだからと労働者の衣食住を保証を売りにし、労働に従事している間は無償で家を貸し与え、作業着も支給した。
給金は高くないものの、朝食と昼食が提供される。
石灰岩の産出が本格的になると、まず住居を建てさせた。労働者用の住居だ。
そして、役所や教会など公共の施設の建設が始まる。その頃になると、労働者相手の酒場や食事処を営むために移住してくる者が現れた。
景気の良いところには人が集まる。初めは労働者相手の飲食店が主だったが、飲食店に食材を卸す農家や畜産家、生活必需品を取り扱う雑貨屋や仕立て屋が出来、いつの間にやら多種多彩な業種の店が増え、今では街と呼ばるほどまでにブランシアは成長した。
比較的早い段階から始まった葡萄の栽培とワインの醸造だが、ある時期を境に味が激変したのだという。
それは街の整備が整い、街道の整備が完了した時期であった。
初めの数年は『たまたま葡萄の出来が良かった』と思われていたのが10年も続けば話も変わってくる。なんでも比較実験まで行われて、街並みや街道の反射光の影響だと結論づけられたらしい。
現在、良質なワインとブランシア特有の白い街道や街並みを活かして、観光客の誘致を出来ないものかと模索中だ。
計画としては、今ではもうほとんど使われていないシトリン家所有の別邸を改装してワインの醸造場とレストランにしてはどうかという案が上がっている。まだ発案されただけの初歩の初歩の段階なのだが、ブランシアの認知度を広めるためにも出資金を募ってみるのも面白いかもしれないと思っている。
オープンの際に招待すれば多くの出資者に足を運んでもらえるだろうし、お土産としてブランシア産ワインを持ち帰ってもらう。
いずれは出資者限定で夜会の会場として貸し出すとか、ガーデンパーティの会場として貸し出すとかすればさらなる認知度の上昇にもつながる。
出資してもらわずとも、公爵家に認知されるだけでもこちらとしてはプラスになるだろう。利用しているみたいで少し後ろめたくはあるけれど、今後のシトリン領のためには必要な事だ。
そんな事を考えていた私は、兄がすぐそば私の手元にあった予定表を覗き込んでいたことに気付かなかった。
「レイラ、この日の出発時刻なんだが……」
急に至近距離で話しかけられて驚いたのも束の間、部屋のドアがノックされた。
きっと、ネルさんが戻ってきたのだろう。私も兄もそう思っていた。
兄がすかさず入室の許可を出したので、私は特に気にせずに兄が指を差した部分を確認し、該当の日程の資料を手元に引き寄せた。
「一応この様な計画になっているので、変更は可能ですけれど……」
兄の顔が私の手元にある資料へと近づくと、少し離れた場所から「ゴホン」とわかりやすい咳払いの音が聞こえた。
「坊っちゃま、些か距離が近いのではございませんか?」
聴き慣れた声に顔を上げると、そこにいたのはネルさんではなく執事のトーマスだった。
「ノックの時点で名乗ってくれ……」
兄が面倒くさそうな顔でトーマスにそう言うと、トーマスは至極真面目な顔で反論を始める。
「そもそも、婚約者でもない未婚の男女が部屋に二人きり、というのがよろしくない事くらい坊っちゃまもお分かりでしょう? モルテンソン公爵家の侍女はどこへ?」
「彼女には茶の用意を頼んでいる。一時的に席を外してもらっているだけだ」
「その一時的な時間に、随分と距離を縮めていらっしゃる様ですが」
「あくまで仕事の話をしているだけだ。別にそのくらいいいだろう?」
「話の内容は関係ありません。距離が近いのでもう少し離れるべきだと申し上げております」
トーマスは伯父よりも少し歳下だが、伯父よりも頭の固いところがある。私達が産まれた時には既に伯爵家に仕えており、小さい頃からの私達をよく知っているため、親心でこういったお小言をもらうことも少なくないのだ。
「御令嬢も、危機感を持たれて下さい。妹大好きで男色の噂もございますが、結婚相手に求める条件が厳しすぎて理想のお相手が見つからないだけで、坊っちゃまの恋愛対象は女性だという事をお忘れなき様。ちなみにお相手に求める条件というのが……」
「トーマス、もう黙ってくれ……」
「では適切な距離を取ってください」
トーマスはトーマスなりに心配しているのだろう。兄は私に対して過保護だから距離感がないだけで、基本的に女性とは適切な距離を保っている。
むしろ、好意を持たれた相手に過度な期待をされても困ると距離を取り過ぎる傾向すらあるのだ。だからこそ、この距離感はトーマスにとって衝撃だったのだろう。
結局、兄が私から離れて一定の距離を取っていても気になるのか兄の部屋に居座り続けるトーマスに、これ以上の話は出来ないと判断した。
直後お茶の用意をしてモニカと共に戻ってきたネルさんに淹れてもらったお茶を楽しんでから、私とネルさんは離れの客間へ戻ったのだった。