49 days left ①
誤字報告ありがとうございます。
「この風景は見事なものだな……」
「南向きの丘陵地帯に畑を作る事で、太陽の光を効率的に利用することが出来るんです。特に、湖に面した地域で栽培された葡萄で醸造したものは最上級品とされています。というのも、空からの光に加えて、湖面から反射された光も当たるので、より上質な葡萄が出来ると言われているんですよね。新物のワインが出始める頃になると、今は青々と茂っている葡萄の木も紅葉して、この辺りは『黄金の丘』なんて呼ばれる程綺麗なんです……」
馬車に揺られること、丸一日。
車窓から見える馴染み深い風景に、私は心躍らせていた。
今回の計画について打診したところ、シトリン伯爵からは色良い返事をもらっている。
当初、宿に宿泊するつもりだったが、兄が同行することや第二王子殿下も件の計画に絡んだ事で招待を受け、シトリン伯爵邸に滞在する事になったのだ。
『レイラ』としては嬉しい反面、アンナとして滞在するのは少々複雑だ。うっかりボロが出ないか不安なのだ。先日訪れたリンドグレーン家のタウンハウス以上に慣れ親しんだ場所なのである。無意識のうちに、普段使っている執務室や私室に入ってしまわぬ様に気をつけねばならない。
「シトリン領は街道が整備されていると聞いていたが、領境を越えた途端にここまで違うとは思わなかった」
「伯父曰く、伯父夫婦には実子がいないから……そこに使う予定だった予算を全て領地の街道整備に上乗せしたらしい」
「それにしたって……予算の規模が違うだろう?」
「……伯父への相談も無しに私の婚約を進めて決めてしまった後ろめたさから、父がリンドグレーン家としてかなりの金額を出資したみたいなんです」
「レイラだけでなく、俺の事もあるしな。両親は俺達兄妹を手元で育てられない分、必要以上の金を俺達にかかる経費として押しつけていたらしい。伯父はそれを律儀に取っておいたらしくてな……俺が成人を迎えた年に、自分達で管理しろと渡されたんだ。無茶苦茶な話だろう?」
「兄と相談して、全額をシトリン領のために使うことにしました。そしたら、王都からの街道だけでなく、領内の主要道路の殆どが整備される事で治安が良くなったと領民にも好評なんです」
リチャード様が手配してくれた装飾のない中型の馬車には、リチャード様と兄、ネルさんが同乗している。御者を務めるのは、アンナ様とは直接面識のないリチャード様やネルさんの遠縁の方だそうだ。
「想像していた以上にレイラ嬢は領地運営に携わっているんだな……」
「婚約者にはとても任せられない……というのはリックも理解出来るだろう?」
「……残念ながら嫌というほどにね」
リチャード様が本当に嫌そうな顔でそう言うと、兄が思わずといった様子で吹き出し、笑っていた。
兄がかなり込み入った話をした事には少し驚いたが、リチャード様を『リック』と呼ぶ様になった事から、二人の距離が縮まった事が伺える。
出発前にも第二王子殿下を交えて話し合っていたり、二人だけでも色々相談をしていた様だし、元々学友だったのだから再会して仲良くなるのは当然だとも言える。
私とリチャード様が向かい合う様な形で座り、リチャード様の隣に兄が、ネルさんは私の隣を一席空ける形でドアのすぐ側の席に座っている。
時折、兄が誰も座っていないはずの私の隣に視線を向けているのが気になるし、リチャード様もそれに気付いている様で、時々兄や私の隣の空席を見ているのが気になったが……シトリン領に入り、馬車の揺れが小さく心地いいものになってくるとどうしても眠気に襲われてしまう。
「レイラ嬢、眠いなら眠ったらいい。疲れただろう?」
「リチャード様、ありがとう……そうさせてもらうわ。近くなったら起こして……」
うとうとしかけると、座席が少し沈んだ感覚があり、ふと隣を見ると兄が隣に座っていた。
「……レイラ、こちらに寄りかかって眠るといい」
「……お兄様、ありがとう」
「レイモンド様、すみませんがこれをレイラ様に掛けて差し上げて下さい」
「ネルさん、ありがとう……」
眠気に抗えずに兄に寄りかかり目を閉じると、薄手のケットがふわりと掛けられる感覚を覚えた。
***
——ありがとう
(この声……久しぶりかも)
——私の代わりに、リックを支えてくれて、ありがとう
(この声はやっぱりアンナ様だったのね……)
——身体を預けた人が、あなたで良かった
(アンナ様は、今どうされているのだろう……)
——仕事まで押し付けてしまってごめんなさいね
だけど、すごくありがたいの
このまま、あなたに任せてしまいたいくらい
私の身体も、領地も、リックの事も…………
(もしかして、近くにいるのかしら……)
***
「……レイラ、もうすぐ到着するよ」
ゆっくり瞼を開けると、優しげな表情をした兄が私の顔を覗き込んでいた。
「ごめんなさい、少しだけ眠るつもりが思ったよりも寝入ってしまっていたみたい」
「移動中はどうせ暇なんだから気にしなくていい。それに皆、似たような過ごし方をしていたしね」
兄に同意するように、リチャード様とネルさんがにっこり笑って頷く。
「なんというか、雰囲気の良い街だな」
リチャード様の言葉に、ふと窓の外へ視線を向けると見慣れた街並みが目に飛び込んできた。そこに見知った顔を見つけ、振りそうになった手を慌てて引っ込める。
「屋敷では気をつけるんだよ?」
クスクス笑いながら兄に言われて、恥ずかしくなる。
寝起きとはいえ、自分がアンナ様の姿をしている事をうっかり忘れてしまうなんて。公爵令嬢らしい振る舞いをする様、気を引き締めていかなければ非常にまずいだろう。
「レイラ嬢は……意外とアンナに雰囲気が似ているのかも知れないな」
ポツリと呟くようにリチャード様が言った。
「あまり気負わず、自然体の方がアンナらしく見えるかもしれない。そう思わないか、ネル?」
「ええ。ふとアンナ様だと錯覚してしまう様な瞬間が確かにあります。そうでなくともこちらではレイラ様を思わせる空気感を纏っていた方がスムーズかもしれませんね」
領主教育を受けているという点でアンナ様と共通点はあるけれど、長身でクール系美人のアンナ様と全体的にぼやけた印象の私では雰囲気が似ているとは到底思えない。
「確かに『公爵令嬢』というだけで職人たちは構えてしまうだろうな……レイラと振る舞いが似ている方が彼らも受け入れ易いだろう。それに屋敷の者達だってそうさ。だからそんなに……拳を握って気合を入れる必要ないからね?」
兄にそっと手を取られた事で、私は両手を固く握り込んでいた事に気付く。
いつの間にか、リチャード様の隣に移動していたネルさんのこちらを微笑ましそうに眺める視線が恥ずかしい。
リチャード様はなんとも言えぬ複雑そうな顔をしていて、目が合えば何故かそらされてしまう。
車窓を流れる街並みは活気に満ちていて、行き交う人々の表情も明るい。
私はそんな風景を、どうにもすっきりしない気持ちで眺めていた。