80 days left
ダニエル医師の適切な治療のおかげか、元々の身体の持ち主アンナ様が鍛えていたおかげか、経過は順調。
処方される薬は当初使っていた強いものから一般的なものに切り替わり、量も少しずつ減ってきた。
起きて過ごす時間は増えたものの、右足の捻挫はまだ完治には至らず、どうやって時間を潰すかが目下の課題である。
幸い、部屋に置いてあった本からアンナ様の好きそうなジャンルの傾向がわかったので、部屋にあったものを一通り読んでから似たような本をアンナ様付きの侍女——ネルさんというらしい——に追加で用意してもらう事にした。
モルテンソン公爵夫人、つまりアンナ様の母が姿を見せたのは、追加で用意してもらった本も一通り読み終えた直後の事だった。
顔を合わせるのは、私が目覚めた日以来。久しぶりにみた夫人は以前のように取り乱した様子もなく、顔色もいい。
「一緒にお茶を飲みましょう? あなたの好きなお菓子も用意してもらったのよ」
優しげな微笑みを浮かべて穏やかに話す様子は、以前夜会などで見かけたイメージそのものだった。
夫人と一緒にやってきたベテランの侍女達が隣室に用意をしたというので、私は初めて部屋から出た訳なのだが、これまでアンナ様の私室だと思っていたのはどうやら寝室だったらしい。
ベッドの上からほとんど動かない生活をしていたせいで、入り口以外のドアの存在には気付かなかったこともあるが、広い部屋をパーテーションで区切り、ベッドとドレッサーが置かれたエリア、それからソファ、ローテーブル、飾り棚やライティングビューローが置かれたエリアに分けられているのだ。
その上、バスルームや衣装部屋まで備え付けられているのである。
広さ的にも機能的にも充分すぎるほど充実しているし、レイラとして暮らしていた伯爵家の自室よりも広いのだ。
伯爵家だってそれなりに裕福ではあるが、流石は公爵家。レベルが違う。
ネルさんの介助でどうにか移動した先には、それこそサロンに置かれているようなソファとローテーブルがあり、その奥には大きな本棚と大きなデスクがあった。
部屋全体も、クリーム色やグリーン系のパステルカラーにオーク材の家具を合わせているため優しい雰囲気だ。
「あなたの部屋でお茶を飲むなんて初めてかもしれないわね」
「そう、ですね」
ぎこちない返事になってしまったが、夫人は気にしていないようでホッとする。
並べられているのは色とりどりのスイーツで、勧められるがまま、バラの花びらがあしらわれたマカロンとスミレの花がのったホワイトチョコレートのケーキを取った。
「美味しいでしょう? あなたが好きそうだと思ったのよ」
「香りが良くて……美味しい、です」
ホワイトチョコレートのケーキの部分はとても美味しいけれど、どうしても強い花の香りが移ってしまっている。正直なところバラもスミレも花として愛でるのは好きだが、食べ物として食べるのはあまり得意ではない。食べられないわけではないけれど、花の香りとお菓子の味はできれば別々に楽しみたいと思ってしまうのだ。
苦手なものを美味しいと答えるのは心苦しい。かと言って正直な感想を伝えるのもいかがなものかと思うので無難な答えを返してみたつもりだが、どうしてもぎこちなくなってしまう。
それに加えて、普段アンナ様が母親とどんな口調で話しているのかわからないので余計に他人行儀な受け答えになってしまったが、夫人はあまり気にしていないようだ。
むしろアンナ様として過ごしている私の返事はあまり重要ではないのか、引きこもり生活をしている間にオープンした店の事や、昨日発売になった化粧品の話を一方的に話している。
公爵令嬢たるもの、流行に乗り遅れてはいけないと言わんばかりに夫人は話し続けるが、私としては少々複雑な気持ちだ。
夫人と顔を合わせるのは目を覚ました日以来だ。公爵夫人ともなれば忙しいのはわかる。けれど、怪我をしている娘(とは言え中身は別人だけれど)の部屋に顔を出す余裕すらなかったのだろうか。
(雰囲気こそ貴族令嬢らしいけれど、置いてあるものは男性的というか、なんだか執務室みたい……)
夫人の話にあまり興味を持てなかった私は、キョロキョロしないように部屋の中を見回した。見れば見るほど、令嬢の私室というより執務室に見えて仕方がない。
実際そうであっても不思議ではない。
アンナ様はモルテンソン家の跡取り娘だった筈だ。
次期公爵の地位には配偶者が収まるが、領地経営などはアンナ様主導で行われる予定だった可能性もある。
私がそう教育されてきたように。
私の場合、上に二人の兄がいるので、継ぐのはリンドグレーン家ではなく母の実家のシトリン伯爵家だけれど。
次期伯爵は私の婚約者だが、領地経営に関してはしばらくは母の兄、現伯爵である伯父サポートの下、私主導で行う事になっている。
大きな変化は領民の混乱を招く恐れがある。と伯父は言うが、かつては婿入り後に離縁し、妻に経営能力がないのを理由に夫がそのまま領主として居座る……つまり、領地の乗っ取りが流行った時代があったようで、入婿に全権を渡さないというのは比較的ポピュラーな流れらしい。
とは言え、全権は渡さなくとも、入婿でも男性主体で関わっていくケースの方が圧倒的に多い様だけれど。
私達の場合、彼が領地経営に興味が無い事もあり、そういった流れになっているのだ。
そういえば、私の婚約者だった彼はどうしているのだろうか。
私が事故に遭った日、私は彼と待ち合わせをしていた。
一大決心をして、大切な事を話し合うつもりだったのに。
私が事故に遭ったのは、約束の時間丁度だった。
彼は、近くにいたのだろうか。
事故のせいで、話をし損ねてしまった。
言いたいことも、確認したいことも、たくさんあったのに。
何より、私の気持ちを伝えたかったし、彼の考えを知りたかった。
「ねぇ、聞いているの?」
「……すみません」
「別に構わないわ。たくさんの薬を飲んでいるんですものね。痛み止めも相当強いものだもの。副作用でぼーっとしてしまうのも仕方ないわ」
「…………はい」
「それでさっきの話の続きなんだけれど————」
強い痛み止めを最後に処方されたのはもう十日前の事だ。
その後は一般的によく使われる種類のものに切り替わっている。それに加えて、化膿止めだとか鎮静剤なども一緒に服用していたのが少しずつ減っていき、今飲んでいるのはごく一般的な痛み止めのみ。
それもちょっとした頭痛の時に処方される程度の量まで減ったのだと、ダニエル医師に今朝説明されたばかりなのに。
夫人にそういった事が報告されていないのか、報告はされていても聞いていないのか覚えていないのか……
そんな風に思ってしまうのは、アンナ様に対する夫人の態度を不自然に感じてしまったせいかもしれない。
「そうそう、ベッドからほとんど動けないのは退屈でしょう? 退屈しのぎに、刺繍でもしたらどうかと思って、道具を用意させたのよ。久しぶりにやってみたらどうかしら」
この提案が数日後に事態を大きく動かすきっかけになるなんて、この時の私は知る由もなかった。