55 days left ⑤
私達はケアリーに促され席に着いた。
表情を動かさず、微笑を浮かべたままのレイラ。そして、その背後に引き攣った笑顔で立つ侍女ジェーン。
兄の様子もなんだかおかしい。心ここに在らずというか、時々何かを言いたげに一点を見つめているのだが、視線の先には誰もいないし、何かがあるわけでもなかった。
「すまない、少し席を外す。悪いがリチャード、レイラにも茶を淹れてくれないか」
兄はそう言い、何故かサロンを出て行ってしまった。
リチャード様は戸惑った様子で席を立つと、陶製の水差しにお湯を注いだ。
先程、彼の前に茶を淹れたメイドは彼のやり方をしっかり見ていたようで、必要な道具を彼の取りやすい位置へ置いたりと補助的な役割を的確にこなしている。
白磁のティーポットにティーメジャーで茶葉を入れ、リチャード様が冷ましていた湯を注ぐ。
ティーポットの素材に合わせて、湯を冷ます為のピッチャーを作らせてもいいかもしれない。もちろん。キャニスターも。
砂時計も、紅茶に比べると抽出時間が短いので、専用のものを作るべきだろう。
ガラス細工ならば、シトリン領よりもモルテンソン領の方が工房が沢山あるので、そちらに発注するべきだ。
そんな事を考えているうちに、軽く温めた空のティーポットへとお茶が注がれた。
注ぎ初めと注ぎ終わりでは濃度が異なるので、濃度を一定にする為の手間で、これは紅茶と同じ手法だ。
東方の作法では複数のティーカップに少しずつ、順番に茶を注ぐ事を繰り返して一定の濃度にするらしいが、調節が難しいために紅茶と同じようにしているらしい。
そのティーポットから彼女の分のお茶をティーカップに注ぐとそれをメイドへ託し、メイドがレイラにサーブする。
リチャード様は残りのお茶が入ったままのティーポットを持ったまま席へ戻ると、私と彼の空になったカップにお茶を注いでから腰掛けた。
きっと、彼は緊張していたのだろう。私の隣に座ったリチャード様は、ため息というわけではないけれど、フゥと小さく息を吐いて目を瞑った。
「モルテンソン公爵領で作られたグリーンティーです。お口に合えば嬉しいです」
そんな彼に変わって、私は彼女がカップに手を伸ばしたタイミングで声をかけた。
彼女は綺麗な所作でティーカップを持ち上げ、一口口に含んでからゆっくり飲み込んだ。そして、彼女は口を開いた。
「おいしいです」
少し遅れて聞こえたのはリチャード様の呟きだった。兄からレイラは声が出なくなってしまったと聞いていたが、本当にそうらしい。
彼女の唇の動きを読み、リチャード様が声に出す。リチャード様も読唇術を学んでいたらしい。彼も兄と同様に王子殿下の側近だった。もしかしたら、王族の側近には身に付けておくべき必須項目なのかもしれない。
彼女は相変わらず表情を動かさなかったが、リチャード様のその呟きを聞き取ったらしく小さく頷いた。
彼女はじっと私を見ている。けれど、なぜか彼女と私の視線が合わなかった。彼女の焦点が定まっていないというか、ここではないどこかを見つめている様な気がしてならない。
「用意して頂いたお菓子とも、良く合いますので……何かお取りしましょうか?」
差し出がましいようだが、そう声をかける。兄は席を外してしまったし、隣にいるリチャード様を伺ってもどこか困惑している様子だったから私が口を開くしかないだろう。
本来ならば私がかけるべき言葉ではない。ホスト側がすべき事だ。それはわかっている。けれどこの妙な空気に耐えられなくなってしまったのだ。
私の申出に対し、彼女はゆっくりと首を横に振った。相変わらず、微笑みを張り付けたほとんど無表情に近い人形の様な表情で。
困った私は、周囲を見回した。使用人も、彼女の登場で雰囲気がガラリと変わってしまったこの空間に戸惑っているようだった。
「あの、お茶がお口に合った様で嬉しいです。もしよろしければ、具体的な感想を伺ってもよろいいでしょうか?」
何か会話をしなければという気持ちで声をかけたのだが、彼女は再び、ゆっくりと首を横に振った。
「ぐたいてきにといわれても、むずかしいわ」
リチャード様が再び彼女の唇の動きを読み、声に出すと、彼女はゆっくり頷いた。そしてまた彼女が口を開く。
「ところで……アンナさまには、かおのそっくりなふたごのいもうとがいらっしゃいますでしょう」
唐突に語られた内容に、リチャード様の声が僅かに震えていた。驚きはきっと私の比ではないはずだ。
その発言の意図が私には全く分からなかった。彼の様子を窺えば、戸惑いを隠しきれない様子の瞳の彼と目が合った。
少しでも、彼の助けになりたくて、でも何が出来るでもない私は、彼の手にそっと私の手を重ねた。彼の手はひどく冷たくて、微かに震えていた。
それでも彼は、淡々とした口調で、彼女の唇から発せられているであろう言葉を紡ぎ続ける。
「なんでも、すこしまえに、なくなられたとか……ねぇ、ジェーン、そのかたの、なまえを、しっていて?」
それまでは無表情に近い微笑みを浮かべていただけだった彼女の顔。それがほんの一瞬ではあるけれど、満面の笑みへと変わった。
きっと使用人達の立つ位置からは、彼女のその表情は見えなかっただろう。けれど私は見てしまった。
彼女の表情が変わったのは、リチャード様がジェーンの名を口にした時だ。
リチャード様は声を抑えていたから、壁際に控えている使用人達の耳には届いていない様だった。けれど、彼女のすぐ背後に立っているジェーンには聞こえていたらしく、彼女も動揺しているのが伝わってきた。
でもどうしてレイラはジェーンの名を出したのだろうか。ジェーンは彼女の後方にいたのだ。
わざわざ私達の前で言う事ではないし、ジェーンの方を全く気にする事なく……実際、彼女が話している間は例の如く、焦点の合わない視線はずっと私に向けられていたのに。
「アンナの亡くなった妹の名は……エレナ・ローズ……エレナ・ローズ・モルテンソンだ」
ジェーンの代わりにリチャード様がそう答えると、レイラは私の方を向いたまま、満足そうに笑みを浮かべて頷いた。
先程までの人形の様なそれとは明らかに異質な、思わず恐怖を感じてしまう様な笑みだった。
***
結局、彼女の言動の意味はわからないまま彼女は席を辞した。正確には、退室させられたとも言えるが。
彼女の礼を欠いた発言に耐えられなくなったケアリーによって部屋へと戻されたのだ。
相手を慮る言葉も無ければ、気遣いも無い。
故人の名をまるでたわいのない世間話の様な感覚で侍女に訊ねる事も、それが客人、しかも故人の家族の前でするなんてどうにかしている。
彼女から感じた違和感——あれは悪意だ。
誰に対する悪意なのか、はっきりとはわからない。けれど、私やリチャード様に対してというよりも……おそらく、ジェーンに対してだったのではないかと思う。彼女から少し遅れて退室したジェーンは、真っ青な顔をしていた。
ケアリーにはレイラの非礼を平謝りされた。
私としては、彼女の言動に腹を立てたり苛立ちを覚えたわけではない。
不快ではあったけれど、どちらかと言えば驚きとか気味の悪さの方が大きい。
冷静になってからは、本来の私の姿で何をしているのだとは思ったが、兄の話によれば彼女はほとんど部屋にこもっているというし、私達の前で良かったとすら思う。
一体何がしたかったのかわからなかったけれど、少なくとも彼女はアンナ様ではないと確信した。確信したとはいっても、ほとんど勘のようなものだけれど……