55 days left ④
咀嚼をすればジュワッと果汁が広がる。サクサクなのにホロホロと解けてゆくパイと、まろやかでコクのあるクリームがジューシーな桃を包み込む。
一言で言えば、最高。そして予想通り、丁寧に入れられたグリーンティーにとても合う。
「……本当に美味そうに食べるな」
「そんなに喜んでもらえるなら、準備した甲斐があったよ。まぁ、用意したのは俺じゃないんだけどね」
リチャード様にはちょっぴり笑われ、兄には嬉しそうに微笑まれ。
兄の笑顔に心を奪われたのか、給仕をしてくれたメイドが頬を染めている。
「もっとたくさん召し上がれ」
桃のパイを食べている最中だというのに、兄は沢山の甘味を乗せた取り皿を差し出してきた。
数日前より彼女には今日の事は伝えている。今日だって到着時にお茶会の時間は伝えている。時間を過ぎても一向に来る気配のない彼女を、兄は来る気がないとみなしている様だ。
「ですが、まだレイラ様がお見えになっていませんし……私ばかりが頂くわけには」
「そもそも遅れて来る方が悪いだろう?」
「体調が優れないのかも知れませんし……」
「だとしても、侍女が何も言ってこないんだ。介抱で離れられないにしても、誰かを呼べば済む話。こちらが待つ道理はない」
遅れてくる方が悪いというのは確かに正論ではあるが、リチャード様も案外辛辣である。
とは言え、兄の言う通り侍女が何も言ってこないのは確かに問題だ。
「それよりも、リチャードは菓子についてのメモを取った方がいいんじゃないのか? 希望のものがあれば料理人にレシピをもらえないか頼んでおくが」
「それは非常に有難い。ぜひレイモンドの感想も聞かせてくれ」
二人はなんだかとても仲良しである。なんでも学生時代はお互いが仕えていた殿下同士があまり仲が良くなかった影響で、ほとんど関わってこなかったというのが信じられない。
いつの間にか書類まで取り出して話し始めた二人は、相変わらず楽しそうだ。
「二人とも、少々ワーカホリックなのでは?」
「それを君が言うのか?」
「たしかにその姿で言われても説得力に欠けるな」
私の手には白磁のキャニスターがあって、ひっくり返したり、中を覗き込んだり、少々……いや、なかなかお行儀の悪い事をしている自覚はあった。
気まずさからキャニスターをテーブルの上へ音を立てない様に置くと、正面に座る兄と私の右隣に座るリチャード様が同時に笑い出した。やっぱり仲良しだ。
「そう不貞腐れるなって」
笑いを堪えながらリチャード様が言うので、「不貞腐れてません」と小さな声で言い返したのだが、また二人が同時に笑い出した。
ひとしきり二人の笑いが収まるのを待ちながら、お茶を口に含む。リチャード様が淹れてくれたお茶はとびきり甘い。
リチャード様がお茶を淹れると言った時、予め伝えておいたにもかかわらず給仕のメイドは少々渋った。
お客様にそんな事はさせられない、やり方を教えてもらえれば自分が淹れると言って。
彼女が淹れたお茶を一口飲み、兄は顔を顰めた。
そしてリチャード様に淹れ直すように頼み、それを飲んだ兄はリチャード様が淹れたものと先程メイドが淹れたものを飲み比べる様に言った。
私だけでなく、お茶を淹れたメイドは勿論、その場に居た給仕のメイドやケアリーも飲み比べてその違いに驚きを隠せない様だった。
お茶の淹れ方について詳細な説明書きを添付すべきだと意見が一致した。お披露目のお茶会では、侍女やメイドを同行させて取り扱いや淹れ方をレクチャーした方が良いだろうと言う事にもなった。美味しく淹れられないのでは、せっかくの茶葉がもったいない。
グリーンティーを広めるためには、茶葉を売ればいいわけではない。知識も同時に広める必要がある事を実感させられた。
メイドが淹れたお茶もそれはそれで美味しい。苦味が強く出てしまっているので、ヌガーやマロングラッセといった甘味の強いお菓子にはきっと合うだろう。
けれど、それではお茶がメインとは言えない。それでは脇役になってしまう。
とびきり甘くて優しいこの味こそ楽しんで欲しい。
「失礼いたします」
折目正しいノックの後、聞こえてきたのはケアリーが入室の許可を取る声だった。
「レイラお嬢様がいらっしゃいました」
「通してくれ」
リチャード様はドアの方ではなく、私を見て大丈夫だと気遣ってくれた。そして先に立ち上がると、私の手を取り立ち上がらせてくれた。
彼の手の温かさに、私は自分が思っている以上に緊張している事に気付いた。
自分の姿を客観的に見る機会なんてなかなかない。姿見に写った自分を見るのとは違う、不思議な感覚。
私が自分では選ばない、ハッキリした薔薇色の華やかなデザインのアフタヌーンドレス。
彼女の装いを見て、姿は変わっても私の好みは変わっていないのだなと実感した。
今、私が着ているのは少しくすんだ淡いグリーンのシンプルなアフタヌーンドレスだ。アンナ様のお気に入りだったというそれは、私の好みとも完全に合致している。
きっと外見だけならば衣装を入れ替えた方がしっくりくるだろう。
それくらい、目の前の彼女の姿には違和感があった。その表情は淑女らしいと言われる感情を感じさせない微笑を浮かべている。
私なのに私ではない目の前の人物に、どこか人形めいた印象を受ける。
その時、右手が強く握り込まれた。
ふとリチャード様を見ると、思い切り目が合う。緊張のせいか、お互いに手を繋いだ状態でいた事を忘れていたらしい。
彼の手を取り立ち上がってそのままだったことを、少なくとも私は忘れていた。
彼が手を離したのとほとんど同時にそれに気付いて思わず手を引っ込めてしまったくらいだ。
ちょうど彼女がゆったりとして美しい淑女の礼をしていたのでアンナ様には気付かれてはいないと思う。
「レイラ、こちらはアンナ・ローズ・モルテンソン嬢だ……」
兄が私をアンナ様として紹介した直後、誰かが息を呑む音が聞こえた気がした。ちょうどお辞儀をしたタイミングで、顔を伏せていたからそれが誰のものなのかわからないが、彼女の反応ならばと少し期待してしまった。
残念ながらレイラは変わらず微笑を浮かべたままで微動だにしていなかった。
けれど、彼女の背後に控える彼女付きの侍女、ジェーンが目を見開いたまま私の顔をじっと見つめていた。きっと先程のそれは彼女のものだ。そう確信してしまう程、ジェーンはわかりやすい表情をしていた。
でもなぜジェーンが驚く必要があったのだろう。
ジェーンとアンナ様は面識があるのだろうか?
それにしたって、不自然すぎる反応だ。表情を取り繕った後もその表情は引き攣っている様にしか見えなかった。