55 days left ①
兄が公爵邸を訪れ再会を果たした際、私はリチャード様がいるにも関わらず子どものようにワンワン泣いてしまった。
あれは淑女にあるまじき行動だったと反省しているし、もう過ぎてしまった事なので仕方ないが、アンナ様の姿をした私が兄に抱きついたのは少々拙かったかもしれない。
それに、シトリン家の特産品——特にシトロワーズの白磁の販路拡大というか知名度を上げる為にレイラとして生活していた頃に色々考えていた私は、ついつい調子に乗ってリチャード様に売り込みまでしてしまった。
そしたらシトリン領が懐かしくなってしまって……私や兄にとって、リンドグレーン領よりもシトリン領の方が自分の領地という感覚が強いせいだろう。
リンドグレーン領へは片手で数えるほどしか訪れた事がないが、シトリン領で過ごした時間は王都のタウンハウスで過ごした時間よりもずっと長い。
視察と称して、あわよくばシトリン領へ行けないかしらとリチャード様を丸め込もうとしていたのをあっさり兄に見抜かれてしまったし、私に向けるリチャード様の目には明らかに困惑の色が浮かんでいた。
彼とは良好な関係を築いていかなければならないというのに、やらかしてしまった。
そう思ったのに、素の私をうっかり曝け出してしまったのは案外悪くなかったらしく、彼との会話は増えたし、これまでよりも意見を求められるようになった。
リンドグレーン邸への訪問の日が近づく中、レイラとして過ごしているアンナ様への対応についても、話し合ってきた。
リチャード様曰く、私と兄の距離感は兄妹だからこそ許されるのであり、さらに言えば兄と妹であっても、私が兄の行動を好意的に受け入れているから問題ないだけなのだという。
いくら外見が私でも、中身が私でなければ兄が拒絶されるのは当たり前だ。
「意識を取り戻した時、それも自分がアンナの姿をしている事に気付いていない状況で、俺が急に抱きついたと考えてみろ。君にとっての俺は警戒すべき人間で、ヤバい奴となるだろう?」
私とリチャード様に置き換えると、兄が拒絶されるのも頷ける。
幸い、私と彼の初対面で私は彼に試されていたものの、彼に対する私の第一印象は『紳士的な好青年』だった。感情的な一面を彼が見せたとは言え、それは仕方のない事だと思うし理解もできた。
「リンドグレーン邸を訪問して、レイラ嬢として過ごすアンナとの面会が叶っても……話を切り出すのは相手の反応を探ってからの方が良いと思う」
「それには賛成です。アンナ様は声が出せないそうですし……」
「けれど、俺たちがアンナである事に気付いていると匂わせる必要はあると思う。まずは茶。それから、ネルに相談してアンナの印象に残っているもの——何か思い入れのある服だとか、アクセサリーだとかを身に付けて欲しい。それから、いくつかアンナにまつわるエピソードも話そうと思っている」
そうやって、リチャード様はアンナ様を煽るのだと言った。
「できれば、件の侍女には席を外してもらいたいな……」
「そうですね。兄にその旨を伝えればきっとなんとかしてくれると思います」
私やリチャード様が促すよりも兄から言ってもらった方が良い。私達が公爵家の人間という体でいく以上、他家の使用人に指図する事も許されるだろうが、最近レイラ付きとなったジェーンはお客様自分が抜けないので少々面倒くさそうでもあるし。
ただ、初めから侍女もつけずに来るように伝えると、顔すら出さない可能性もあるので、話の途中に自然な流れで席を外してもらった方がいいだろうと言うことになった。
兄に事前にその件を伝えておけば、訪問当日の休暇をジェーンに与える事も出来たのだろうが、兄は本当に忙しく過ごしていたらしい。
ほとんど走り書きの様な手紙が前日にリチャード様の元へ届いたきりで、それ以外の音沙汰はなかった。
手紙には、半日しか休みを取れなくなってしまったので、仕事の帰りに公爵邸へ迎えに行くとだけ書かれていた。
具体的な時間が書かれていない事に驚いたが、リチャード様と相談して、昼過ぎに出かけられる様にしておくことにした。早めに支度をしてこちらが待てば良い。
そして当日、昼過ぎに伯爵家の馬車で迎えに来た兄の目の下にはクッキリと濃いクマができていた。
「レイモンド……大丈夫か?」
リチャード様が心配そうに声をかけるくらい、兄は疲弊しているように見えた。けれど、兄はにっこりと微笑み、挨拶もそこそこに甘い笑みを浮かべて恭しく私の手を取った。
「この程度なんて事ないさ。それよりレ……いや、アンナ嬢の体調の方が心配だ」
伯爵家の御者が驚いた顔でこちらを見た。夜会に行けばモテるくせに、普段は全くと言って良いほど女っ気のない兄なのだ。
婚約者も、恋人もいない。というのも、主たるアンドリュー殿下に婚約者がいらっしゃらない事も影響していて、政治的な思惑だとか貴族間の力関係とか、そういったバランスはもちろん、アンドリュー殿下や王子妃となる方との相性もあるので勝手に決める訳にもいかないと兄は言う。
だからと言って、慕う相手がいるのに自分の気持ちに蓋をしているとかではなく、単に女性と関わるのが面倒臭いらしい兄は、『殿下がご成婚するまで所帯を持つわけにはいかない』と公言し、持ち込まれる全ての縁談を堂々とお断りしている。
それゆえ、エスコートするのは妹のみという伯爵家の次男が、女性を迎えに行き屋敷に招くという事がそもそもびっくりなのである。中身が私である事など御者には知る由もないわけで、女性の手を取り親しげに話していれば、いつも冷静な御者があんな表情になってしまうのも無理はない。
とは言え、すぐに表情を取り繕い平然と微笑んでドアを開けるあたり流石と言わざるを得ない。
これが噂好きのメイド達だったらこうはいかないだろう。
そして到着した伯爵邸は、案の定どこか浮ついた雰囲気に包まれていた。