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アンナ・ローズ・モルテンソン。
ウェデン王国建国から続く名門モルテンソン公爵家の長子で、半年程前まで第三王子殿下の婚約者だった御令嬢だ。
スラリと背が高く、切長で涼しげな目元が印象的な知的美人。
現在の彼女に婚約者はいない。
というのも、婚約者であった第三王子殿下が急遽隣国ルノワへの婿入りする事になったからだ。
どちらにも瑕疵はなく、円満な婚約解消だった。通常ならば王家が新たな婚約者を斡旋しているだろうに、半年経った今でも彼女に婚約者がいない。
身内に不幸があったため、モルテンソン公爵家は未だ喪に服している。そんな理由で王家の打診を断っている、というのは噂話に疎い私でも知っているくらい有名な話だ。
モルテンソン公爵令嬢アンナ様には双子の妹がいた。
名前はエレナ・ローズ・モルテンソン。
彼女は、アンナ様と第三王子の婚約が解消された直後に病死しているのだ。
亡くなる1ヶ月ほど前まで夜会や茶会などに元気な顔を見せていた彼女の突然の訃報は一時社交界でかなり話題になった。
詳細が伏せられていたせいもあり、色々な憶測が飛び交ったが、彼女が患っていたのはまだ治療法が確立していない難病で、気付いた時にはすでに手遅れだったのだとか、あっという間に病魔に蝕まれ儚くなってしまったと専らのうわさだった。
そう考えれば、一度目に目を覚ました時のご婦人の取り乱し様にも納得がいく。
あの時は気付かなかったが、あれはきっとモルテンソン公爵夫人だ。
何度か夜会などでお見かけした時と随分違う雰囲気だったので、彼女がモルテンソン公爵夫人だとはすぐに気付けなかったけれど。
半年前にエレナ様を亡くし、アンナ様も事故に巻き込まれた上、5日間も目を覚さなかったのだから、公爵夫人が取り乱すのは仕方ない。
私は外見こそアンナ様ではあるが、アンナ様ではない。公爵夫人が気付いてしまったら取り乱すどころか卒倒してしまいそうだ。
現在、アンナ様の身体に、私が入り込んでしまっている。
ならば私の、レイラの身体の中にはアンナ様が入っているのだろうか。私は、レイラは、レイラの身体は今どうしているのだろうか。そして本当のアンナ様はどうしているのだろうか。
このまま戻れなかったら、私はアンナ・ローズ・モルテンソンとして生きていかねばならないのだろうか?
そんな考えが頭をよぎった途端、とてつもない不安が襲いかかってくる。
頭の中では次から次へと疑問が浮かび、不安がどんどん大きくなってゆく。
「痛っ……」
締め付ける様な痛みが、頭部に走った。
「お嬢様!? 大丈夫ですか?」
「頭が……」
「すぐ、ダニエル様を呼んで参ります!」
おそらくダニエル様というのは先程の伯父か叔父である医師の名だろう。
けれど意識を失う様に眠ってしまった私が、その日彼の顔を拝むことは叶わなかった。
***
——必ず、返すから
(返すって、何を?)
——力になれなくて、ごめんなさい
(あなたは、だれ?)
——あなたを巻き込んでしまって、本当にごめんなさい
(巻き込んだって、事故に?)
——私がもっと早くに気付いていたら……
(気付くって、何に?)
——今はまだ、離れられないから……落ち着いたらきちんと説明するから……お願い、目を覚まして
***
時々不思議な夢を見る。
私は真っ白い空間に、真っ白な服を着て座り込んでいた。
自分の姿が本来のレイラの姿なのか、今入り込んでしまっているアンナ様の姿なのかはわからない。
夢の中の私が目視出来るのは、真っ白な空間と着ている服、それから両手の手のひらだけだからだ。
そこには私以外誰も居なくて、声だけが聞こえるのだ。しかもその声は耳から聞こえるのではなく、頭に中に直接流れこんでくる様な気がする。
よくわからないけれど、何者かに語りかけられているのは確かだ。
その声にこちらから何かを尋ねても、明確な答えが得られることはない。
会話は成立していないように思えるけれど、おそらく相手はこちらの問いに対して言葉を返す気がないというわけではなく、単に相手のこちらの声が聞こえていないだけな気がしている。
その声が真剣なのはわかる。
誠意を持って私に何かを訴えているのだけは確かだった。
もしかしたら、夢の中の出来事を私が断片的にしか覚えていないせいで、会話が成り立っていない様に思えるのかもしれない。
もしかしたら、私が覚えていないだけで、続きがあるのかもしれない。
起きている時にぼんやりと眺める天蓋にも、以前ほど違和感を覚えることもなくなった。
目を覚ますたびに目に入るのだ。おそらく見慣れたせいだと思う。
薬の副作用のせいで、一日の大半をうつらうつらしながら過ごしていた。
幸い後遺症の残る怪我はないものの、複数箇所を打撲しているらしく身体中が痛いし、思うように動けない。捻挫もしていたようで、ベッドの上で過ごす生活だ。
日に一度、ダニエル医師がやって来る以外はアンナ様の側付きの侍女が部屋に控えているだけで、他に顔を合わせる人がいない。
冷やしたり温めたりを繰り返すことで、皮下出血して変色した肌の色が少しずつ戻ってきてはいるけれど、自分の身体ではないことが心苦しい。
傷は残らないと言われているけれど、どこかしらに何かしらの不具合が残ってしまうのではないか。そうなってしまったら、どうすればいいのか。
そもそも、私はこのままアンナ様として一生を過ごさねばならないのだろうか。そんなの無理だ。
同じ貴族令嬢と言っても、伯爵家と公爵家では必要となるマナーも教養も変わってくる。ましてや、彼女の婚約者は王族だったのだ。求められるレベルが違うに決まっている。
同時に、自分の、レイラの身体はどうなっているのかも気になるところである。
レイラに会うためには、まずこの怪我を治すのが先決だし、外出をするのにアンナ様として違和感なく日常生活を送る必要があるだろう。
貴族とは体面を気にするものだから、何かしら異常があるとみなされてしまった場合、外に出してもらえない可能性も高い。
今は鎮痛剤の影響もあって多少会話が成り立たなくとも大目に見てもらっている雰囲気があるが、身体が回復すればそうはいかない。
そもそもアンナ様と私に接点などなく、私は噂程度の情報でしかアンナ様を知らない。雲の上の存在だった彼女にお近づきになりたいと思うものの、声などかけられるはずもなく、挨拶を交わすので精一杯だ。レイラだった私には彼女についての情報が少な過ぎる。
だからと言って、私がアンナ様ではない事なんて絶対に話せないし……無難なのは大方の記憶を思い出せない事にしてアンナ様として過ごす事だが、それではレイラに会う事は難しいだろう。
両親が面会を希望していたらしいけれど、両親ではなく、私の身体に入ったアンナ様が会いに来てくれたらいいのに……なんて他力本願過ぎるし、そんな都合よくいく訳もない。
協力者が欲しい。出来れば、この状況を受け入れて理解してくれる人。
お兄様に会いたい……。きっと次兄なら理解してくれるだろうし、受け入れてくれるはず。
ぼんやりとそんな事を考えながら、私は再び眠りについた。