Where has she gone off to? ③
「最近、アンナはよく笑う様になったみたいだね」
一日公爵邸で書類仕事をして帰宅すると父親が嬉しそうに声をかけてきた。
彼女が事故に遭って怪我をして以来、今でも毎日診察をしている父は、伯父として、そして医師として彼女の様子を心配している様だった。
領地から戻って顔を合わせた俺に、彼女はまだ完全には体力が戻っていないから仕事はセーブさせる様にと念を押してきたし、その後もあくまで俺がメインで進める事、彼女に無理はさせないようにと毎日しつこく言ってくるくらいだ。
「君達の楽しそうに笑う声が聞こえたからね、ホッとしたよ。あの子は怪我も酷かったけれど、それ以前から精神的にずいぶん弱っていた様に見えたからね……」
……以前から、精神的に弱っていた?
確かに、おかしいとは思っていたが、弱っている事に俺は気付けなかった。
「リックが領地へ行ってからは顔色も悪いしクマも酷くてね。聞けばよく眠れない日が続いていると言っていた。原因は一つでは無いだろうが、大きなストレスを抱えていたのだろう。……人は心を守るために、無意識のうちに記憶を消してしまう事があると考えている研究者がいるのは知っているね。きっかけは事故であったけれど、アンナもそうである可能性が高いと私は考えている」
今のアンナがアンナではない事を父は知らない。アンナとして過ごすレイラ嬢を見て快方に向かっていると判断しているのだ。
本来のアンナは……精神的に弱っていたままだとしたら?
そして、ストレスを抱えた状態で事故に遭い、事故をきっかけに記憶を失っていたとしたら?
アンナの身に何が起こったのか未だよくわからないが、もしもレイラの身体の中にアンナがいるとして、レイラの中のアンナがアンナとしての記憶を失っていたらという可能性に辿り着き、不安になった。
思いついたらすぐ行動に移す傾向があるアンナから、なんの音沙汰もない。
父から聞いた話だと、レイラ嬢は特に目立った怪我もないらしいので、何かしら連絡があっても良さそうなものだ。
どうやって過ごしているのだろうか。
レイモンドの過保護さを理由に彼は妹に拒絶されたとアンドリュー殿下は言っていたが、レイモンドは妹に何かしらの違和を感じたりはしていないのだろうか。
彼女は——アンナとして過ごしているレイラ嬢は——想像以上に書類仕事に慣れていた。
アンナと遜色なく、いやそれ以上に慣れているのではないだろうか。
彼女のそれは明らかに手伝いのレベルを超えている。それこそ秘書官として領主に仕えたり王宮に出仕できるレベルなのではないかと思ってしまうほど。
初日こそこちらが指示した通りの動きをしていたが、特に見られて困るものなどない事を伝えれば、先回りして必要な資料を用意したりと、こちらが作業しやすいように場を整えるのが上手かった。
ただ一つ、彼女に手伝ってもらう上で問題があった。
それは、彼女の筆跡がアンナのものではない事だ。
辛うじてサインはアンナのものを模してそれらしく書いてもらっているが書類として仕上げるとなるとそうはいかない。
どのみち、彼女にあまり負担をかけるなと口酸っぱく言われているのでちょうど良いかもしれないが。
俺がまとめたものを確認をしてもらえるだけでもありがたい。
誤字や脱字、数字の間違いなどは自分で見直したつもりでも見落としてしまう場合が多々あるからだ。
それを素早く的確に見つける。筆跡の問題があるため彼女が直接書き込む事はせず、指摘された箇所を俺が後から修正しているが、それであっても処理スピードはかなり早い。
そもそも手伝っていた相手というのがレイモンドなのだからおそらく指導していたのも彼だ。きっと求めるレベルも高いだろうし、他を知らなければ彼のやり方が当たり前となるだろう。この程度のことはあっさりやってのけるのも納得だ。
過ごす時間が長くなれば、自ずと相手の人と成りが見えてくる。
意外にも彼女は冗談が通じるし、軽口が叩けるタイプでもあった。
俺が悪態をつけばそれに付き合ってくれるし、リズム良くポンポンと返ってくる会話のやり取りは気楽でいい。
周囲に聞かれて違和感が無いよう彼女には俺をリックと呼ぶように伝えたせいか、あちらも以前よりも気楽に接してくれるのも助かっている。実際、なかなか難しいようでそう呼ばれた事はないが、かなり態度は軟化している事は間違いない。
もはや、レイモンドとの面会だって彼女がレイラ嬢である確認する為などではなく、レイラとして過ごしているであろうアンナの様子を伺い、彼女達の入れ替わりを元に戻す為の協力を仰ぐものなのである。
レイモンドの帰還が待ち遠しい。
提出期限の迫った書類は恙無く報告書と共に公爵へと届けられた。
取り急ぎ片付けるものも片付けた。
外見が違ってもいい。
俺の知っているアンナに会いたい。
早くレイモンドへの協力を取り付けて、レイラ嬢とアンナを引き合わせたい。
「そういえば、これをアンドリュー殿下から預かっていたんだっけ」
父に渡されたのは、ご丁寧にもアンドリュー殿下専用の紋章を封蝋に押した仰々しいものだった。
中を確認すると、召喚状の形式を取っているものの内容はレイモンドが戻ってくるから会いに来いというものだった。
残り61日