Where has she gone off to? ②
翌日から俺は、アンナに代わって書類仕事を片付ける事にした。
アンナが事故にあってからそのままになっていたそれは、想像していたよりもずっと量が多い。
普段ならば余裕を持って仕事を進めるはずのアンナなのに? と思わずにはいられない。
俺が領地へ向かってから全く手付かずという訳ではないが、普段の彼女ならば終わらせているはずの半分も片付いていない。
叔父へ報告を上げなければいけない期限ギリギリの書類も幾つかある。
アンナに精神的な余裕がなかったのは理解している。
今更ではあるが、俺を頼ってくれれば良かったのにと思う。向こうにいる間でも、書類くらい片付ける余裕はあったのだから。俺が出来るものは俺が片付ければこんなには溜まらなかった筈だ。
いや、俺が察してぶん取って処理するくらいすべきだったのかもしれない。あの頃のアンナはアンナらしくなかった。
ひとまず差し迫ったそれらを片付けるとして、その後に手をつけなければいけないのは、俺の一存で進めるのを躊躇う類のもの——そのうちのひとつが完成した茶の販売に関する計画書なのである。
指示されなければ動けないわけではない。けれど、あくまでアンナ主導で動いているスタンスを崩したくなかった。
彼女は領民に慕われているのだ、領民の為を思い、より良い方向へと導く事が出来る。
俺はアンナではないから、彼女がどう進めたいのか大体の方向性は想像は出来ても、彼女の思う最善を的確に当てられる訳ではない。
勝手にやっていいものか迷う。
けれど迷う時間なんて無駄だ。今迷って出来ることを滞らせるならば、それを片付けてから迷えばいい。
そう気持ちを切り替えたせいか、集中できるようになった。
ここはアンナの私室とは名ばかりの執務室だ。
領地の領主館であれば、俺に与えられている俺専用の執務室もあるが、ここにはそれがない。
以前はあったのだが、アンナの元婚約者へと譲ったところ、執務室だったそれはいつの間にか遊戯室へと様変わりしてしまった。……とは言え、その遊戯室だった場所は現在物置と化しているが。
そんなわけで俺がアンナの私室、もといアンナの執務室に篭って書類仕事をするのは、公爵家に仕える者達の間では当たり前の光景でいつもの事。
いつもと違うのは、この部屋の主がいない事だ。
それだけでなく、今この屋敷には最低限の人数の使用人しかいない。皆、昔からの俺を知っている人達だ。皆忙しいだろうから本当に構わなくて良いと伝えれば申し訳なさそうな顔をしながらもどことなくホッとした雰囲気を感じた。
この半年はなにかとバタバタしていたし、特に最近はギリギリの人数で回しているらしい。
第三王子が婚約者だった頃は、王宮から複数人の使用人が派遣されていたが、もういない。
三人いたエレナ付きの侍女ももういない。
エレナの死後、心労で倒れた公爵夫人は領地に幾つかある別邸の一つで療養するため、多くの使用人を連れて行った。
アンナが事故で倒れたと聞いて王都へ戻ってきたものの、目覚めたアンナがいつも通りだと分かると、ただでさえ減っているところからさらに別邸の人手が足りないと言って数人の使用人を連れて戻ってしまった。
夫人にとって、王都にある公爵家のタウンハウスは愛娘を失った忌々しき場所なのだ。
家令の話だと、アンナを心配して王都へやってきたものの、タウンハウスではなく高級宿に滞在していたという。
エレナと夫人の関係は、俺とアンナには少々理解し難いものだった。
エレナは母親からの過干渉も依存も当たり前のように受け入れていた。エレナ自身も、母親に依存していた部分が少なからずあった様に見えた。
けれど、本当の意味でエレナが母親に依存していたのか、今となってはわからない。
幼い頃から、アンナの教育は公爵の管轄で、エレナの教育は公爵夫人の管轄だった。
もちろん、淑女教育といった類のものは可能な限りエレナと一緒に受けていたので、アンナと夫人が全くの没交渉というわけではなかったのだが、エレナと夫人の関係が濃密すぎたせいか、エレナと外見はそっくりなのに全く自分に懐かないアンナとの関わり方に戸惑ったせいなのか、決して親子関係が良いとは言えなかった。
以前はエレナがそんな二人の間を取り持っていた為、そう悪いものではなかったけれど。
余計拗れたのはエレナ亡き後、夫人がアンナをエレナの代わりとして扱い始めたからだ。アンナに、エレナと同じ様に振る舞う事を強要したとも言う。
あんな形でエレナを失った夫人の心労は相当なものだっただろうし、彼女を失った場所で過ごす事が苦痛だと嘆いていたと聞いているけれど。
アンナだってエレナの死に酷く心を痛めていたのだ。それでなくても、多忙だったアンナに母親に付き合う余裕なんて無かったと思う。
アンナは、エレナの代わりとして扱われる事を拒否した。
事故に遭い、意識を取り戻したアンナにエレナのような反応を期待していたのかもしれない。
それが叶わなかったから、再び逃げる様に別邸へ戻ったというのだろうか。
***
そんな事を考えながら、この部屋の主に代わり執務机を拝借してアンナが進めた書類の確認を進めていると、彼女がひょっこり顔を出した。
「……そろそろお茶にしませんか?」
ネルと共に部屋に入ってきて、俺が返事をする前に手際よく準備をする様を見てふと思う。
一見するとアンナではあるのだが、雰囲気が全くアンナではない。
言い方は悪いが、アンナにはもっと迫力というか貫禄がある。
それは大方、アンナが女性にしては高身長だからなのだと思っていたのだが、今の彼女は外見がそっくりそのままアンナであるにもかかわらず、そういった印象を感じないのだ。
アンナよりもずっと穏やかで柔らかいというか、緊張感がないというか。
彼女を見ていると、アンナはいつも気を張っていたのだろうと思わざるを得ない。
俺が準備されたテーブルに着くと、彼女は流れるような所作で紅茶をカップに注いだ。
そもそもアンナは自分で茶を淹れる事はしない。この場においてそれはネルの仕事だし、彼女の言葉を借りるなら『私が淹れる必要がある?』との事だ。なんでも自分で淹れた茶では味気ないと感じるらしい。
領地の特産として開発した茶だってそうだ。彼女は知識として淹れ方を知っているが決して自分では淹れない。
おかげで、俺はすっかり東方の茶文化に詳しくなった。
「君がそんな事する必要ないだろう?」
アンナの事を考えていたせいか、ついそんな事を言ってしまった。ここは素直に、感謝を伝えるべきだったと後悔するがもう遅い。
「私はアンナ様ではないのに、同じ様に扱って頂くのは気が引けると言うか……」
「それにしたって、君は伯爵令嬢だろう?」
それも名家に分類される家の令嬢だ。
「兄の手伝いをしていた頃からのクセの様なものなので」
「……レイモンドの手伝い? 君は、書類仕事ができたりするのか?」
詳しく聞くため座る様に勧めると、彼女は向かい側のソファにちょこんと座った。
落ち着かない様子でネルの方をチラチラと見ていたので、ネルを彼女の隣に座らせると、心なしか顔がほころんだ気がした。
話を聞けば、彼女は長期に渡り領地経営について本格的に学んできたらしい。
てっきり代官を立てるか彼女の婚約者が学ぶかしているものだと思っていた。
だがよくよく考えれば、彼女の婚約者はアンナの元婚約者と同じタイプだ。あのボンクラに領地を任せられるとは到底思えないので、彼女が学んできた事に納得もする。
もちろん公爵領と伯爵領では規模も運営方法も違う。とは言え、計画書だとか報告書といった書類に関しては国に報告するものにはある程度の規格があり、その形式を転用して領内でも使っているところがほとんどだ。
それに、基本的な概念はそう大きく変わらない。どの程度手伝ってもらえそうか探りを入れるべく話を振れば想像以上の返事が返ってくる。
「明日から、少し手伝ってもらえないか。主に不備がないかのチェックだ」
猫の手も借りたい現状、不備がないかの確認だけでも誰かに頼めるのは有り難い。それが実務経験者というのなら尚のこと。それなりの重要書類ではあるが、部外秘というほどのものでもない。
レイモンドとの面会までに、俺で片付けられるものはできる限り片付けておきたいのだから。
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