Who the hell is she? ③
—— 得意というよりも、好きという方がしっくりきますね
それこそ刺繍を教わり始めたばかりのアンナは刺繍が好きで、とても楽しんでいた様に思う。
仕上がりはエレナと比べると少し見劣りはしてしまうが、決して下手ではなかったし、そもそも刺繍にかけられる時間が違ったのだから仕方ない。
第三王子とアンナが婚約する前まで、公爵家の後継教育をメインで受けていたのは俺だった。叔父としては、本来俺の父が継ぐはずだったのだから、俺が継ぐべきだと考えていたらしい。しかし叔父と父が相談し、色々な可能性に備えて俺だけでなくアンナにも後継者教育は受けさせていた。
アンナとエレナは外見こそそっくりな双子だったが、性格や得意な事は全く違った。
大らかな性格ながらやんちゃな一面も持っていたアンナは、要領の良さで何事も難なくこなしてしまう。
一方エレナは、大人しく几帳面。真面目すぎるがゆえに要領が良いとは決して言えない子供だった。
そんなエレナと刺繍の相性は良く、エレナは自由時間のほとんどを刺繍に充てていたのだ。そりゃあ上手くもなる。
アンナはエレナの刺繍の腕はもちろん、エレナが刺繍に向き合う姿勢も尊敬していたから、刺繍の腕に関してエレナや他の人と比べた時だって、アンナが卑屈になることなど決してなかった。
——あの時までは。
アンナを刺繍嫌いにしたのは元婚約者の第三王子だ。アンナがプレゼントした刺繍入りのハンカチを目の前で酷評し、捨てたのだ。
控えめに言ってもクソみたいな奴だった。
あいつは言葉が暴力になる事を知らない。いや、知っていたかもしれないが、あいつは自分は特別な人間で、何をしても許されると驕っている部分が往々にしてあった。それに加え男尊女卑の思想の持ち主でもあったから、アンナがどんなに傷つけられたのか気付かないのだろう。
人は、自分の心を守るため、何かのきっかけで無意識に過去の辛い記憶を消し去る事があると言う。
事故をきっかけに、辛い過去の記憶を消し去ってしまった可能性は否定出来ない。
もしかして、目の前にいるアンナもそうなのだろうか。
そう考えると、アンナが刺繍を始めたっておかしくはない。アンナは元々、刺繍を刺すことが好きだったのだから。
「そういえば、ダニエル様の遣いだと伺ったのですが、どういったご用件ですか?」
こちらの様子を伺いながら声をかけてくる彼女に、自分が難しい顔をしていた事に気付かされた。
「アンナ嬢に快気祝いをお届けに参りました」
慌てて笑みを貼り付けてそう伝えれば、彼女はホッとした様な表情を見せた。
「東方の国の茶です。香りも色も紅茶とは全く違うのですが、紅茶と同じ茶葉から作られているそうですよ」
勿論これは東方の国の茶を模した、開発中の茶である。俺がポケットに忍ばせていた掌に収まる大きさの缶ををテーブルの上に置くと、彼女はふんわりと微笑んだ。
アンナはエレナが亡くなってから困ったような笑顔しか見せなかったのに。アンナが久しぶりに自然な笑顔を見せたと思ったら偽物かもしれないだなんて皮肉なものだ。
「珍しいものをありがとうございます」
「お嬢様、せっかくですので、頂いたお茶をお淹れしましょうか?」
「是非そうしてください。贈り主にも感想を伝えますので」
贈り主は勿論自分だ。感想は直接聞いてやる。
予定通りネルが茶を淹れることを彼女に提案すると、嬉しそうに彼女は同意した。
香りが記憶を呼び覚ます事があるという。
渋る領民たちの元へと足繁く通い、本物の東方の茶を振る舞って、これを新しい特産にしたいとアンナが説得し、数年に及ぶ試行錯誤の末、ようやくここまで辿り着いたのだ。
領民達を動かしたのはアンナだ。俺ではない。
忘れたなんて言わせない。思い出させてやる。
「香りを活かすため、湯は少し冷ましてから淹れるのがポイントなのですよ。紅茶と同じように淹れてしまうと、苦味や雑味も出てしまいますし」
「リチャード様はお詳しいのですね」
「ただの受け売りの知識ですよ」
これはただの受け売りの知識だ。それを俺にしつこいくらいに言ってきたのは他でもない、アンナなのに。
ガラスのティーポットから注がれる茶をうっとり見つめていた彼女。
ティーカップにそっと口をつけ、味わう様に飲み込んだ後に発した言葉が許せなかった。
「初めて頂きましたが、とても美味しいですね。味も香りも、とても好みです」
それが裏切りの様にしか聞こえなかった俺は、我を忘れてしまっていた。
「お前は、誰だ?」
「……え?」
「お前は誰だと聞いている」
先程までとは全く違う俺の態度に、彼女が怯んだのがわかった。
「お前、アンナじゃないだろう? ならば、誰だ?」
彼女は助けを求める様にネルを見たが、ネルに助ける気がないのだと判断したらしく、こちらに真っ直ぐな視線を戻した。
尚も俺が言い募る中、彼女は焦る素振りもなくただ粛々と俺の言葉を受け入れている。正直そんな反応は意外だった。
「……気付いていたなら、どうしてもっと早くに言ってくれなかったの?」
それは俺ではなく、ネルに対して問いかけられた。
怒るでもなく、怯えるでもなく、ただ純粋に疑問であると言わんばかりの表情に正直拍子抜けした。
「アンナ様である確信も、アンナ様ではないという確信もなかったからです」
真顔で淡々と答えるネルだが、俺にはネルが動揺しているようにしか見えなかった。
ネルも先程までの俺と同じように、アンナがアンナではない事を認めたくなかったのだろう。
「奥様に対する態度、食べ物の好み、ふとした時の仕草はアンナ様と一緒です。それに、アンナお嬢様が刺繍をお嫌いだと仰るようになった経緯を考えると、時間のたっぷりある今ならば、奥様の勧めで再開される事もあり得なくはないと思ったのです」
ネルだって、刺繍が好きだった頃のアンナを知っている。あの頃のアンナは刺繍をしてはエレナと互いの作品を交換して部屋に飾っていた。
少し前、ネルは手紙で、アンナから刺繍入りのハンカチをプレゼントされたと嬉しそうに報告してきたのだ。
かつてアンナは、余裕ができたらネルにも刺繍入りのハンカチをプレゼントすると約束していた。けれど、第三王子の言葉で刺繍の道具を手放してしまったアンナ。
アンナは詫びとして、刺繍入りのハンカチをネルに贈りはしたが、そのハンカチは職人が刺繍を施したものだった。ネルはそれをとても喜んで受け取っていたが、そのハンカチを眺めてはどこか寂しそうにしていたのを覚えている。
そんなネルが、過去のアンナとの約束を思い起こさせる行動が嬉しくなかったはずはない。
だからこそアンナでない可能性が高まった事に、俺同様戸惑っているのだろう。
「ネルからは早い時点で報告をもらっていた。泳がせろと指示したのは俺だ」
俺は言葉に詰まってしまったネルに代わって説明をした。
珍しくネルが動揺する姿に、俺が冷静にならざるを得ないと無意識下で思っていたのかもしれない。
俺とネルの間では、彼女が刺繍を始めた時点でエレナがアンナに憑依しているのではないかという疑念が生まれていたが、それは彼女自身の行動や趣向からすぐに否定される事となった。
だからこそ余計、記憶の一部を失っていたとしても、彼女がアンナである事を確認したかったのだと、冷静になれた今ならわかる。
彼女は肝が据わっているのか、ただ空気を読めないだけなのか、先程よりもずっと落ち着いているようにも見える。
もういっそ、清々しいくらいに開き直っているようにしか見えない。
だからつい、酷い言葉をかけてしまった。
「まずは、お前が何者か聞かせてもらおうか? どうして、いや、どうやってアンナの身体を乗っ取った?」
けれど彼女は真っ直ぐに俺を見据えたまま口を開いた。
「私は……レイラ・リンドグレーンと申します」
冷静でいられない俺とは違い、彼女はひどく落ち着いた声でその正体を明かしたのだった。
残り68日