表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

月虹

掲載日:2009/08/18


 僕はベットの背にもたれている。

 ぼんやりとした眠気と、考えなければいけない課題が頭の中を占める。

 前者は黙っていても存在する。

 だが、後者は頭を出したり隠したりで、その度に考えは始まりに戻ってしまう。

 結論が出なければ動き出せない。

 けれど、自分の意識に潜って課題を探すのも、頭を使って考えるのも面倒だ。

 もう少しこのまま眠気に身を任せていよう。

 それを責める人は誰も居ない。

 もしかしたら、いつか誰かが僕の肩を揺さぶってくれるだろうか。

 そんなことを考えながら、いつまでもこうしてベットの背にもたれている。



 こちらからうかがうまでには普通の女の子。普通、というよりは少し大人びて綺麗な顔をしていると思う。年齢は推測しがたい。十代と言われれば、そのどことなく幼げな雰囲気で納得はするけれど、二十代と言われても、色気のある唇と意志の強そうな目に納得させられるだろう。スッキリとした顔立ち。肌は白く、手足がほっそりとしている。こういう言い方は良くないかもしれないが、本当に、指が気色悪いほどに細長い。髪はしっとりまとまったストレートヘア。胸元までの長さ。茶色に近い亜麻色をしていた。髪質は艶やかというよりはサラサラと言った感じだった。

 印象に残る部分は、猫のような目。くりくりとした丸い瞳を、細く鋭く、長い睫毛にを彩らせながら囲っている。いつもは細いままだが、何かに驚いたり、何かを言ったり、何かを見つめたりする時、その目はパッチリとした瞳の輝きを放つ。シルクのキャミソールワンピースから伸びる小さな肩と細い腕、折れてしまいそうな足。

 魅力的な女の子なんだろう、世間の一般的意見からすれば。

「何よ、食べないの?」

 彼女はナポリタンを食べ終え、紙ナプキンで口を拭きながら言った。

「いや、食べないとか食べるとかじゃなくて……」

 僕は言葉に詰まった。

 目の前に置かれた皿の数。一枚、二枚、三枚、四枚、彼女の今食べ終えたのを合わせれば、五枚。

「そこのサラダ、要らないなら頂戴」

 要らないより何より、既に彼女の細い腕がこちらに差し出されていたので、僕は何も言わずサラダの盛られた皿を渡す。

「ドレッシングは?」

「かかってるよ」

 新鮮そのものといったいい音を立てて、彼女は最初の一枚のレタスを消化していった。それを皮切りにして立て続けに皿の上のものを口の中に押し込む。よく咀嚼しているような、胃に押し流しているような。こっちが何か食べなくても満腹になるような、逆に何かもっと食べたくなるような、不思議な食し方だった。フォークで刺されたレタスの上に乗っていたサイコロくらいの大きなクルトンが、皿の上の別のレタスの上へ落ちる。彼女はいっぺんにレタスを二、三枚口に押し込む。僕の口にもレタスの味が広がってきそうだった。苦いような、逆に何も味がないような、自然独自の味。

「ドレッシングが足りないわ」

 散々食べまくっていたのに、いきなりこちらに手を出す。僕とは視線を合わせていないが、ドレッシングを取れと言っている事はすぐに分かった。僕が近くのドレッシングを取ると、「ありがと」と言ってたっぷりとサラダにかけだした。それもどろっと。ほとんど野菜の風味なんて無くなってしまうのではないだろうか。皿の底ではドレッシングが油の膜を光らせていた。

 本当に良く食う奴だ。この細い体の何処に、こんな大量の食べ物を収めるだけの場所があるのだろうか。人間の消化能力がこれ程素晴らしいと思ったことはない。

 僕が眉を寄せて彼女を見ていると、不意に彼女が皿から視線を上げた。

「お腹減ってないの?」

 フォーク片手に僕に尋ねてきた。

「いや、減ってない訳ではないんだけど」

 僕は自分の腹をさすってみた。むしろ、今きちんと意識をすれば激しく空腹なくらいだ。今まで自分のことなどほとんど意識していなかったので忘れていた。

「じゃあ食べればいいじゃない」

「そうは言われても、今はこんなレストランで食事が出来るような手持ちがないんだよ」

「お金? そんなの私がいくらでも払うわ」

 そんなことを言われ、易々と「そうですか」なんて言える訳がない。僕は空腹と格闘しながら、ひたすら彼女が食べ終えるのを待った。

 そもそも僕がどうしてこんな所でこんな人と一緒に居るのか。それは思い出すのも困難なくらい、不思議で不可解な出会いだった。

 僕がいつものように駅前の空中歩道を歩いていた時のこと。僕がこれから行くべきアルバイト先の書店の近くにある、某世界規模チェーンホテルの前を通りかかった。そのホテルは三ヶ月前にここにオープンしたばかり。この空中歩道はホテルの三階ロビーと繋がっており、一、二階はブランド品から雑貨屋までショッピング・モールとなっている。そして一番上とその次あたりは高級レストランの階。その他は全てホテルの部屋だ。ここが出来立ての頃にパンフレットを見たが、パンフレットをもらうだけでお金がとられそうな豪勢ぶりだった。

 いつもは通り過ぎていた道なのだが、今日はゆっくりする時間があったので寄ってみる事にした。三階のロビーから入り、一階のショッピングモールへと向かうことにした。極めて近代的な形の自動回転ドアを進むと、ひんやりした空気が僕を包み込んだ。若干肌寒いくらいだ。受付嬢を見ても、彼女達は長袖で丁度良さそうだ。やはりホテルとはスーツで来る人たちの方が多いのだろう。僕のような格好で来る奴なんてあまり居ないのだろう。ちなみに今日は、普段よりもっとラフな格好だった。確か昨日も似たような格好をしていたが、服装なんて増えるものでも減るものでもないし、なんでもいいと思っている。

 僕はエレベーターに乗り一階へ。気に入っているスポーツの専門店があるのだ。バックを新調しようかと思っていた。バックと言っても、皮とか何かじゃない。単なるシンプルなスポーツバックだ。

 僕が商品を見ていると、隣の店のブースから、声をかけられた。仕切りも何もないので、思い切りダイレクトに。

「これ、似合うかしら?」

 初めは連れか何かに話しかけているのかと思ったが、彼女は一人。そして僕の方も一人、しかも近くに店の者も居ない。

 少し戸惑いながら顔を上げ、良く見ずに、

「似合うんじゃないですか」

 と言った。

 僕はこういう妙に社交的な人は好きになれないので、すぐに去ろうと思ったのだが、僕の行動より彼女の行動の方が早かった。

「ねえ、ちゃんと見てないでしょ」

 捕まった。僕はそう思って額に手をやった。そして振り返る。まじまじと顔を見てみると、一般男性にとってはまあいい感じの女性ではあったが、僕としては「唯我独尊」」といった感じのオーラが感じられた。僕が最高に苦手とするタイプの女性だ。

「私暇なのよ、何でもいいから付き合ってくれない?」

 そっちが暇でも、こっちは全然暇じゃない。バックを品定めしたらとっとと本屋のバイトにいかなくてはならないのだ。

「んーと、今は九時半かぁ。じゃあブランチの時間かな」

 考えながらもこちらの意思は一切考慮しない辺り、我が道を突っ走るオーラも感じられる。いずれにせよ僕が最高にが手とするタイプの女性だ。最高に。

「ブランチ?」

 僕が聞き返すと、彼女は目をパチリと開き、こちらを窺った。

「ブランチっていうのは朝食と昼食の間の時間くらいに、食事を両方まとめてとっちゃうアレのことよ?」

「いや、分かってるけどさ」

 どうして僕が君と食事しなきゃならないのさ、見ず知らずの、今ばったり会ったばかりの人間と。そう言おうとした瞬間、

「小さいこと気にしてたら器の大きな人間にはなれないわよ」

 と、彼女に言われた。

 そして彼女は、いつどこでどのような機会に着るのかも分からないような大人びたスーツを手に取った。

「品川さん、この黒のワンピースにするわ」

 彼女は店員をまるで旧友のように呼びつけ、カード支払いを手早く終えた。

「毎度ありがとうございます」

 きっと彼女は未成年だろうから、恐らく親名義の家族用カードだろう。

 サインの所には『西枝 理沙』と優雅なボールペン字でサインしていた。ニシエダ リサ。僕の知った名前ではない。

「さ、行くわよ」

 僕のことなどお構いなしに手首を掴んで引っ張り、ずんずん進んでいく。

「行くって何処へ?」

 僕が訊くと、彼女はいきなり立ち止まった。僕は見事にぶつかってしまう。幸い、僕の胸板に彼女の頭がぶつかるだけで済んだ。何しろ15cm以上の身長差があるのだ。

 謝ろうかと思った瞬間、彼女は僕の方に向き直り首を上げながら、

「レストラン」

 と一言言い放つ。

 僕は何の抵抗も出来ずそのまま連れてこられてしまった。そして、ここでこうして彼女の「ごちそうさま」を静かに待っている。ここまで来ると「バイトだからもう行く」とも言い出せない。

 なんだか周りの人たちもこんなチープな格好をした僕を珍しそうな視線で見ているような気がするし、僕はといえば空腹と戦ってるし、目の前の女は大食いも程々にしろというくらい食べまくっているし。元々あまり発言するタイプではないが、本当にもう何も言えなかった。

 僕は良く無口と言われる。そして無表情とも言われる。ちなみに無表情は無表情であって、無愛想ではない。一応表情を浮かべるべき所は浮かべる。

 それから、人生において楽しみがないんじゃないかと良く言われる。ゲームもしなきゃ漫画も読まない、小説も読まなきゃスポーツもしない。

 僕には個性がないと、周囲の人間は言う。でも僕は十代の頃だって、勉強も大体平均点以上はとれたし、通知表も人に見せられないものではなかった。素行も悪くはなく、何かを患っていたり、生まれつきの問題があったりすることもなかった。握力も腕力も脚力も弱くはないし強くもない。走りも早くもないし遅くもない。僕には「ない」だらけだ。だからといって、僕は自分を悪いように考えたりはしない。勿論、良いようにも。

「個性が無さ過ぎるのも、逆に個性ね」

「何が」

「今貴方の考えていたことに対して」

「フォローをどうも」

 そう言ってからしばらくし、僕は訝しげに眉をひそめた。

「今、なんて言った」

「個性が無さ過ぎるのも、逆に個性ねって言った」

「そうじゃない、その後」

「何よ。今貴方の考えていたことに対して、よ」

 当たり前のように言い放ち、アサリのパスタを食べ始める。

 僕はしばらく顔をしかめたまま、沈黙を守っていた。視線は彼女の動作に向けられている。彼女は本当に美味しそうに、優雅に物を食らう生き物だ。

「どうして考えてることが分かったんだ?」

 目の前の小娘に、僕は謎かけを解くような表情で訊いた。

「顔に書いてあったわ」

「嘘付け」

 なんだか不思議だったが、とにかく彼女の中には「唯我独尊」の四文字しかないようだ。自分の世界に入ってきたものは全て自分のルールで進行していかなくてはならない。それに反するものはいかなる処分も厭わない。そういった感じだ。

 こんな個性のない僕、僕には友達と呼べるような人は居ない。知り合い、程度なら居るけれど。やはり、何かを洗いざらい吐ける友人も欲しいと思うことも時々ある。それは世間的には「親友」というのだろうか。僕の人生において、話し足りないと感じることは結構多いのだ。だから今は、多くの言葉が生まれては、心の中で反芻して消えていってしまう。

「私は全てにおいて何かを話す友人なんて必要ないと思うけど?」

「それじゃ親友とは言えないな」

「でも何も隠さない同性の他人なんて気味が悪いじゃない」

「ところでそれは何に対して言ってる?」

「勿論、今貴方の考えていたことに対して」

「毎度のことだけどなんで分かったんだ?」

「もう、貴方って質問ばっかりするのね。顔に書いてあったからっていったじゃない」

「僕の顔の何処にそんなことが……」

 僕は自分の頬に触れてみる。特に何も感じられない。いつも通りの冷たい肌だ。

「鏡見たい?」

 彼女が僕に言うので、僕はコクリと頷いた。

 彼女から小さな黒い鏡を受け取ると、自分の顔をうつしてみた。

 だがやはり、何の変化も見られない。

 僕はいかがわしげな視線を、彼女に向けた。

 彼女は僕と視線を合わせる様子も無く、

「このスパゲッティ思ってたより美味しいわね」

 などと呟いていた。

 その後もしばらく彼女は、優雅で豪快な食事の時間を楽しんでいた。

「はあ、おなかいっぱいだわ」

 ようやく僕に意識をやると、

「あら、結局何にも食べなかったの?」

 僕はため息をついた。

「当たり前だ」

 向こうもタメ口をきいてくるようなので、こちらもタメ口を使う。

「じゃあちょっと来て」

 少女に強引に案内されたブティックで、僕は何が何だか分からないままスーツを見立てられた。

 あれでもないこれでもないと一人でブツブツ言っては、僕を着せ替え人形にしていた。

 そして。

「私と一緒に食事をしてくれた御礼よ」

 僕は、真新しいスーツに包まれて戸惑っていた。彼女は「似合うわ」と言って微笑んでいたけれど、僕としては全く事情が理解できない。

 そんなこんなで僕が外に出た時には、すっかり暗くなって、夜空が僕等を見下ろしていた。宝石箱をぶちまけたような星空も、この建物が放つ光によって全てがかき消されている。

 彼女は満足そうに微笑むと、タクシー乗り場まで案内した。ホテルから流れる音楽が仄かに聞こえる。

「久々に人と食事が出来て楽しかったわ」

 と言って、擦れ違いざまに僕に一枚のお札を渡した。僕は驚いて振り返る。

 僕は思わず、去ろうとする彼女の手首を掴んだ。

「待って。僕は君の名前も知らない」

 裸眼の中、妙にくっきりとした空間が広がる。

 細いキャミソールの紐がかかる、むき出しになった彼女の肩から伸びる細い腕。真っ直ぐの髪は、造作も無く風に吹き乱れていた。そんな中、彼女の意志の強そうな瞳だけが、僕をずっと見据えていた。瞬間瞬間で切り替わる、猫のように悪戯な光が僕の目を掴んで離さなかった。

「名前?」

 鈴の音のような声を発する形の良い唇に、僕は視線を逸らせなくなった。

「名前なんてもので縛る必要なんて無い。あなたが私を、ソレだと思って呼べばソレは私になるし、コレだと思って呼べばコレは私になるの」

 生温い風が、僕の言葉をさらっていってしまう。

 カードに書いてあった名前――西枝 理沙。何だか嘘のような気がした。

 だからと言って僕は、彼女をなんと呼べばいいのだろう。

 なんと呼んで、彼女を引き止めればよいのだろう。

 僕の手の中をするりと抜けていく彼女の細い手。僕はバランスを崩しそうになったところを、もう片方の足で支えた。

 去り行く彼女は小さな背中越しに手を振った。彼女の完璧なまでに整った指が闇に映える。夜の空気を掻いて、僕から遠ざかっていく。

「アリア」

 彼女の足が、瞬時に固まったかのように止まった。

 そして、僕を振り返る。

「何?」

 しばらく僕の瞳を探るように見つめていた視線が崩れたと思ったら、彼女の唇がそっと動いた。

 夜のホテル前で僅かに流れるこの曲――G線上のアリアが、ふっと彼女に重なった気がした。

「え、と……」

 僕は思わず口ごもる。彼女を止めようとした理由も分からない。

 そんな僕に彼女が近寄って、その細い腕をすっと伸ばして僕の頬に触れた。そしてどこまでも透き通ったブラウンの瞳が僕の瞳を覗き込む。

「今貴方、何も考えてない」

 珍しいものを見たかのように彼女は言った。

 僕は少し困惑して、眉をひそめた。

 けれど次の瞬間、彼女は僕から手を離した。僕が何かを考え出したということだろうか。

「しょうがないなぁ。もう許してあげる」

 彼女は親に褒められた子供のようなはにかんだ微笑みで、

「私に名前をありがとう。私の戸籍上の名前は、稲岡 志保よ。志保って呼んで」

 と言った。

「よろしくね、上村 恭介さん」

 カールした長い睫毛と共に上目遣いで悪戯に微笑む、稲岡 志保と名乗った目の前の女性。

 僕は今一瞬確かに、彼女に心を奪われてしまったのかもしれない。




 二人で、眠りかけている街を抜けていく。

 遠くに見えるネオンの灯りは柔らかく、薄らぼけて見えた。

 志保の細い腕に引かれて、僕はダンスのをステップ踏むように人込みを進んでいく。

 固く握り返す僕の手に熱がこもる。

 街の眠りに吸い込まれないように、二人で進んでいく。

 彼女は暗闇を選んで進んだ。

 だから尚更、夜を隠そうとするライトが眩しく感じられた。

 ここにいる人々は皆、街の眠りに気付いてはいない。

 気付く必要もないのかもしれない。

 身体の半分を街にうずめ、そこから動けないことを不自由とも思わない。

 恐ろしいことだった。

 人々にはまるで顔が無いようで。

 小さな感情に揺れ動いて、心の炎を大きくしたり小さくしたりするだけ。

 大きな感情もなく、僅かな数の単純な気持ちにもてあそばれる。

 前方から緩やかな風が吹いて、彼女の髪が宙に舞った。伸びた背筋から続く首筋が覗く。

 僕がそれに気を取られたのは、一瞬のことだった。

 次の瞬間、僕の手は支えを失って前につんのめる。

 そして僕の手の中から失われた、細くしなやかな希望。

 眠りに落ちていく街の中で、僕は人知れず悲鳴を上げた。



「恭介くん本当に不器用」

 唇を尖らす志保に、僕は反論の言葉を口にしようとする。

「だって」

「“だって”も“でも”も無いのー」

 だが彼女は僕の言葉を遮った。反論しても無駄だと思い、僕は黙った。

 シングルベッドの上には、しわくちゃになったシーツと衣類が、見分けがつかないくらいごっちゃになっていた。

 その脇にある大窓から覗く太陽は既に高く、僕に“そんなところでいつまでも何をしているの?”と尋ねているようだった。

「もう自分でやっちゃったもの」

 さっき僕が悪戦苦闘していたネックレスのホックを、いとも簡単に止めてしまう志保。なら最初から自分でやればいいじゃないか、という言葉をギリギリのところで飲み込む。

「で、恭介くんは準備できたの?」

 くるっと振り向いた志保の表情に、思わずハッとする。しっかりとお化粧をした志保は、いつもよりずっと大人びて、美しく見えたからだ。

「僕はこのままでいいだろう?」

 僕は、座っていたもう一つのベットから立ち上がって、腕を広げてみせた。

 志保の表情は見る見る歪んで、小さな唇の間から零れる白い歯はその姿を消した。

「まるでお葬式じゃない」

 彼女の痛烈な一言が胸に刺さる。

「いや、そんな事言われたって、ただ『正装で』って言われただけなら大概の人がこの格好で来ると思うけど」

 自分の言葉不足に覚えがあるのか、不満げに小さく眉を寄せた。唇は微笑みとは逆の向きに曲がっている。

「じゃあいいや。今から着替えて」

「今から? 間に合うの?」

「間に合わせてみせるわ」

 志保の目がパッチリと見開かれた。

 僕はああでもないこうでもないと彼女の着せ替え人形になり、より早く着脱することを要求された。彼女は「わざわざトイレなんかで着替えなくていいから早くして」と僕の気遣いを全く無視して、服をむしり取っては押し付ける。僕には「女は強くなったものだ」と、心の中でため息をつく以外何をすることも許されなかった。

「よしっ。できたぁ」

 志保の声が明るくなった。薄い薔薇色に染まった頬がキュッとあがって、彼女に微笑みが戻る。

「見て見て、恭介くん」

 大きな鏡の前に僕を引っ張ってきて志保が隣に立つ。

「白と黒が混じってて、なんだか対みたいでしょ?」

 この距離のせいで上目遣いになって尋ねる。

 僕の黒のネクタイには白く輝くスワロフスキーが適度にあしらわれ、ダークスーツに映えていた。志保は純白のふんわりとしたワンピースに身を包み、真っ黒い小さなバックを持っていた。

 僕は少し眉を寄せて考えてから、一言だけ言った。

「僕は生憎、志保を相手にするようなロリコン的なものは持ち合わせていない事だけは言っておくよ」

「じゃあ、恭介くん何歳なのよ」

 唇を尖らす彼女に、僕は言ってやった。

「二十二歳」

「じゃあ全然、“少女とお兄さん”の関係じゃないじゃない」

 そう言ってから上目遣いに見上げ、自信満々に言う。

「私十六歳だもん」

 僕は思わず額に手をやった。

「僕は十分“少女とお兄さん”の関係だと思うよ」

 思えば彼女の年齢を聞いたのは初めてだった。

 名前だけしかしらない相手の急な呼び出しに、僕はどうして素直に呼び出されていったのか。謎だ。

 その上僕は彼女に自宅の電話番号を教えていない。不思議だ。

 更に僕は彼女に自分の名前を教えては居ない。怪しいものだ。

 言いたいことや訊きたいことは沢山あるけれど、もう少し黙っていても別に平気そうだった。

「じゃあ、部屋を出るね。何があっても私の側にずっと居てね」

 桃色と赤色がうまく交わりあったような色をした唇が、可愛らしく動いて僕に言葉を伝える。

 僕は急に呼び出されただけで、何が何だか分からないまま。今は彼女の言葉だけが僕の全てだった。

「トイレにいきたくなった場合は?」

「我慢」

「どうしてもこらえられなかったら?」

「忍耐」

「災害が起きた場合は?」

「護衛」

「……分かった」

 僕は小さく頷いた。

 そして僕はドアに手をかけようとした。次の瞬間だった。

「お待ちしておりました」

 ドアは勝手に開き、ホテルマンが僕に深々とお辞儀をしていた。

 一旦頭をクールダウンさせて、うまく自体を把握しようと考える。だが、僕の背後の人間はそれを許さない。僕の背中をぐいっと押した。

「西枝様、上村様」

 志保のことを、稲岡様とは呼ばなかった。それが僕の頭に引っかかる。

 僕は従業員に促されて廊下へ出る。そこで僕は再び驚くこととなる。

 僕らの進むべき方向の廊下は、左右にそれぞれ女性男性従業員が均等に並び、その先のエレベータも停止している。

「いきましょう」

 志保が隣に並んで僕の腕を引く。

 とりあえず今は何をしてもどうなるというわけでもなさそうなので従うことにした。

 真横から見下げる彼女はとても小さく見えた。髪には分け目を中心として天使の輪が出来ている。

 彼女の方ばかり見ていたら、さり気なく腕をつねられた。不意打ちに少し顔を歪めた。

 僕らはエレベータに乗った。従業員たちはここまでらしい。深々と礼をし、ボタンを操作して僕たちをどこかへと送る。

 ドアが完全にしまってすぐに、志保は楽しそうに僕を見た。

「ねっ、私たち二人きりになるとスパイみたい」

 眩しいまでの志保の笑顔につられて、「そうだね」と返事をした。今更「どうなってるの?」や「どういうこと?」なんて訊いた所で意味が無いことを、僕は分かっているからだ。

 志保が僕の腕をまだ掴んでるのを見て、

「志保、服にファンデーションが着く」

 と忠告した。化粧が剥がれてしまってはせっかくのおめかしも台無しだ。

「うん。注意する」

 そう言ったにも関わらず、より一層密着してきた。もうどうでもよくなって僕は何も言わなかった。

 エレベータは最上階で止まり、開くとすぐに先程と同じ光景が広がっていた。

「お待ちしておりました。こちらへどうぞ」

 白髪豊かなホテルマンが僕らを案内する。道なりに沿って従業員が男女に分かれ左右に並んでいるので、どこへ向かっているのかはすぐに分かった。

 最上階の廊下やロビーは全面ガラス張りで、小さなピアスをばら撒いたような夜景が広がっていた。ホテル内の照明が僅かに落とされていたせいもあって、その夜景は更に引き立って見える。

 けれど隣に並ぶ志保は、それには見向きもしないで僕の腕に抱きついて真っ直ぐ前を見つめていた。表情は窺えない。僕も前に視線を戻す。

「こちらでございます」

 着いた場所は、巨大なシャンデリアの吊るされたレストラン。最上階と一つ下の階を合わせて作られた造りになっていて、非常に広い空間を演出していた。何組かのゲストが食事を楽しんでいる。ゲストの数よりもシャンデリアが多いのではないかと思わせるこの贅沢なレストラン、中央には宝塚張りの大階段もあった。

 尻込みする僕に対し相当場慣れしているらしい志保は、組んだ腕で僕をさりげなくリードする。

 案内された席に座らされ、しばらくすると料理が出てきた。案内役のホテルマンは「ごゆっくりと」と言ってこの場を去った。僕らの周りにはようやく人が居なくなった。

「毎度のことながら、いきなりのことで驚いたよ」

「そうね」

 志保の微笑み。細い首筋が覗いた。よくみるとそれもすぐに昨日とは違って、毛先が少しカールした髪型をしている。

「俺の家は、犬はポチ・猫はタマっていう、世間一般常識だけが決まりの平凡だけが取り柄な家なんだ。こんな高級そうな場所のマナーなんて分からない」

「そのノリだと兎はミミね」

 志保は僕の言葉の本当の訴えを一切無視した。

 前菜に手をつけた時、志保が言った。

「恭介くん。聞きたいことがあるんでしょう?」

 僕は手を止めて志保の方を見た。テーブルを挟んだ近距離なのに、少し遠く感じられた。

「三つだけなら質問に素直に答えてあげる」

 何処かの映画か小説みたいな台詞だと思った。僕は手をつけかけの野菜を口に含んで、それから考える。

 僕が聞きたいこと。沢山あったはずなのに、今はあまり浮かんでこない。それとも僕は、自分の中の疑問を掘り返してしまうことを恐れているのだろうか。

「偉そうに言うけど、逆に志保は何を訊いて欲しい?」

「それは一つ目の質問?」

「じゃあそれでいいよ」

 僕は彼女の瞳をじっと見つめた。吸い込まれそうな程、光を放っている。

「『私が恭介くんのことをどう思ってるか』とか」

 艶かしいまでの唇の動き。小首を傾げるその仕草さえ、子供とは思えぬ色気を発する。

「分かった。志保は僕のことをどう思ってる?」

 僕は志保の方を見つめて答えを待った。鸚鵡返しに言ってしまってから、少し恐くなったような気がする。疑問など持つべきではないのだ。せっかく自分の中でケリがついていたことや、割り切っていたことを、自ら掘り返してしまう行為だ。

 僕は奥歯に力を込めた。不安になるとやってしまう癖だ。

「怒ってるの?」

「いや」

 志保の問いに短く答える。

「私ね、恭介くんは思ったことの半分以上をしまい込んでる人だと思う」

「否定は出来ないな」

「心の中でいっぱいのことを考えてるの。私には読みきれないくらいね」

 そう言って小さな肩を竦めた。

「恭介くんの心はとても面白いことを考えていて、それに加えて辞書みたいに沢山の知識が蓄積されてる。でもそれは開かれない辞書なの。本当は誰かが開いてあげるべきなんでしょうけどね」

 唇の両端をキュッと上げて僕を見つめる志保。まるで奇跡が起こったかのような輝きを放つ背景。目眩がしそうだった。

「あと二つよ」

 僕は自分の意識に潜って疑問を探した。不思議なまでに何も出てこなかった。高級な服を見立てられ、目の前には年下だけれど綺麗な女性が。この状況下に於いて、疑問を差し出すことが本当に正しいのかさえも、今の僕には分からない。

「志保は」

 気付けば僕は口を開いていた。

「志保は、自分のことをどう思ってる?」

 目をパッチリと開いたかと思うと、ゆっくりとそれを細めた。

「恭介くんは本当にそれが聞きたいの?」

 僕は黙って頷いた。

 志保の唇が一文字に結ばれる。左右に引かれたその筋は、難しい何かを考えている時のものだった。

「私は、自分のことがあんまり好きじゃない。でも生まれてきてしまったものはしょうがないから、自分を楽しもうとしてる」

 “自分を楽しむ”。今まで聞いたことのない言葉だった。

「稲岡 志保っていう人間は、係わり合いのある多くの人にとって迷惑な存在だということを自覚している。それに目を塞いでいるのも自覚している」

 志保の口から零れる言葉は、どれもこれも悲痛な響きを伴っているように思えた。

「もし私が他人であれば、側には置きたくない人。それを分かっていて人に寄生したがる人」

 僕の中に彼女の言葉がうまく入ってこなかった。言葉は言葉としてそこに存在し、僕が飲み込むのを並んでじっと待っていた。

 志保は能面のような表情で、全てに対する憎しみを全身から放っているようだった。

「ごめんね、お喋りし過ぎちゃった」

 僕が気付いた時の彼女は、既にお茶目な笑顔を取り戻していた。取り戻すは違うかもしれない。笑顔の仮面をかぶり直していた。

「あと一つ。もう決まった?」

 再び頷く。

 僕は、喉まで溢れていた言葉をようやく開放した。

「今答えてくれたことは全て本当?」

 僕の声がなぞる文章。異様なまでの現実味を持って耳へと到達した。

 彼女はそれに、静かに頷いた。

 彼女は見事に、僕の言葉の網から擦り抜けたのだ。




 彼女の桜色の耳朶が、僅かに震えた。

 そして彼女が振り返る。

 彼女の手の中で小首を傾げる小猫の顔が覗く。

 子猫と僕の視線が合う。

 志保の華やかな微笑みが僕に語りかける。

 幸せな日々だと。

 僕も微笑みを返そうとするけれど、唇がわななくだけだった。

 次の瞬間、僕の口から真っ赤な血が溢れる。

 生々しい赤が僕の視界を染めてゆく。

 泣きそうな顔で志保が僕を見つめている。

 腕に抱きしめた猫が彼女の胸元を擦り抜けてしまった。

 志保が小さな肩を寄せて、小さく泣き出した。

 平和な日々がぼやけていく。

 だからいったろう、僕たちにはこんなことは許されないものだったんだ。



 目覚めた時。僕の目の前には、彼女のウエストがあった。

「あ……目、覚めた?」

 僕はぼんやりとしたまま頷く。

 彼女の身体が僕から離れて、顔が現れる。どうやら僕の寝ている場所より奥にある物を取っていたそう。

 ノーメイクなのに唇が紅くて、艶めかしく感じられる。

「おはよう」

 志保が僕に言う。

 僕の視界に広がる、広い天井。僕の下の、ふわふわとしたベット。

 僕は記憶を辿った。昨日の昼間いきなりの呼び出しをされて、買い物に付き合った後、泊まっていってほしいと部屋を提供された。

「志保は隣のベッドで寝てた?」

 何故だか記憶が曖昧だった。

「うん。でもあんまり寝れなかったわ」

「僕、寝言言ってた?」

「どうして?」

「最近妙にリアルな夢を見るから」

 僕の答えに、志保はさほど興味はなさそうに返事をした。ドレッサーの前で足をぶらぶらさせながら、髪を梳かしている。

 そして新たな質問をぶつけてくる。

「お腹減らない?」

 朝食の誘いだった。僕は起きたばかりであまり減っていなかったけれど、今を逃しては食事は出来ないと思い頷いた。

「それじゃ、服を着替えて行きましょう」

 肌蹴た僕の寝巻きに押し付けるように、志保が選んでおいたと思われる彼女好みの服を渡された。

 もう何日、志保と会っているだろう。彼女の香りから彼女の癖、趣味まで、僕の中に入ってきている。

 僕の着替えが済むと、すぐに細い手首に引かれて一階へ。雨の庭を見ながらの朝食だった。湿っぽい日だった。

 朝食のパンにバターを塗りたくりながら、志保が言う。

「恭介くんは、彼女とか居るの?」

「彼女とかの“とか”って所が良く分からないけど、そういうのに当たる存在の人は今のところ居ないな」

「昔は?」

「昔は居たさ。僕にだって青春時代はあったんだ」

「そうなんだ」

 志保は関心無さそうにパンを口に頬張った。

「キスしたことはある?」

「人並みにはあるよ」

 僕もパンを食べた。フランスパンだ。

「私には聞かないの?」

「聞いてもどうせ、『女性にそんなこと訊くべきじゃないわ』とかなんとか言うんだろう?』」

 志保は唇を引いて不敵に微笑んだ。僕の予測はどうやら当たっていたようだ。

「恭介くんには絶対教えてあげないもん」

 顎を引いて僕を見つめるその姿を見ていると、父親のような気持ちになってしまう。守ってあげなければならない存在だけれど、自分の腕の中で遊ばせておきたい存在。無理に抱きしめようとしたら逃げてしまう、猫のような女の子。

「志保は今日は早起きだったんだね」

「寝ているところをオオカミさんに襲われちゃ困るから、本能的に起きちゃった」

 僕は思わず苦笑した。先日、ロリコン的なものはないと言ったばかりなのに。

「本当は昨日ね、恭介くんが昔読んだ本の話をしてくれてた時、途中の方で寝ちゃってたの」

「そんなことだろうと思った」

 レストランを出て部屋へ戻る時、エレベータの中で急に彼女は背伸びした。それから僕の腕を引いて腰を曲げさせる。

 そして今まで感じたことのない柔らかな感覚が僕を支配する。

 それは、唇の触れた頬が溶けてしまいそうな程素敵な口づけだった。


 夜になって僕が帰ろうとするのを、志保がさり気なく阻止しようとしていることに気付いていた。それでももう十一時になり、僕は「帰るよ」と告げた。

 今日、彼女は久々に正面玄関ホールまで見送りに来た。まるで、今生の別れのように切なげな目をして。

 今日の志保は、今までとは何かが違った。

 二人で夜風に髪を遊ばれながら、ゆっくりと歩みを進めた。

「恭介くん。人が皆、完成されていない本の中の主人公だとしたら、完成された本の主人公はどんな人だと思う?」

「運命の決まった人?」

 口からすっと出てきた回答だった。昔、僕も似たようなことを考えたことがあったからだ。

「私恭介くんのそういう所好きだよ」

 突然の言葉に、僕は「ああ、そう」と言うことしか出来なかった。

 どうしてだろう。最近になって気がついた。志保の言葉に寂しそうな響きが伴っている。けれどその寂しささえも自らの美しさとしているように見える。

「ねえ、置いていかないでね」

 僕は眉を寄せた。志保は背を向けていたけれど、確実に僕に話しかけていた。

「一人にしてもいいから、置いていかないでね」

 その言葉の意味を理解しようと躍起になっていた。けれど、言葉の断片が鋭く僕の心に刺さるだけで、心にほのかな痛みが広がるだけで、全く理解が出来なかった。

 “置いてかないで”。細い喉を通って溢れる言葉は、そればかりだった。

「志保、どうした?」

 僕が話しかけた時、志保は泣いていた。起きたばかりで頭がぼうっとしているせいだろうか。一切の現実味を伴わなかった。

 志保が僕の方へ来て、僕の胸でわんわんと泣き始める。完全に、ただの子供の姿に戻っていた。

 拳が強く握られていて、関節が白くなっていた。大粒の涙が落ちていったのが分かった。

「私は生まれてきちゃいけない子だったの」

 僕は、この言葉が本当に彼女の口から出ているものか、信じられなかった。いつも、鈴が転がるような声で僕の耳や心を震わせていた彼女の声が。今は呪詛のような声だった。一体この声はどこから出されているのだろう。普段はどこにしまわれていたのだろう。

「こんな話、在り来たりで飽きちゃうかもしれないけど。私にとっては問題なの」

 ふと、彼女が顔をあげる。視線同士がぶつかった。

 彼女の目には涙が溢れていた。今の彼女の姿は憎しみの塊のようなものだった。それなのに何故か、悲しみに歪んだ顔も、潤んだ目も、頬を伝う涙の筋さえも、美しく思えた。こんなにも「人間」を美しいと思ったのは初めてのことだった。

「私の父はこのホテルをやってる会社の日本社長。でも父の奥さんは私の母じゃない。」

 彼女が僕の腕にそっと手を伸ばして、初めは遠慮がちに、それから強く、抱きしめた。

「愛人の子なんて、お昼のドラマじゃあるまいしね。でも私は本当に体験しているのよ。父の奥さんは勿論可愛がってくれなかったし、本当の母である父の愛人は、私を父に押し付けてとっくの昔にサヨナラしてる。父にとってだって、私は邪魔で仕方ないのよ。自分の子供とはいえね」

 僕の腕に小さくなって抱きついている、震える彼女の肩と声が、凍えきった心から零れる涙の存在を告げていた。

 自然と僕の手がそっと彼女の頭を撫でた。サラサラとした髪が、指を滑らせる。

「親戚中をたらい回しにされたわ。そこで得たのは、幸せそうな家庭への醜いまでの嫉妬。私に向けられる邪魔そうな視線には、侮蔑と憎悪が含まれているように感じられてならなかった」

 僕の耳を通して、直接心を震わすその言葉。痛いまでに伝わってきた。

 人の顔色ばかり覗って生きてきた彼女に、僕の単純な心など読めて当然なのだ。

「それを訴えた私はここに住むしかなくなった。これから変化がなければ、ここで一生、日の当たらない生活をしていくのよ。世間に私の存在が知られたら困るのは、父なんだから」

 その時志保が牙をむき出しにした肉食動物のように、急に叫んだ。

「いや、あんなの親じゃない! 私はこんな生活をする為に生まれたんじゃないように、あいつらは親でもなんでもない」

 志保の口から吐かれる暴言に、僕は思わずそっと彼女を抱き寄せていた。

「私が、どうして『西枝 理沙』なんて偽名を使ってるか、分かる?」

 僕は首を振る代わりに彼女の髪を撫でた。

「本当のお母さんの名前。悔しいのに、忘れたくなくて」

 志保も僕に身を任せて、肩を大きく震わせ泣いていた。

「もう嫌……私を、どこにも捨てないで」

 嗚咽混じりに吐き出される言葉。

 僕はもっと彼女を抱き締めて、彼女の髪に鼻をうずめた。

「寂しいよ」

 彼女は僕に身を任せて、ずっと泣いていた。

 どうか震えが止まるようにと、どうか彼女の心に平穏が訪れるようにと、強く抱きしめてやることしか僕には出来なかった。

 僕はホテルに目を遣った。遥かに先が覗えぬ高い建物が、まるで彼女を捕らえる監獄のように見えた。手入れされた植物たちの間からは、巨大なライトがホテルを照らす。入り口の看板に掲げられたホテルの文字。

 僕と彼女が出会った場所。

 知られざる存在がうごめく場所。

 一晩に何人もの人の喜びや悲しみを抱き、夢へと誘う場所。

 ホテルを下から照らすライトが暗闇に光の帯を描き、それはまるで月虹のようだと思った。




 僕は夢を見なかった。


 彼女に睡眠薬を飲まされたのかもしれない。

 あまりに深い眠りを漂っていた気がする。

 彼女はもう側には居なかった。僕一人が豪華な部屋の豪華なベッドに身体を埋めているだけだった。

 僕は身体を起こして、ベッドの背にもたれた。

 隣のベッドは綺麗にメイキングされ、昨日そこに誰かが眠っていたなんて誰も思うまい。

 僕はぼうっとしていた。頬にうっすらと熱がこもっている。

 ぼんやりとした眠気と、考えなければいけない課題が頭の中を占める。

 前者は黙っていても生存する。

 だが、後者は頭を出したり隠したりで、その度に考えは始まりに戻ってしまう。

 結論が出なければ動き出せない。

 僕は必死に頭を使った。僕は“彼女”の名前を思い出せない。

 僕は勢い任せにベッドから起き上がった。乱れたワイシャツと、すっかり皺がついてしまったズボンを穿いている。

「誰なんだ」

 口をついて出る言葉。それを聞き取る者は自分ひとりしか居なかった。

 僕は立ち上がった。

 豪華は部屋なのに、何故だかとても寂しく感じられた。

 アンティーク調のクローゼットにはスーツ一式がハンガーにかかって並んでおり、僕はその中の一つを見に纏った。


 僕がロビーに出た時、人はまばらにしか居なかった。けれど出口にはホテルマンが数十人集まりっていて、黒い集団と化していた。

 気になって、そちらに足を進める。

 だがその時、後ろに声を聞き取った。

「いってらっしゃいませ、稲岡様」

 僕はすぐに振り返った。僕の見たかったものは、丁度僕の横をすり抜けて、ホテルマンたちの間を通った。ホテルマンたちは続々と礼をする。

 見覚えのある後姿。

 僕は彼女の手を掴もうと不意に手をのばした。

 その時出口から緩やかな風が吹いて、髪が宙に舞った。彼女の伸びた背筋から続く首筋が覗く。

 僕がそれに気を取られたのは、一瞬のことだった。

 次の瞬間、僕の手は支えを失って前につんのめる。

 そして僕の手の中から失われた、細くしなやかな希望。

 喪失感の中、僕は自分に言い聞かせる。別人に違いない。耳に残る名の響きが僕を引き寄せているだけ。

 目の前の女性の桜色の耳朶を見つめながら、僕はそう思った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ