プロローグ 騒音の目覚め
人にトラウマが植え付けられるのはいつだろう――
幼いころにいじめにあったとき?
家族が理不尽な死に方をしてしまったとき?
夢を見るだけでトラウマを植え付けられてしまうときもある。
トラウマは一見、過去にとらわれすぎている人間に起こるものと思いがちだろう。
だが、どんな人間にもトラウマが植え付けられる可能性は少なからずある。
それほど、人間の心とは脆く壊れやすいのだから。
そんなことを考えてるうちに、気が付くと真っ白な空間にいた。
本当に何もない、雪みたいな真っ白な空間に。
彼は目の前の真実を受け入れることがいまだにできないでいた。
受け入れられないがために視界に映すことをことを拒み、少年は座り込み俯いていた。
目の前の真実は唐突に話しかけてきた。
「修ちゃん、遊ぼ?」
真実は歩み寄り、無垢な瞳で見つめてくる。
満ち足りた表情、だがどこか不安げな顔でゆっくりと、確実に近づいてくる。
「やめろ……近づくな……」
「ねえ、遊んでってば!」
「うるさい黙れ! 来るんじゃない!」
真実は叫ぶ。しかし、少年には届かない。
満ち足りぬ表情、目の前の真実を受け入れられず、それに恐怖すら感じてしまっている顔で、彼は目の前の真実を拒み続ける。
顔を少し上げそれを見るが、依然としてその「無垢な目」の矛先は変わらない。
「そんな目で俺を見るな……」
目の前には一人の少女。
小さくて幼くて拙くて、そんな恐れるにも足らない少女でさえ、自分の目に映る姿は化け物以外の何物でもなかった。
「なんで遊んでくれないの……」
「そんなの……お前が一番分かってるだろ!」
真実に真実を突き付けても変わらない。
そんなことは誰よりも少年が一番わかっていた。
だが、怒鳴らなければ、わからせなければ、彼が今までしたことは無駄になる。
「分からないよ! ねえ、遊んでよ!」
「無理なんだ。ダメなんだよ……」
分からせようとしても、結局は分からない。予想通りの展開だ。だって……
「だって……お前は……」
言葉を紡ぐその瞬間、目の前は神々しい光に包まれた。
―――
「うわああぁぁぁあああああ!」
目が覚めるといつも通りの汚い部屋の光景だけが目の前に広がっていた。
六畳ほどの部屋に勉強机や本棚、床には衣類などが散らばっており男子高校生の部屋としてはかなり汚い部類である。
「はぁはぁ……クソッ! またあの夢かよ……」
先ほどの夢を振り返ってみる。
いや、思い返さなくてもわかる。
なにせ前回も前々回も夢の内容は一つとして変わっていないのだから。
このところずっとそうだ。
昔からたびたび見ていたがここ最近頻度が増しすぎている。
「なんでなんだよ……これ以上俺に何を望むんだ……」
絞り出すような声。
きっと周りからみたら恐怖で震えているような声。
あの日、あの時、一体どんな行動を取ったら一番良かったのか。
夢を見る度に昔の事を思い出し、毎朝のように、仕方がなかったと自分に言い聞かせる。
「はぁ……とにかく、学校に行かないと……」
今日も朝から気分がすぐれないし、また休もうかと思った。だが単位のことを考えるとそうもいっていられない。
少年は重く感じる体に鞭を打ち、身支度をすませる。部屋を出る前に机の上のデジタル時計を確認すると7時30分と表記されていた。
「今日も時間通り……とはいかないか。いつもだったら飯も食い終わっているはずなんだがそんな時間もないし、朝飯はどっかで買ってくるとするか」
彼は水無月修也。高校二年生。
ぼさぼさの黒髪に紺色の目。身長、体重ともに平均的な男子高校生のそれとほとんど一緒だ。
そこそこ充実している学校生活、狭く深い友達関係。どちらをとっても、なんら変哲のない普通の男子高校生。
なにも特別なことなんてない。
いつもの通学路にあるコンビニでおにぎりとお茶を買い、眠い目を擦りながらダラダラと歩いて行く。
すると。
「おっす! 修也。朝から元気ないけど大丈夫か?」
後ろから走ってくる足音と声が近づいてきた。
修也は振り返ることなくそのまま歩き続けると声の主は、修也の隣に来て、同じスピードで歩き始めた。
「ああ、知樹か。おはよう。最近悪夢ばっか見てるからか、寝てるはずなのに眠れてる気がしなんだよなぁ」
彼は白沼知樹。
修也と同じ高校生二年生で友達の少ない修也の数少ない親友でもある。
祖母がイギリス人でその血を強く受け継いでいるからか、金髪に碧眼と、なんとも派手な見た目である。
だが顔つきは日本人そのものだ。
顔面偏差値がかなり高く俗に言うイケメンだ。
そもそもなんでこんなイケメンが彼と交友関係にあるのか、修也自身もあまり分かっていない。
「そんなにか。一体どんな夢なんだ?」
「それは……」
あの光景を一瞬思い浮かべた。というか知樹のせいで思い出してしまった。
一秒でも早くあのおぞましい夢を忘れたいが、このまま夢の話に持っていくと忘れたくても忘れられない。
「……覚えてねえよ」
夢あるあるの一つ、『どんな夢だったかいざ思い返してみると実際はあまり覚えていなかった』を発動した。
「あーたまにあるよな、結構嫌な夢を見たのに改めて思い返すと何の夢だったか覚えてないっていうやつ」
「まあ、そんなとこだな」
案の定、発動した嘘はその瞬間に知樹の中で真実に様変わりし騙すことには成功した。
二人はかれこれもう4年くらい一緒にいるため、ある程度お互いに知り合っているからか、知樹の方は修也を疑うことをあまりしていないため、騙すのは容易かった。
(本当にチョロいな、こいつ)
「てかさ、もうすぐテストだけど大丈夫か? 寝不足やら疲れやらで、勉強もろくにできてないんじゃないか?」
唐突に出てきた核心を突く一言に、修也も図星を突かれたようで。
「だ、大丈夫だ、文系なら取れる……きっと」
「なんでそこは確定じゃないんだよ。それに、文系しか取れないの間違いじゃないのか?」
修也は勉強があまり得意な方ではないが文系科目、特に日本史や世界史などの知識量が物を言う科目では学年でトップ10に入るぐらいの実力はある。
しかし、疲れが溜まっているのは事実。
いくら得意科目と言っても、それを言い訳にして勉強をさぼるなど本末転倒である。
だが寝てしまうとまたあの夢を見てしまい、疲れが溜まっていくという悪循環に入ってしまうため、ここは素直に勉強することを決意した。
二人の話は何気ない世間話で特筆するところは特になかった。
そんな会話しながらも着々と学校に近づいており、次の十字路を右に曲がった瞬間。
ドンッ
「痛った……」
腰あたりに何かがぶつかる感触があり、それと同時に小さな女の子の声も聞こえた。
おそるおそる見下げるとランドセルを背負った少女が尻もちをついているのが見える。
「あ、ごめんね。大丈夫だったかい?」
すぐさま知樹が少女に駆け寄る。
少女は急いでいたのか、走って激突してきたため顔を痛そうに押さえていたが、幸い怪我はないようだ。
知樹は少女にやさしく声をかけると、手を差し出す。
少女もうなずき知樹の手を取って立ち上がると、一礼してそのまま走り去っていった。よく見ていると少女の顔がほんのり赤くなっていた。
イケメンは滅んでしまえばいいと心の底から強く思う。
「さて、俺たちもそろそろ行かないと遅刻するし急ぐ……あれ?」
先ほどまで隣にいた修也が、気が付くとどこにもいなくなっていた。
辺りをキョロキョロ見渡すと知樹の後ろにあった電柱に身を隠して、ちらちらと視線だけをこちらに向けている修也の姿があった。
「おまえ……何してんだよ」
「見りゃわかるだろ、隠れてんだよ」
「いや、なんで隠れる必要が」
「お前知ってるだろ! 俺が大の子供嫌いってこと!」
「あ、そういえばそうだったな。忘れてたわ」
4年もの付き合いのはずなのにこの忘れっぽさ。
きっと彼の記憶力の許容量はミジンコ以下なのだろう。
友人に疑心の目を向けながら電柱から出てくると、どこからともなく出したアルコールスプレーをものすごい勢いで少女の触れた個所にかけていた。
子供嫌いにも程がありすぎる。
「わかったなら、今度から子供と話すときは最低限俺から十メートル以上離れたとこでしろ!」
「オーケーオーケー。肝に銘じておくよ……全く、子供の何が怖いんだか『目に入れても痛くない』ってくらい可愛いのに」
「黙れロリコン! 俺の場合は『視界に入ると吐き気と眩暈を催す』の方が正しいんだよ!」
「おいコラ、誰がロリコンだ」
キョロキョロと周りを見渡し、危険生物の存在が確認できなくなったところで二人はまた歩き出した。
「……はあ、子供がいない世界に行きたい」
「そんな世界あってたまるか」
ぽつりと吐き出した、人格を疑いたくなる一言。
だが子供のいない世界に行きたいというのは修也にとって宝くじが当たる確率よりも低く、その分叶った時は天に昇って、そのまま宇宙の彼方まで飛び出してしまいたくなるほど喜べてしまう、一般人が持つにはあまりに儚い夢なのである。
そんな超非現実的な妄想を夢見る男子高校生曰く。
「子供は無力のくせして驕り高ぶる。だから嫌いなんだ」
この一言である。
「そうかい? 俺はそうゆう子供が将来大物になるって思うけどね」
「俺は将来の話をしてるんじゃない。今の事をだな……うっ……!」
最近の悪夢のストレスと不眠からか、急に強烈な眠気に襲われる。
足取りもおぼつかなくなり、立ってるのがやっとの状態のところで、修也は近くの塀にもたれかかった。
視界がかすむ。
次第に焦点も合わなくなり、目の前の知樹が何重にも分身しているように見えていた。
「知樹……おまえ、忍者だったのか」
「誰が忍者じゃ! 目じゃなくて考え方に焦点が合ってないぞ……大丈夫か? やっぱ家に帰った方が」
「いや、平気だ。なんとも……」
それでも何とか歩き出すことができた。
しかし、ふらふらとした足取りで、歩くのがやっとの修也には足元の石に注意を向ける余裕さえなかったのだ。
その石に躓くと流れに身を任せるようにそのまま倒れ込んでいった。
(あれ? なんか浮いてる)
一瞬だけ宙に浮く感覚。
だが修也は、何故かその感覚が異様に長く感じた。
まるで体が地面につくのを拒むように。
まるで意思がこの感覚を名残惜しむように。
「ッ! あぶねえ修也!」
倒れ込む途中、知樹の声が耳に入った。人の手の感触があり、おそらく知樹が掴んでくれたのだろう。
しかし何故か、知樹に引っ張り上げられることなくそのまま地面と激突してしまった。
そしてこの後のことなど全部どうでもよくなりそのまま気を失ってしまった。