第七話 広尾散歩
いつもと違う道を通ったら、素敵な出会いがあるかもよ?
「ふう。やっとできたー」
最後の段ボール箱を崩してぺちゃんこにすると、私はふうっと息を吐いた。
単身の引っ越しだからそこまで荷物はないはずだけれど、新居では真理子の手伝いがなかったこともあり、荷解きは結構大変だった。段ボールから剥がしたガムテープの屑や、包んでいた緩衝材をゴミ袋に全部まとめると、パンパンと手をはたいた。
まだゴールデンウィーク中なので役所はやっていないし、引っ越しの荷解き作業は終わった。今日の夕方に新しいベッドが届くことになっているけれど、指定の時間まではあと3時間以上ある。
ローテーブルの上を片付けようとして、そこに置いておいた、入居案内と一緒にオフィスで渡された街散策マップが目に入った。広尾周辺の地図に、スーパーや公共施設、公園、ちょっとしたレストラン情報なとが書かれている。初めて出社した日に連れて行ってもらったイタリア料理店も載っていて、『本格的なナポリピザが楽しめる』と紹介文が付いていた。
「オフィス側しか殆ど知らないんだよなー」
私は街散策マップを眺めながら独りごちる。
街散策マップは広尾駅を中心にしており、周囲3キロ四方の情報が載っている。オフィスは広尾駅の東側の商店街の中にあるのでそちらはちょっと詳しくなってきた。美味しいお店が沢山で、毎日ランチタイムが楽しくて堪らないくらいだ。
けれど、外苑西通りを挟んだ反対側には殆ど行ったことがなかった。地図を見ると、駅のすぐ近くに大きな公園があるようだ。公園の中には図書館もあると書かれていた。
「行ってみようかな……」
私はもう1度時計を確認した。時間はまだ大丈夫そうだ。マップを見ると、公園の前には外国人向けのスーパーマーケットもあると書かれていた。料理が好きな私にとって、海外の調味料が揃っているというのはかなり興味が惹かれた。
よし、行ってみよう!
そう決めると、私はすぐに出掛ける準備を始めた。
広尾駅まではいつもの通り、外苑西通りを北上する。手に持った街散策マップを見ると、その途中にも幾つかコメントが入っていた。マンションから広尾駅に向かう途中にある交差点近くには人気のスイーツショップがあるだとか、どこそこの国の大使館があるとか。
真理子がカップケーキを買ってきてくれたときにも感じたけれど、近くに住んでいても知らない地元の情報というのは結構多い。マップを見ながら歩いていると、知らない街に来ているような気がして、なんだか得した気分になった。
目的の公園──有栖川宮記念公園は広尾駅から歩いて数分のところに位置していた。広尾駅からちょうど商店街とは反対側に進むのだ。入り口から木々が茂っているのが見え、傾斜のある地形を利用した広い公園の上の方は、ここからでは確認出来ない。
通りを挟んで向かい側にはスーパーマーケットがあり、ここがマップに書いてあった外国人向けスーパーであることは見てすぐに分かった。なぜなら、店名がアルファベットだし、店の入り口に置かれた日用品のラベルも横文字だったから。
私は少し迷って、先にスーパーに寄って飲み物でも買ってから公園を散歩することにした。
店内に入って圧倒されるのは、外国人の多さ。あれ、私、海外旅行中だっけ? と思うほどだ。
店内に並べられた商品も日本の一般的なスーパーとはちょっと違う。例えば、お肉売り場にはこんなでかい牛肉ブロック誰が食べるの!? とツッコミたくなるような商品から、クリスマスシーズンでもないのに大きな鳥の丸ごと肉が置いてあったりした。そして、プレートが日本語と英語で併記されている。
私はお菓子売り場に行くと、おやつにグミをかごに入れた。もちろん、横文字ラベルの初めて見る商品にしてみた。グミってこんなに沢山の種類があったんだなぁと感心してしまう。ちょっとした観光地に来たようで、見ているだけで楽しい。
調味料売り場では見たことのない珍しい調味料が沢山あったのでものすごく心惹かれた。けれど、手を伸ばしかけた私は、やっぱり手を引っ込める。
今までは英二がいたから、沢山作っても大丈夫だった。けど、今は1人きり。この調味料を買って、1人で使い切れる? それに、やっぱり料理を作ったら、誰かに美味しいって言って欲しい。でも、英二が最後に『美味しい』って言ってくれたのはいつだったっけ?
楽しいお散歩中にまた嫌なことを思い出して、私ははぁっとため息をつく。気分転換のつもりが、本当に駄目だなあとちょっと落ち込む。結局、そこでは何もかごに入れることなく調味料売り場を後にした。
店を出ると、私は通りを渡って公園へ向かった。
入り口から中に入ると、すぐにとても大きな池が見えた。近くに寄ると、沢山の亀が悠々と泳いでいる。黒い鯉が泳いでいるのもみえた。池に沿って公園内の通路があったので、私は池をぐるりと回るようにその通路を歩いた。
通路の先には傾斜に沿って造られた階段があったのでそこを登ると、まるでどこかの山寺にでも来た気分だ。途中にちょっとした脇道があるのを見つけてそちらに進むと、小さな橋が掛かっていた。橋の真ん中に立つと、下の斜面には水が流れており、小さな滝のようになっていた。そこから先ほどまでいた公園の入り口のあたりを見下ろすと、大きな池と新緑のコントラストが絶妙で、まるで1枚の絵画のように見える。下を流れる川の水音が心地よく耳に響いた。
私はその先にあった小さな広場でベンチに座った。先ほどのスーパーで購入したコーヒー飲料を飲むと、ほぅっと息を吐く。頬を撫でるのはこの時期特有の温かく心地よい風。耳に届くのは風に揺られる木々の囁き。目に入るのは青い空と新緑の緑。
──都心にこんな場所、あったんだなぁ。
ベンチに座ったまま、目を閉じて耳を澄ます。風に乗って、小鳥の歌声や虫の鳴き声、それに、時折子どもの歓声が届いてきた。
私は半分ほど残ったコーヒー飲料にキャップをすると、立ち上がった。まだ行っていない公園の上へ行ってみようと思ったのだ。のぼり始めてすぐに、先ほどまでは微かに聞こえるだけだった子供たちの歓声がはっきりと聞こえてきた。
「わあ。遊具がある」
まるで林の中のような、木々に包まれた階段を登り切ると、そこには子ども向けの遊具があった。跨がるタイプのバネ付きの動物、ブランコ、すべり台がついた大型遊具などで、子供たちが歓声を上げて遊んでいる。お喋りしている親たちの言語は様々で、ここでもこの地域の国際色の豊かさを感じた。
遊具の遊び場を抜けてまっすぐ歩くと、前方に大きな白い建物が見えてきた。近付いてみると、案の定、ここが図書館のようだ。
私はガラスの自動ドアを抜けて中へと進んだ。建ち並ぶ書架の間を歩き、気になった本を2冊ほど手にとった。料理の本と恋愛小説だ。まだ自分では恋をする気分にはなれないけれど、本でなら幸せな気持ちになれるかもしれない。そんなことを思って、私は二時間程閲覧コーナーで読書を楽しんだのだった。
***
「桜木さん、お引っ越し完了しました!」
ゴールデンウィーク明けに会社に出社した私は、まず最初に桜木さんに報告した。
「お。引っ越しお疲れさん」
「じゃあ、今日は藤堂さんの転居祝いしますか!」
横で話を聞いていた綾乃さんが身を乗り出す。綾乃さんは飲みに行くのが大好きなようだ。
「不便なことはない?」
桜木さんに柔らかい笑顔で見つめられ、私は首を横に振る。
「大丈夫です。スーパーの場所とかは散策マップに書いてあったし。初日にはあれを見ながらお散歩に行ったんですよ」
「え、本当? よかった」
私の言葉を聞いた桜木さんは嬉しそうにはにかんだ。
「もー、桜木! 本当にアンタ、やり手よね!!」
綾乃さんはいつものノリで桜木さんにツッコム。私は話がよく分からず、首をかしげた。
「あのお散歩マップ、入居者や購入者へのサービス向上になるんじゃないかって桜木が言いだして、半年くらい前から配り始めたの。藤堂さんが役に立ったって言うなら、やっぱりニーズはあるんだね。他の地域も作ろうか」
「桜木さんが?」
私は驚いた。どうやらイマディール不動産の営業エースは、顧客のニーズを探るのだけでなく、とても気配りも出来る人らしい。
「あのマップ、本当にいいと思います。他の地域も作るなら、私もお手伝いします!」
勢いよく拳を握った私を見て、桜木さんは「ありがとう」と微笑んだ。