第三十一話 親友
友達っていいよね
ティーリーフは1人1杯なので、2人なら2杯。それをティーポットに入れる。キッチン沸かしていたお湯を、そのティーポットに注いだ。湯気に混じってふんわりとフレーバーティーの甘い香りが漂う。私は砂時計できっちり2分測って蒸らすと、それをティーカップに注いだ。
「はい。どうぞー」
「ありがとう。わあ、いい香り!」
私からティーカップを受け取って顔を寄せた真理子は表情を綻ばせた。
今日は、前の会社の同僚で友人の真理子が我が家に遊びに来てくれている。
「いやー。美雪が思ったより元気そうでよかったわ」
「ありがと」
ホッとした表情を見せる真理子に、私は笑ってお礼を言った。そう、なぜ真理子が今我が家にいるのか。それは私を心配してくれたからに他ならない。
──あなたが好きです。付き合って下さい!
あの日、まるでテンプレートを読み上げた中学生のような告白をした私を見つめ、桜木さんは驚いたように目をみはり、そして、困ったように眉尻を下げた。
「藤堂さん。ごめん……」
小さく呟かれたその言葉を聞いた時、「ああ、駄目だったんだ」と悟った。桜木さんは私を後輩としか見ていなんだなってことがわかって、急激に気持ちが凍り付くのを感じた。
「ご、ごめんなさい。変なこと言って。今のは忘れて下さい。酔っ払いの戯れ言だと思って下さい。明日からはまたいつも通りに接して頂けると嬉しいです」
私は慌てて弁解の言葉を述べた。『好きです』というのはあんなに勇気がいったのに、弁解の言葉はスルスルと口から出てきた。こんなことで会社の雰囲気を壊したくなかった。そんな私を見て、桜木さんはぐっと唇を噛んだ。
「違うんだ。藤堂さんの気持ちは凄く嬉しいんだけど、俺、藤堂さんに言ってなかったことがあって」
桜木さんの沈んだような声が怖い。言ってなかったこととは、彼女がいるということだろうか。桜木さんに彼女がいないと聞いたのは夏前のことだ。こんなに素敵な人ならとっくのとうに売れてしまっていておかしくない。でも、それを今本人から言われるのは精神的にきつい。
「実は俺、今度の3月でイマディールリアルエステートを退職するんだ。それで、実家に戻る」
「え??」
予想外の言葉に、私は私は桜木さんを見上げた。桜木さんは淡々と語る。
「俺の実家、不動産屋やっててさ。イマディール不動産には家業を継ぐ前の修行のつもりで入社したんだ。元々5年間って最初から決めてて、今度の3月末で丸5年経つ」
桜木さんの実家の家業。それは夏ごろに綾乃さんから聞いたSAKURAGIのことだろう。あの時綾乃さんは4年以上前のことだって言ってたから、つじつまも合う。
「そう……なんです…か?」
「うん。だから、今藤堂さんと付き合始めても3ヶ月ちょっとしか一緒にいられない。だから、それを言っておかないと、どうぞよろしくお願いしますって言いづらい」
桜木さんは少しだけ眉を寄せた。
桜木さんの実家は以前、神戸だと聞いた。つまり、付き合った場合は3ヶ月半で東京と神戸の遠距離恋愛になるということだ。
まず最初に思い浮かんだのは、大学卒業の時に付き合っていた彼氏とのことだった。卒業式の時は『離れても好きだよ』って言い合って、卒業直後は毎日のようにメールも電話もしてた。それがいつからか2日に1回になって、1週間に1回になって、月に数回になって、メールすら無くなって……気付いた時には殆ど連絡を取り合わなくなっていて、最後は電話でさようならを言った。
桜木さんと付き合ったところで、そうなるのだろうか。大学生の時の彼は1年半付き合ったのにそうなった。3ヶ月半しか一緒にいないで離れ離れになったら? あっという間に私は忘れられてしまうかもしれない。だって、桜木さんはハンサムだし、優しいし、向こうに行ったら会社の御曹司だし。モテないわけが無い。
ぐるぐると頭の中を色んな事が回って私が反応できずにいると、桜木さんがコホンッと咳ばらいをした。
「藤堂さん。それでも良ければ、俺と付き合って下さい」
目の前に右手が差し出された。見上げると、切れ長の目の奥の黒い瞳が真っ直ぐにこちらを見ている。
それを見たら、なんだかどうでも良くなった。3ヶ月半だろうが、遠恋だろうが、私はこの人が好きだ。それに、この人も私を好きって思ってくれている。なんて素晴らしい奇跡。それだけで十分だ。
「はい。私でよければ、よろしくお願いします」
私も右手を差し出した。成約した時のようにぎゅっと手を握られる。恋人同士のそれというよりは、握手に近い握り方。でも、初めて触れ合った手から温もりを感じ、私は心まで温かくなったような気がした。
「あー、離れがたいから今から家に行きたいけど……」
「今からですか?」
「うん。でもやめとく。酔ってるし舞い上がってるから自制できる自信がない。がっついてると思われて嫌われたくないし」
桜木さんが苦笑いする。その子どもみたいな笑顔を見たら、やっぱり好きだと思った。
チリンとラインの音がしてスマホを見ると、桜木さんからだった。表示名は『桜木さん』。さすがにアラサー目前にしてハートマークは自制した。
『何してる?』
『お友達が泊まりに来てます』
『ああ、そうだったね。残念。明日の夕食は一緒出来そうだったら連絡して』
私はそれを見て口の端を持ち上げる。今日は土曜日だから、うちに来てそのまま泊まっていくつもりだったのかもしれない。
桜木さんは私の妄想していた通り、私の手料理をいつもとっても嬉しそうに食べてくれる。だからそれが嬉しくて、私はいっつも沢山ご飯を作っては振舞ってしまうのだ。
『わかりました』
ラインで返信すると、真理子がいつの間にか真横にいて画面をのぞき込んでいた。パッとスマホの画面を隠した私を見て、ニヤニヤしている。
「ラブラブだね?」
「まあ。付き合い出してまだ1ヶ月経ってないし……」
少し赤くなった私の顔を見て、真理子はくすくすと吹き出した。
「仕事は?」
「?? 順調だよ?」
真理子は私の顔見て、にこっと笑った。
「美雪がさ。また会社辞めるって言い出してるんじゃないかと思って心配してたんだ。会ってみたら平気そうでよかったわ」
私は驚いた。確かに真理子に色々と報告したら、真理子は慌てたようにすぐにここにやってきたが、まさかそんな心配をされていたなんて。仕事を辞めて私がたった3ヶ月半しか付き合っていない桜木さんを追っていく、もしくは結婚を迫るとでも心配していたのだろうか。
「まさか。そんな……」
──まさか。そんなバカな事するわけないでしょ?
そう言いかけて、私は咄嗟に口を噤んだ。
私はかつて、私を振った英二を繋ぎ止めたくて、腹いせに会社を辞めた。それはつまり、傍から見たらそういうことなのだ。もしかしたら、前の会社では私が仕事を辞めて英二に結婚を迫っているとでも思った人がいたかもしれない。今まで私は英二のことばかり悪者だと思っていたけれど、こんな馬鹿げたことをした私自身にも気付いていないだけで悪いところは沢山あったのかもしれない。
「真理子」
「なに?」
「心配かけてごめんね」
私が小さく謝ると、真理子は少しだけ目を見開き、ニコッと笑った。
「なーに言ってんの。水臭い」
笑って流してくれる優しさが、今は心に染みた。
「今さー、ぶりっ子がトラブってうちの会社大変なんだよー」
「何かあったの?」
ティーカップを置いた真理子がソファーのクッションを抱きしめて口を尖らせたので、私は首を傾げた。真理子の言うぶりっ子とは、私から英二を略奪した例の後輩──竹井さんだ。
「なんかさ、窓口対応したお客さんの悪口みたいなのをSNSに上げてたみたいでさ。それに気づいたお客様からクレーム来て、大騒ぎ」
真理子は鼻に皺を寄せて、一見すると大げさなくらいに顔を顰めた。けれど、イマディール不動産といい、前の会社といい、小さな地元密着の不動産会社なのでそういう悪評が立つと会社に与える影響は計り知れない。真理子によると、竹井さんは入社時点からずっと気に入らないお客様の悪口を匿名でSNSに上げていたようで、謝罪すべき相手は数知れないようだ。
「しかも、社長に問いただされたら、三国がこれくらいみんなやってるから大丈夫だって言ったって──」
そこまで言いかけて、真理子はハッとしたように「ごめん」と言った。
「ううん、全然いいよ」
私は笑って流す。英二はすでに私の中の過去の人で、今話を聞いたところで何も感じない。ただ、今の話を聞いて私は若干の違和感を感じた。
「英二、たぶんそんなこと言わないと思う」
英二とは最後は本当にクソみたいな別れ方だったけど、あの人は仕事に対してはきちんとする人だった。そう言うところも含めて、当時の私は英二を好きになったのだ。そんなこと言うなんて、俄かには信じがたかった。それに、竹井さんの入社当時と言えばまだ私と付き合って上手くいっていた頃だ。
「私もそう思うんだけど、社内評価はガタ落ちだと思うよ。ほんと、バカだね……」
真理子はハァっと大きく息をついた。
従業員15人の会社で社内評価ガタ落ちなんて、ほぼ出世が見込めなくなる。もしかしたら、私に電話してきたときはそれで精神的に参っていたのかもしれない。弱っている人に更に追い打ちをかけて弱らせるようなことをしてよくなかったかなと、一瞬悪いことをしたような気がしたけれど、すぐに私は思い直す。
恋人同士なんて元々は赤の他人。別れたらそんなものだ。転職するなり、死に物狂いで頑張って汚名返上するなり、本人に頑張ってもらうしかない。私にはもう関係のないことだ。
「ところで、真理子。明日、どこに遊びに行く?」
私は話題を変えようと、努めて明るい声で真理子に明日の予定を聞いた。しかめっ面をしていた真理子の表情がパッと明るくなる。
「私、東京ミッドタウンに行ったことが無いから行ってみたい」
「六本木? 日比谷?? どっちも電車で1本だからすぐだよ」
「どっちも行ったことないから、近い方の六本木にしようかな」
「よしきた! 有名パティスリーの美味しいケーキ屋さんが沢山あるんだよ。おやつに食べようよ。お昼はどこ行こうか? 近くにおすすめのプライムリブのお店があるの」
私は早速パソコンを開いて『東京ミッドタウン 六本木』と入力する。
その日の夜は、遅くまで2人でパソコンを見ながらきゃっきゃと盛り上がった。




