第三十話 あなたが好きです!
頑張れ、私!
勇気を出すんだ!!
前回とは打って変わり、仲睦まじい様子のお2人が只々微笑ましく見える。白い壁紙がピンク色? いや、もうピンクを通り越してハート柄に見えるわ。けれど、そんなことは気にならないぐらい、今日の私は機嫌がいいのだ。なぜなら、私は宅建試験で合格したのだ。今朝出社して報告したら、オフィスのみんながお祝いの言葉をかけてくれた。ちゃんと宅地建物取引士として登録したら、お給料も月3万円上乗せだ。うふふっと笑みがこぼれそうになり、私は慌てて表情筋を引き締めた。
「キッチンはこのシリーズにしてー。調味料が可愛く飾れるように壁にちょっとした飾り棚も欲しいな」
目の前で橋本様の奥様が、付箋をはったページのキッチンシリーズを指さす。
うん、そのシリーズは私も可愛いと思うわ。カントリー調ならやっぱり棚も木目を生かした薄めの茶系よね。確かに壁面飾り棚は最初にプロに作ってもらわないとね。素人がやると強度不足で石膏ボードを割ったりするから危ないのよ。
「承知いたしました。可愛らしいキッチンになりそうですね」
にこにこしながら2人で事前に決めてきた部屋の仕様を伝えてくる橋本様を眺めながら、私は仕様書にボールペンを走らせた。カタログ番号と品番を間違えないように、3枚綴りの複写紙に転記していく。小さい部屋の壁紙は汚れに強いタイプにしたり、トイレの床も木目調フローリングにしたりと、随所に橋本様夫婦なりのこだわりが詰め込まれている。完成したら、さぞかし素敵なおうちになることだろう。
「こちらが仕様の控えになります。数日以内に正式なお見積書を再度ご提出させて頂きまして、問題が無ければこの通り進めさせていただきます。引き渡しが年明けですので、工事もそこから入ります」
「3月末の入居には間に合いますよね?」
複写紙を控えとしてお渡しすると旦那様が念押ししてきたので、私は頷く。
「はい。間に合うように手配いたします」
「よかった。じゃあ、お願いします」
「楽しみだねー」
嬉しそうに微笑むお2人を見て、こちらも幸せな気分になった。綾乃さんの言う『新婚さんが相手だとこっちも幸せな気分になる』というのがよく分かった気がする。
自席に戻ると、私はさっそく今の3枚綴りの複写紙の残り2枚のうち、1枚をスキャンしてPDF化するとパソコンに保存し、お取引先の内装工事会社へメールで送付した。もちろん原本も郵送する。最後の1枚はイマディール不動産の控えになる。
作業を終えてチラッと時計を見ると、時刻はお昼近くになっていた。チームメンバーの行動予定表を見ると、桜木さんは終日外出となっていた。実は今日はまだ桜木さんに会っていないので、宅建に合格したことも伝えられていない。綾乃さんが今夜尾根川さんと私の宅建祝勝会を開催してくださるそうで、それに桜木さんも来るとは聞いているので、綾乃さん経由では伝わっているのだろう。けれど、やっぱり自分で伝えたかった。
私は気を取り直して午後からの予定を確認した。
新規の売却ご希望のお客様とのお打合せが1件と、現在売却中の物件への内覧希望が1件は入っている。今日も忙しそうだと、私は両ほっぺを軽く叩いて気合を入れた。
その日の夜に行われた宅建合格の祝勝会はイマディール不動産のすぐ近所にある中華料理屋さんで行われた。6時半に予約していたのだが、時間ちょうどに桜木さんも現れた。
「藤堂さん、おめでとう。尾根川も、改めておめでとう」
個室の入り口に立ってどこに座ろうかなあと円卓を眺めながら思っていると、いつの間にか後ろに立っていた桜木さんに声を掛けられた。
「あ、桜木さん。ありがとうございます。やりました!」
「うん。2人とも頑張ったね」
桜木さんがニコッと笑って私と尾根川さんを交互に見た。尾根川さんは勤務時間前にわからないところをよく桜木さんに聞いていたようで、しきりにお礼を言っていた。
「優秀な後輩が2人もいて、助かるよ。ちょっと心配だったんだけど、安心できた」
「え?」
心配って、私と尾根川さんが心配ってことだろうか。よくわからずに聞き返そうとすると、上司の板沢さんが「藤堂さんと尾根川君は主役だからそこの上座ね」と言い出し、強制的に席に座らされてしまった。桜木さんは円卓を挟んで向かい側だ。うーむ、遠い……
「とりあえず、生6杯おねがいしまーす」
綾乃さんがチームメンバー全員分の生ビールを注文する。
「それでは、尾根川君と藤堂さんの宅建合格を祝しまして、カンパーイ!」
小さな個室にチームメンバーの乾杯の声が重なった。
***
飲み放題にしていたわけでも無かったので延々と続く祝勝会がお開きになった時、時計の針は既に10時を指していた。店の外に出ると、12月の冷たい空気がピリリと肌を刺す。綾乃さんが大量に注文した紹興酒ボトルを消費するためにいつもよりは少し飲み過ぎた私には、酔いを醒ますのにちょうどいい。
「藤堂さん、歩いて帰るなら一緒に帰ろうか」
声を掛けてくれたのはもちろん、桜木さんだ。桜木さんは飲み会の後、大抵一緒に帰ろうと誘ってくれる。内心では舞い上がりそうなぐらい嬉しいけれど、それを顔に出さないように私は平静を装って「はい」っと頷いた。
外苑西通りは夜でも車の通りが多く、車のヘッドライトがキラキラ揺れる。それに、道路沿いには気持ち程度のクリスマスイルミネーションが点灯していた。こうして夜に2人で夜道を歩いていると、なんだかデートみたいだな、なんて思って、私はなんだか気恥ずかしくなった。
「飲み過ぎた?」
「え?」
歩きながら熱くなった顔をパタパタと仰いでいると、桜木さんがこちらを見下ろして首を傾げている。
「なんか、いつもより顔赤いから」
「あー、そうかもしれないです……」
「新木のやつ、紹興酒頼みすぎだよなー。あれ、それなりに度数きついのに」
苦笑いする桜木さんに釣られて私もヘラりと笑った。飲んだせいもあるけれど、私の顔が赤いのはきっとそのせいだけじゃない。
──これに受かったら、伝える!
そう叫んで超強力掃除機の音をかき消したあの日のことが脳裏に浮かぶ。言うなら今じゃないの? いつやるの? 今でしょ!? と、社会人になりたての頃に大流行した台詞が頭の中をぐるぐるぐると回る。
私は桜木さんをチラッと見た。桜木さんは私の横を歩いているけれど、半歩程前に出ている。きっと、私の歩調を見ながら調整しているのだろう。少しだけ斜め後ろから眺めるその後ろ姿は距離にして1メートルくらい。この距離を0メートルにしたいんです。
「じゃあ俺、こっちだから」
いつもの交差点で桜木さんが私の自宅とは違う方向を指さす。ああ、頑張れ美雪! 私は怖気づいて逃げ出しそうになる自分を叱咤する。人生で誰かに好きだと自分から告白したことなんて、1度もない。今までの彼氏たちはこんな勇気を振り絞って私に好きだと伝えてくれていたのだろうか。結構お酒が入った状態の今言えなかったら、素面で言えるわけがない。
「桜木さん!」
「ん。なに?」
桜木さんがこちらを向いてふわりと笑う。私の大好きな笑顔だ。
頑張れ美雪。頑張れ! 今日までずっと、頑張ってきたでしょう? 勇気の振り絞るんだ。自分にそう言い聞かせる。
ほら。震えそうになる足にぐっと力を入れて、口の端を持ち上げて。
私はすうっと息を吸った。




