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第三話 出勤初日

第一印象って、とっても大事だと思うのよ。

「初頭効果」って言うらしいよ?

 紺色のリクルートスーツに袖を通した私は、緊張の面持ちで鏡の前に立つ。寝癖がないように、いつもより念入りに髪の毛を整えた。

 このリクルートスーツは学生時代に就職活動で使った物だから、袖を通すのは5年ぶりだ。ウエストのホックがきちんと閉まったことに、ちょっとだけホッとした。


 あの日、アポイントも取らずに採用希望だと主張したにも関わらず、私を対応した男性──尾根川さんは嫌な顔一つせずに店の奥に確認しに行ってくれた。爽やかな見た目通り、とても親切な人だ。そして、私はあの場で採用面接を受けることになり、あれよあれよと言う間に採用が決まった。まさかあそこで仕事が見つかるなんて思っていなかったので、まさに棚からぼた餅である。


 今日はその新しい職場への初出勤日だ。


 只でさえ、私は普段着姿でアポ無し突撃と言う非常識な採用経緯だった。今日は初日なので、少しでも職場の皆さんへの印象をよくしたい。私はもう一度鏡の前に立つと、お化粧と髪型に問題がないか念入りに確認した。


「本日から皆さまとご一緒にお仕事をさせて頂きます、藤堂美雪です。1日も早く戦力となれるように頑張りますので、よろしくお願いします」


 深々と頭を下げて、恐る恐る顔を上げる。こちらを見つめる人達の表情は柔らかく、パチパチと拍手の音が私を包んだ。第一段階はクリアしたと感じ、私はホッと胸をなで下ろした。


「藤堂さん、席ここだから」


 焦げ茶色の艶やかなロングヘアの、快活そうな女性が手を挙げて隣を指さしていた。そこには、何も置いていない真っ新なオフィスデスクがあった。


「私、新木(しんき)綾乃(あやの)。よろしくね」

「はい。よろしくお願いします」

「それで、こっちがチームリーダーの板沢さん、その向かいに居るのが伊東さん、藤堂さんの向かいにいる尾根川君はもう知っているかな?」


 綾乃さんは同じ島のメンバーを順番に紹介してゆく。

 チームリーダの板沢さんは40歳ぐらい、眼鏡を掛けてちょっと下ぶくれなお顔立ち。伊東さんは30代後半に見える。スポーツ刈りだし、スーツの上からでも分かるくらいにがっしりしているから、何か趣味にスポーツをしているスポーツマンなのかも知れない。最後の尾根川さんは、私にあの日声を掛けてくれた人だ。少し長めの前髪を斜めに流しており、爽やかな印象の人だった。


「あと1人、桜木ってのがいるんだけど、今日は直接物件寄ってから来るみたい。あとから紹介する。桜木は色々と凄いよ」

「色々と凄い?」

「うん。まぁ、色々と。ボンボンのくせに仕事出来るし。午後には戻ると思うから、紹介するね」


 綾乃さんは意味ありげに笑うと、前髪をバサリと掻き上げた。


「見ての通り、うちの会社って社長も含めて従業員が10人しかいないの。だから、藤堂さんも早く戦力になって貰えると助かるわ」

「はい。頑張ります!」


 綾乃さんに見つめられ、私は力強く頷いた。綾乃さんはニッと口の端を持ち上げる。

 イマディール不動産に正社員は10人しかおらず、前の会社より更に規模が小さかった。社長と3人の人事・勤労・経理を行う事務系スタッフ、6人の営業系スタッフに分かれているようだ。ちなみに、私は営業系スタッフだ。

 広尾駅から徒歩5分ほどのところにある小さなビルの1階部分全体がオフィスになっている。大きくは無いが、凝った内装にお洒落なインテリアはまるでインテリア雑誌に載っているモデルルームのように洗練されている。

 普段、窓口にいるのはパートの方で、あの日はたまたまパートさんが急なお休みで、尾根川さんが窓口を兼務していたらしい。


「今日は初日だから、うちの会社の事業とか、いろいろな手続きの説明で1日終わると思うわ。仕事は基本的に桜木が藤堂さんの指導役なんだけど、今日は居ないから尾根川君に付いてくれる? 小さな会社だから、みんなオールマイティが求められるの」

「はい。わかりました!」

「初々しー!」


 綾乃さんは意気込む私を見て、楽しそうに笑った。


 綾乃さんの言ったとおり、初日は殆ど会社の説明で終わった。

 午前中は健康保険とかその他諸々の色々な事務手続きと、会社の福利厚生などの説明。午後は尾根川さんから、具体的な仕事の内容を聞いた。

 イマディール不動産──正式名称イマディールリアルエステート株式会社は、まだ設立して6年の新しい会社だった。社長である前川さんが6年前、勤めていた不動産会社から独立して設立した会社のようだ。

 『イマディール』というのは『イメージ(想像)』と『アイデール(理想)』を組み合わせた造語で、社長の『お客様の想像する理想の住宅を提供する』という思いが込められている。メイン事業はマンションのリノベーションだという。


「リノベーションって、なにかわかる?」


 説明をしていた尾根川さんは一旦話を止めて、私を見た。


「古いマンションの内装を刷新して、新築みたいにする事ですよね?」と私は答えた。


「うん、だいたいそんなとこ。もっと正確に言うと今ある物件に手を加えることで、その物件の価値を高めることかな」

「価値を高める?」

「そう。ただ壁紙を変えたり、フローリングを新しくするのはリフォーム。これはマンションの価値を元に近づけることは出来ても、高めることは出来ない。リノベーションは例えば間取りを大規模に変えて今風にしたり、お客様のニーズに合わせた変更を加えることで価値を高めるんだよ」


 私は少しだけ首を傾げた。

 言っていることはわかるけれど、いまいちピンとこない。尾根川さんは私の表情をみてそれを悟ったのか、今までイマディール不動産が手がけてきたリノベーション事例を見せてくれた。

 ダイニングルームが中央にある3DKの古い間取りが今どきの1LDKに変わっていたり、ただのお風呂がミストサウナ付きのものに変わっていたり。それは、私の知るリフォームの規模を遥かに超えていて、『作り替える』という言葉が近いように思えた。


「まるで中身そのものを作り替えているみたいですね」

「おっ。いい言葉を見つけたね。うん、作り替えるんだ。より価値が高く、お客様のニーズに合ったものへ作り替える」


 尾根川さんはニコリと微笑むと、持っていたリノベーション事例の写真をコツンと指で叩いた。


「僕たちは物件を売りたいお客様の所有する物件に、その場所とニーズに合ったリノベーションを施して、価値を高めて次のお客様に売る。何もしないときに比べて数段高く売れるから売り手のお客様には喜ばれるし、新築を買うよりは遥かに安いから買い手のお客様にも喜ばれる。あとは、既に売りに出ている物件で将来の値下がりリスクが少ないところを狙って購入して、そこをリノベーションして転売することもある」

「へえ……」


 私は前職でも不動産屋で働いていたけれど、そこでの仕事は物件を貸したいお客様から頂いた物件情報を掲載して、借り手を探すというものだった。その際の仲介手数料が不動産屋の収入になる。

 しかし、イマディール不動産の稼ぎの仕組みは、前の会社とはだいぶ違うようだ。同じ不動産屋なのに、仕事の中身の違いに驚いた。そのことを話すと、尾根川さんは「そうだね」と頷いた。


「同じ不動産屋でもやることはだいぶ違う。けど、一緒のこともある」

「一緒のこと?」

「うん。つまり、僕らの仕事は『お客様の理想の物件探しをお手伝いする』ってこと」


 前職の賃貸物件の仲介もイマディール不動産のお仕事も、本質はお客様の物件探しのお手伝い。

 その言葉はストンと私の腑に落ちた。そう言われると、何だが自分も力になれるような気がしくる。私は尾根川さんに「はい、そうですね」としっかり頷いた。


 夕方になって自席に座ると、隣の席の綾乃さんが話しかけてきた。


「藤堂さんって、どこに住んでるの? 今日、簡単に歓迎会しようと思うんだけど、行ける?」

「あ、行けます。家は***駅なんです」

「***駅? 遠くない??」


 駅名を聞いた綾乃さんは目を丸くした。私の住む駅は埼玉県の東京寄りに位置しているが、ここまではドアトゥドアで1時間半位かかる。

 私は結局、英二と住んでいたあの家から未だに引っ越せずにいた。確かに、今朝初めて通勤してみたが、殺人的な通勤ラッシュの中で電車に揺られる1時間半は辛かった。もう少し近いところに引っ越したいとは思う。


「引っ越したいんですけど、まだ物件探しをしてなくて」

「え、じゃあうちの手掛けた物件に住みなよ。家賃補助が少し高いから。一緒に探してあげる」

「でも、この辺だと高くないですか?」

「大丈夫。うちのリノベ物件だったら半額補助出るから、高くないよ。だって、板沢さんは中目だし、尾根川君は恵比寿だし」

「ナカメ?」


 私は首を傾げる。聞いたことがない地名だった。


「中目黒」

「えー、凄い!」


 私は目を丸くした。中目黒とは、渋谷駅から電車で二駅、距離にして数キロほど横浜市寄りにある駅だ。恵比寿は山手線沿いで渋谷駅のすぐ隣だし、地下鉄に乗れば広尾からも一駅でつく。どちらも、雑誌の『住みたい街ランキング』で名前を見たことがある。『住みたい街』と言うくらいだから、多くの人は住みたくても住めない街ということだ。そんなところに住めるなんて凄いと思った。


「凄くないよ。僕のマンションの家賃は10万円だけど、僕の負担額5万円」


 正面で話を聞いていた尾根川さんが苦笑する。


「え? そうなんですか?」


 私は思ったよりも良心的な額に驚いた。たしかに、午前中の福利厚生の説明で、家賃負担は通常3割だけれども、イマディール不動産が手掛けた物件なら5割だと言っていた。負担額5万円なら、私にも払える気がした。


「藤堂さんのおうち探し、明日しようよ。いいのが沢山あるよ」

「いいんですか?」

「いいよ、いいよ。藤堂さんの理想の物件探し、お手伝いします!」


 尾根川さんは得意げな顔をしてそう言うと、口の端を持ち上げてニヤッと笑った。

 

 その日の晩、イマディール不動産の皆さんは広尾駅のすぐ近くにあるナポリピザのお店で私の歓迎会をしてくれた。店内に本格的なピザ釜のある、明るい雰囲気のお店だ。


「うわ、すごいモチモチ!」


 店内で職人さんがクルクルと皿回しのように回しながら作ったピザは、手に乗っけると形がぐにゃりと崩れるほど薄い。けれど、くるりと巻いて一口食べると、もっちりとした食感とトマトの酸味の効いたソースが口いっぱいに広がった。何だこれ、今まで食べた中で1番美味しいかも。


「ここ、雑誌にもよく紹介されるピザ屋なんだよ」 

「へえ」


 綾乃さんのコメントにも納得の美味しさだ。これは、これまでの私のピザの常識を覆したかもしれない。エビのフリットや、カプレーゼも美味しい!


「おまたせ。遅れて悪い」


 美味しい料理と会話を楽しんでいると、ふと後ろから声がして、私は振り返った。そこにいたのは、自分より少し年上に見える男の人。スーツの上着を片手にかけて、ネクタイを楽に緩めている。短く切られた髪は整髪料で上に上げており、切れ長の瞳が涼し気な印象の、ハンサムな人だ。


「さくらぎぃ、遅い! 全然オフィス戻って来ないし、何してんのよ。美雪ちゃんの歓迎会なんだから! あんたが指導役なんだよ」


 少し酔いの回った綾乃さんが文句を言うと、「ごめん、ごめん」とその男の人は苦笑しながら両手を胸の辺りに挙げて降参のポーズをして見せた。


「俺、桜木(さくらぎ)寛人(ひろと)。藤堂さんの指導役させて貰います。よろしくね」


 こちらを見てニコリと微笑む笑顔は柔らかく、とても優しそう。


藤堂(とうどう)美雪(みゆき)です。よろしくお願いします!」


 私はその場でバッと立ち上がり、深々と挨拶した。私の慌てたその様子がおかしかったのか、まわりはどっと笑いに包まれた。

 

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