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第二十九話 合格発表

目の前の山は険しいほど、登りきった時の達成感は増すものだ。

 カツカツとボールペンを走らせる音がして、暫くの沈黙の後にトンっと捺印する音が響く。まだやっと片手を超えた位しか体験していないけれど、いつもこの音を聞くと「ああ、やったな」と達成感を感じる。

 

 ゆっくりと印鑑を書類から持ち上げた目の前のお客様──佐伯様は、私の顔を見ると満足げに微笑んだ。


「いやあ、よかったですよ。決まらなかったらどうしようかと思ってましたからね」

「はい。本当に」


 私は神妙な表情のまま、少しだけ頭を垂れる。今日は、佐伯様の物件を売却するための手続き書類の作成のため、佐伯様にイマディール不動産のオフィスにお越しいただいている。この書類をもって正式に物件を新たな購入者のものへと所有権を移行させるための手続きが開始される。

 私がこの書類を無くさないようにファイルに挟んでいると、佐伯様は世間話を始めた。


「年末に新居に入居予定でしてね。年内に心配毎が片付いてホッとしましたよ」


 佐伯様はいつになく饒舌だ。佐伯様の所有する物件は、結局当初の設定価格から280万円ダウンの4300万円で取り引きが成立した。今年中に売れなかったらイマディール不動産の提示した下取り価格の3800万円までダウンすることになっていので、多少の値下がりがあったとは言えそれが未然に阻止できて、佐伯様はホクホク笑顔だ。


「新居はどちらなんですか?」

「静岡県ですよ。私の実家で、もう古いから今リフォームしてます。母も高齢だし、私もリタイアしたから故郷に帰りたくてねぇ。ここは便利だけど、空が狭いでしょう?」


 そう言いながら、佐伯様は天井を指さした。

 こんなにもにこにこした顔でよく喋る佐伯様と向かい合うのは、初めてだ。いつも少しだけ眉間を寄せた、頑固親父みたいな顔をしていたから。

 佐伯様はその後も、故郷の静岡の思い出話を沢山してくれた。佐伯様の故郷の静岡県島田市は東西に長い静岡県のなかでも中央部に位置しているようで、山の方に行くと温泉があるとか、海岸沿いの道路は晴れていると絶景だとか、観光客向けの機関車に乗れるスポットがあり、それで向かう山間部にはとても大きな吊り橋があるとか。気温も東京よりも暖かくて過ごしやすいと言っていた。

 佐伯様は新築で今回の物件を購入しこれまでの34年間を過ごしたわけだけれども、それでも少年時代を過ごした故郷は格別なのだろう。


「私が買った時はこの辺は鄙びた田舎でね、特に恵比寿なんて何も無かったよ。ビール工場と、広尾と恵比寿のちょうど中間地点に製菓の工場があった。渋谷川の辺りにいつも甘ーい香りが漂っていてねぇ」

「製菓工場ですか?」

「ええ。缶に入った飴で有名なところだよ。ほら、四角い……サクマさんだ」


 佐伯様は製菓工場の名前を思い出し、ポンと手を叩く。

 機嫌のよい佐伯様は、広尾と歩んだ思い出話も聞かせて下さった。ビール工場は知っていたけれど、製菓工場は初耳だ。その後も一通り話しを続けると満足したのか、暫くするとよいしょっと腰を上げた。


「ありがとうね。藤堂さん」

「いえ。お役に立てて嬉しく思います」


 去り際に頭を垂れる私に、佐伯様は笑顔で「大変だと思うけど、頑張ってね」と声を掛けて下さった。

 なぜだろう? 毎回胃に棘が刺さるくらい苦手な方だったはずなのに、これまで聞いたどの『頑張ってね』より嬉しく感じるのは。

 私は口の端を持ち上げて、「ありがとうございました」と佐伯様の背中に呼びかける。佐伯様は振り返えらずに、右手だけあげて見せた。



***



「藤堂さん、お疲れさまー。あのおじさん、大変だったでしょ?」


 席に戻ると、マグカップを持ち上げてふーふーと息を吹きかけていた綾乃さんが、ひょこっと顔を上げた。少し甘い香りはホットココアだろうか。


「大丈夫ですよ。厳しいこと言われることも多かったですけど、最後は笑顔でした。ご心配をおかけしました」


 私は少しだけ小首を傾げてみせた。佐伯様の相手は確かに胃に棘が刺さるかのようなストレスが多かったけれど、終わってみれば、咽に刺さった棘が抜けたかの如く、すっきりとした気分だ。


「藤堂さん、もうすっかり独り立ちだねえ」

「え? そうですか?」

「そうだよ。私が見る限り、藤堂さんはどんなお客様でもなんとかして上手くやっていけると思うよ。だってあのオッサン、相当癖ありだったもん」


 綾乃さんが『オッサン』の部分だけ声を潜めて内緒話をするみたいに口に手を当てた。私はその様子をみて、思わずクスッと笑ってしまった。


「ありがとうございます」

「それはこっちのセリフ。主戦力が一人増えると、それだけ私の仕事も軽くなるんだから」


 おどけた調子の綾乃さんはテーブルに肘をついたままこちらを見て、ボールペンをクルリと器用に回した。

 綾乃さんはこういう、相手に気を遣わせないようにさり気なく褒めることに関して天才的だと思う。褒められて嬉しくない人なんていないと思うから、私もこのテクニックを是非とも盗みたいものだ。

 

 そんな話をしていると、リーンとドアが開く電子音がして尾根川さんが外出先から戻ってきた。「寒ぃ」とぼやきながら、両手を擦り合わせている。今日は気温が低いのか、鼻の頭もトナカイさんのように赤くなっていた。


「お疲れさまです」

「お疲れー。外、無茶苦茶寒いよ」

「今日、曇ってますもんね」


 私は軽く頷いて相槌を打った。外はどんよりと曇っていて、いかにも寒そうだ。


「そう言えば、藤堂さん宅建どうだった? 僕受かったよ」


 尾根川さんは満面に笑みを浮かべて、右手の親指を立てて見せた。私はそう言われて、驚きで目を見開いた。隣では綾乃さんが「わぁ、やったねー」と、早速祝勝会の計画を立て始めようとしている。


「え? もう合格通知来ました? 私、来てないから駄目だったのかな……」


 私は呆然と尾根川さんを見返した。

 昨晩帰宅したときにポストを確認したが、合格通知は来ていなかった。私は駄目だったのかと思い、がっかりした。頑張ったつもりだったけど、力及ばすだったようだ。シュンとする私を見て尾根川さんが慌てたように補足した。


「合格通知はまだ僕にも来てないよ。だけど今日、ネットで合格者の番号発表してたよ。藤堂さん、受験番号覚えてないの?」

「ネット? 受験番号……」


 尾根川さんにそう言われて、私は眉を寄せた。そう言えば、ネットでも合格発表をすると書いてあった気がする。受験番号は受験票に書いてあるけれど、当然ながらその受験票は自宅のローテーブルの上だ。


「受験票、家なので分からないです」

「え? そっかぁ。じゃあ、家に帰って確認だね」


 尾根川さんは残念そうに両肩を上げ、手のひらを天に向けた。

 その日の帰りは20分弱の徒歩の道のりがとても長く感じた。いつもと同じ道なのに、とても遠く感じる。

 やっとのことで自宅に戻った私はコートも脱がずにパソコンを起動させるとその前に正座して座った。起動してからインターネットに繋がる時間すら、もどかしい。早く見たいのに。早く、早く。


「えっと、番号が……」


 合格者の番号を目で追って、自分の受験票に書かれた受験番号を探す。心臓がどきどきして、手が震える。数字が自分の受験番号に近づく。あるか、あるか、あってくれ!

 人差し指でモニターを指差して追った。


「あった……」


 パソコンのモニター上に自分の番号を見つけた時、私はもう1度受験票に視線を落として間違いが無いか確認した。間違いない。同じ番号だ。


「やった…、やった。やったーぁ!」


 わずか7畳の小さな城に、私の歓声が響いた。

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