第二十三話 宅建試験
人事に尽くして、天命を待つ
10月も下旬のとある日曜日。
私は緊張の面持ちで都内にある私立大学に向かっていた。今日はいよいよ、ここで宅地建物取引士の試験があるのだ。
会場の手前の歩道ではスーツ姿の人達が沿道に立ち、何かを配っていた。受け取ってみると、ピンク色のそのチラシには『直前チェックポイント』と書かれていた。色々な資格の塾のスタッフの方達が、テスト直前のチェックシートなるものや、さっそく今夜開催されるテスト解説授業の案内を配っているようだ。私はそれを幾つか受け取ると、くるりと丸めて鞄に突っ込んだ。
大学の敷地に入ると人の流れについて行き、校舎の前で自分の受験番号を確認して受験会場の部屋を探した。受験会場の案内には9号館と書いてあり、随分とたくさん校舎がある大学なのだなと驚いた。
少し古い校舎の講義室で自分の受験番号が貼られた座席に座った私は、鞄からがさごそとテキストを取り出した。何回も繰り返し読み込んだテキストは角がぼろぼろになっており、何枚も付箋が飛び出している。私はその付箋が貼られた部分をもう一度読み返した。
【問】
代理に関する次の記述のうち、民法の規定及び判例によれば、誤っているものはどれか。
1、売買契約を締結する権限を与えられた代理人は、特段の事情がない限り、相手方からその売買契約を取り消す旨の意思表示を受領する権限を有する。
2、委任による代理人は、本人の許諾を得たときのほか、やむを得ない事由があるときにも、 復代理人を選任することができる。
3、復代理人が委任事務を処理するに当たり金銭を受領し、これを代理人に引き渡したときは、特段の事情がない限り、代理人に対する受領物引渡義務は消滅するが、本人に対する受領物引渡義務は消滅しない。
4、夫婦の一方は、個別に代理権の授権がなくとも、日常家事に関する事項について、他の一方を代理して法律行為をすることができる。
(2017年度 宅地建物取引士試験より引用)
例えばこんな試験問題は、知っていれば当たり前のようにわかる問題だ。けれど、知らなければ全く分からない。当然私も、勉強を始めたばかりの頃はさっぱり分からなかった。
得点源の頻出とされる問題は絶対に落とさないように何回も繰り返しチェックし、過去問や予想問題も出来るだけ得点を取れるように真剣に取り組んだ。テキストも読んだし、やれることはやったと思う。はっきり言って、こんなに勉強したのは学生時代以来だ。
しばらくすると試験官の方が筆記用具以外は仕舞うように指示を出し、問題が配られる。白い小冊子を受け取ると、嫌でも緊張した。
試験開始の合図があり、私は鉛筆を握る。鉛筆にしたのは、マークシートの試験は鉛筆で受けろと高校の時の先生が言っていたのを思い出したから。シャーペンよりも鉛筆の方が、マークが塗りやすいかららしい。けれど、たぶんほんの気休め程度の差だ。
問題を読んでる最中に、まわりからパラッと問題のページを捲る音がすると、否が応でも焦りが生まれる。そんな自分に、私は「大丈夫。大丈夫」と言い聞かせた。
ここまで、平日の夜や土日は忙しくても必ず勉強する時間を確保して頑張ってきた。事前に実際に時間を測って模試を解く練習もした。焦るな、大丈夫だ。あんなに勉強したんだから、きっと大丈夫。私は何度も自分にそう言い聞かせた。
すぐに焦りそうになる気持ちを落ち着かせて、目の前の問題だけを見た。頻出問題で見覚えがあるものもあれば、4つある選択肢のうち2つで迷うもの、はたまた全く見覚えがないものもあった。
残り時間15分を残して全部の問題を終えた私は、迷った問題をもう1度読み返した。
「終わり。筆記用具をおいて下さい」
試験官の方が終わりの合図をして、鉛筆を机に置く。正直、分からない問題も幾つもあった。けれど、この5ヶ月間自分なりに頑張ったつもりだったので、試験を終えた私はとても晴れやかな気持ちだった。
その日、私は少し寄り道して帰る事にした。
恵比寿駅で下車すると、駅ビルに直結した商業施設で秋から冬物の洋服などを見て、気に入ったものを2着ほど購入した。秋冬向きの暖色カラーのニットとスカートで、明日の通勤から早速大活躍してくれそう。結果も知らないくせに気が早いけど、今日まで頑張った自分へのご褒美だ。
その後、私は同じ商業施設の地下にあるスーパーマーケットに立ち寄って食材の買い出しをした。最近は会社から帰った後は勉強していて自炊していない。久しぶりに料理をしようと思ったのだ。
帰り道には駅から少し歩いたところにある、最近人気のタピオカミルクティーのお店に行き、看板メニューのタピオカミルクティーを注文した。店の外では購入したばかりのタピオカミルクティーをスマホで撮影している女の子が何人もいる。きっと、SNSに上げるのだろう。印象的なロゴが付いた透明カップに黒く大きい丸が沈むミルクティーは、たしかに写真映えしそうだ。太いストローでクルリと回すと、黒い丸がゆったりとミルクティーの中を浮いては沈んだ。
「ん、おいし」
タピオカミルクティーのタピオカが、すっごくモチモチしてて美味しい。タピオカのサイズがコンビニのそれとは全然違うし、モチモチ具合が尋常じゃない。紅茶もスッキリとして飲みやすい味わいだった。いわゆるダージリンやアッサムティーといった一般的な紅茶というよりは、中国茶のような味わい。流石に人気のお店だけある。私はそれを片手に持ち、のんびりと歩いて家路へと付いた。
家に帰ると、久しぶりにグラタンを作った。秋らしくカボチャとキノコのクリームグラタンだ。ツーンとする目の痛みに耐えながら玉ねぎを薄切りにスライスし、フライパンでしっかりと炒める。玉ねぎを飴色になるまで炒めるのは手間だけど、手間を掛けたからこその美味しさがそこにあるのだ。
ホワイトソースはバターを溶かして小麦粉と牛乳を混ぜて作る本格派だ。案の定、作ったホワイトソースはたくさん余ってしまったけれど、それは今度クリームシチューにでもしようと思う。グラタンに入れるカボチャやキノコも全て旬のものを購入した。
オーブンレンジを開けると表面にのせたチーズの焦げた芳ばしい香りがした。表面には焦げ目がつき、中はトロリと垂れる熱々のそれを私はスプーンで掬い、フーフーと冷まして1口だけ食べた。
「んー。私、天才かも」
我ながら、中々の出来栄えだと思う。カボチャのホクホク具合と、キノコの食感と、ホワイトソースの蕩け具合が絶妙だ。マカロニと刻んだ鶏胸肉も良い具合に絡み合っている。味付けもいい感じ。
上手に出来たから、桜木さんに食べて貰いたいな、なんて思ったり。
あの時みたいに『凄く美味しい!』って言って、笑ってくれるだろうか。そう言ってくれたら、すごく嬉しいなぁ。きっとこのホワイトソースなんて全部なくなっちゃうだろうな。
それを想像して1人ニヤニヤしている私はきっと、端から見られたら完全に怪しい女だっただろう。
美味しく夕ご飯を頂くと、いつの間にか解答速報の授業の時間になっていた。気合いを入れて夕ご飯を作っていたので、すっかりと時間が経つのを忘れていた。
私は慌てて食器を片付けてパソコンを開くと、生中継の解説授業の様子を食い入るように見つめた。




