第二十話 初めての成約
そのお言葉は、私の社会人人生で1番嬉しかった忘れられない言葉です。
その物件案内を水谷様がご覧になっている間、ぱっと見は澄まし顔をしているはずの私は、内心では胃を吐きそうな位に緊張していた。
私が水谷様にご紹介したのは全部で2件。1つは練馬区にある60平方メートルの2LDKの駅近物件。もう1つは例の番町の物件だ。
練馬区の物件の方は、水谷様が前回ご希望されたものに近い条件で、駅近だ。都心6区では無いものの、昔から閑静な住宅地として人気の地域の駅近物件のため、大きな値崩れはおこりにくい。
2件目の番町は、言わずもがなで資産性は間違いない。
ちなみに、今回の紹介物件を2件に搾ったのにも訳がある。桜木さんからアドバイスされたのだ。
人は選択肢が多すぎると目移りしてしまい、1つになかなか決められなくなる。それぞれ特徴の違う選択肢を3つ以内に抑えて提案することで、お客様にとって選びやすい環境を整えるのだという。そのかわり、提案する3つはお客様にとって最もよいと思われるものを慎重に吟味してご提案する。言われてみれば、私が今住むマンションを選ぶときも桜木さんは3つしか紹介しなかった。
そのため、私は今回、前回の水谷様の探した条件と近い中で最もお勧めだと思うマンションと、全くタイプの違う番町の物件の2つの物件しか案内しなかった。
この2件については、事前にメールで情報を送り、お電話でも説明している。そして今日はそれぞれの利点について顔を合わせて説明した。もし、水谷様が興味が無いと言えばすぐに引き下がるつもりだが、全くタイプの違う2つを提案するのは否が応でも緊張した。
「じゃあ、せっかくだから両方見てみようかしら」
物件案内から顔を上げた水谷様は、私の顔を見るとにこっと笑った。その表情を見て、私は心底ホッとした。
***
最終的に水谷様が決めたのは、番町の物件だった。
マンションの素晴らしさもさることながら、大手町への通勤のしやすさと、これまでの不動産価格の実績からみた資産性の高さが彼女を後押しした。優秀なビジネスマンでもある水谷様にとって、客観的な分析データは何よりも説得力があったようだ。
正式な不動産売買の契約は日を改めて行われる。
私はこの日を迎えるに当たって、やっぱり辞めるとかでキャンセルされないかと、それはそれは心配でならなかった。
「こんにちは、藤堂さん」
「ようこそいらっしゃいました。水谷様」
当日、約束の時間にイマディール不動産のオフィスに現れた水谷様を見て、心底ホッとした。私は水谷様を接客室にお通しすると、すぐに上司の板沢さんを呼びに行った。
売買契約を結ぶに当たっては、それに先立ち重要事項説明というものを行う必要がある。これは、宅地建物取引士が買い主に行うことを法律によって義務付けられており、登記簿に記載されている権利関係、法律に関することなど、買い主が不動産を購入するに当たって知っておくべき重要な事項を説明するのだ。
私はまだ宅地建物取引士の資格を持っていないので、この説明をすることが出来ない。そのため、この説明は上司の板沢さんが行ってくれ、私は同席してそれを横で聞いていた。
「──他に御不明な点はございますか?」
「大丈夫です」
「では、こちらにご署名をお願いします」
全体説明のあと幾つかの確認を終え、イマディール不動産の小さな接客室に紙を捲る音とカツカツとポールペンを走らせる音が響く。
この作業の次は、売買契約書の作製となる。
この際、手付金として不動産価格の10パーセントと、今回の物件はオーナーさんからの仲介物件だったのでイマディール不動産が仲介手数料として3パーセントを買い主様から頂く。今回は4380万円なので、その13パーセントと言うことで総額は500万円を超す。私は人生で初めて、本物の預金小切手というものを目にした。
全ての作業が終わり、私は水谷様をお見送りするため、オフィスの外に出た。水谷様はクルリと振り返ってこちらを見た。
「住むのが今から楽しみだわ。ありがとう」
「お力になれて、本当によかったです」
私はペコリとお辞儀をした。
顔を上げると、水谷様は晴れ晴れとした表情でこちらを見つめていた。
「私、あなたにお願いしてよかったわ。いつか買い替える時がきたら、また藤堂さんにお願いする」
にこりと微笑んで最後に言われた言葉に、胸がジーンと熱くなった。頑張ってよかったなと、心から思った。
「この度は誠にありがとうございました」
私はもう1度深々とお辞儀をして、水谷様の背筋がピンと伸びた後ろ姿が見えなくなるまで見送った。
オフィスに戻ると、私は綾乃さんと桜木さんにお礼を言った。あの時、綾乃さんが背中を押してくれなかったら、そして、桜木さんがアドバイスをしてくれなかったら、私は今日も契約件数0件の日数を記録を更新していたことだろう。
「綾乃さん、桜木さん、契約取れました。やりました」
お礼を言いながら、なぜか感極まってきてボロボロと涙が溢れてきた。
「藤堂さーん、泣かないでー! よしよし、頑張った。今日はお姉さんが飲みに連れて行ってあげるから!!」
綾乃さんが私の背中を擦る。やっぱり今日も綾乃さんの中では飲みに行く事が決定したようだ。
「藤堂さん、おめでとう。頑張ったね」
桜木さんが労いの言葉を掛けてくれた。
「そうよ。藤堂さんは頑張ったの。見てよ、この初々しさ。毎月何件も契約取ってきては飄々としてる桜木とは大違い」
「俺にも感動して泣けってのか?」
「いいねぇ、桜木の泣き顔。インスタにあげとく」
「やめろ。泣かねえし」
「じゃあ、桜木が大物になったらそれをネタに揺する。桜木がうら若き後輩女性社員を泣かせた図」
「マジか、そっちなの??」
にやにや顔の綾乃さんと顔を顰める桜木さん。いつものように阿吽の呼吸でやり合うこの2人に、私は思わず吹き出してしまった。
「お2人とも、本当にありがとうございました。これからも頑張ります」
泣き笑いする私を見て、2人はキョトンとした顔をしたあとにこりと笑ってくれた。
藤堂美雪、27歳。社会人6年目にして、これまでの社会人人生で1番嬉しい日だった。




