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第十八話 お客様と向き合う

お客様と向き合うことと、お客様の話をそのまま聞くことは似て非なるもの。

目の前の人は何を求めているのか?

それが重要だ。

 最初にそのお客様──水谷様がいらした時、私は彼女のことを、きっとこの人は恋愛など全く興味のない、仕事一筋のバリバリのキャリアウーマンなのだろうな、と思った。

 36歳独身、誰もが知る一部上場企業の副課長職。淡い茶系のアイシャドーは陰影をつけるために何色か重ねられ、リップは赤みのあるはっきりとした色合い。しっかりと施された化粧は、彼女が社会で戦うための鎧のように見え、少しだけ吊った目尻は彼女をより強い女に見せていた。


「会社の独身寮の退寮期限が迫っているの。だから、自分が住むためのマンションの購入を考えているのよ」


 水谷様は私と会うとニコリと笑い、そう言った。背筋がピンと伸びた凜とした佇まいはいかにも仕事が出来るオーラを纏っており、胸元には私も知る有名ブランドの花形のネックレスが光っていた。


「今日はこちらのマンションの見学でよろしいですか?」


 私は1枚の物件案内を水谷様に差し出す。


「ええ、お願い」

「畏まりました」


 水谷様が見学を希望されたのは東京都東部の、とある駅から離れた河川沿いにある、タワーマンションだった。周囲を運河で囲まれた半島のような形状になった場所に、何棟ものタワーマンションが建ち並ぶ、再開発された都心でも特徴的な新しい街だ。大型ショッピングモールも近くにあり便利だし、都心までも電車に乗ればすぐに着く。ただ、物件から駅までは徒歩10分以上はかかる。


「ご案内の前に、どのような物件をお探しか、事前にヒアリングさせて頂いてもよろしいですか? 皆様にお伺いしておりまして、ご迷惑でなければお願いしたいのですが」

「ええ、もちろんいいわよ」


 私はアンケート用紙を水谷様にお渡しした。記入頂く間に、裏でお客様用のコーヒーを用意してお出しする。小さな接客室はコーヒー独特の芳ばしい香りで満たされた。しばらくすると、水谷様は「書けたわ」と言って私にアンケート用紙を手渡した。


 私はアンケート用紙の回答を見て面を食らった。希望エリアは都心部、城東、城西、沿岸部など全てに丸が付いているし、希望間取りも1DK~2LDKまで幅広い。決まっているのは予算の4500万円だけだ。まるで、『どんな家にするか全く決めていない』と言われているようだった。


「少しだけ確認させて頂いてもよろしいですか?」

「ええ」 

「エリアに、なんとなくのご希望はありませんか? やはり、今回見学される東京都東部がよろしいですか??」

「それが、迷ってるの。私は実家も遠方だし、特にこだわりは無いのよ。ただ、通勤しやすい場所がいいわ。とは言っても、私の仕事は転勤も有り得るから、具体的な場所は無くて、交通の便がいいところ」


 水谷様は落ち着いた口調でスラスラと答えてゆく。アンケート用紙を見ると、水谷様の勤務先は大手町となっている。これは、確かに今回の見学を希望されたマンションからは通いやすい。


「ご希望の間取りも幅広いですが、お1人でお住まいの予定ですか?」

「……そうよ。独身だし、結婚の予定も無いし」


 水谷様は私の顔を見つめてクスリと笑う。ただ、私はその答えの前に水谷様に一瞬だけ間があったように感じた。しかし、次の瞬間には何事も無かったように自然に答える水谷様を見て、やっぱり気のせいかと思った。その後も、私はいくつかアンケート用紙を見ながら確認し、質問を終えた。


「では、早速物件にご案内させて頂きます。タクシーでよろしいですか?」

「ええ。お願いするわ」


 水谷様が頷かれたので、私はオフィスから出て外苑西通りでタクシーを捕まえると、見学先の物件へと向かった。

 実は、物件案内の際にタクシーではなく公共交通機関のご利用をご希望される方も多い。住むに当たって、周辺環境や駅からの経路を見ておきたいと考えるからだ。



 ***



 見学先は、築13年のタワーマンションだ。32階建ての16階に位置している、65平方メートルの2LDK。まだ築13年と比較的新しいため、大規模なリノベーションは行っておらず、リフォームを施したのみだ。それでも、部屋の中はまるで新築のように美しく、自信をもってご案内できる物件だ。

 水谷様は室内を順番に見て回り、最後にオープンキッチンで作業台をさらりと手で撫でて、そこから見渡せるリビングダイニングルームを眺めていた。


「藤堂さん、ここはお幾らだったかしら?」

「4200万円です」

「そう。新築時は幾らだったの?」

「5080万円です」

「ふーん。だいぶ下がってるのね」


 水谷様は小さく呟くと、リビングルームに移動して窓から外を覗いた。


 タワーマンションは1棟の世帯数が多いので、こう何棟も同一地区に乱立してしまうと中古市場では供給過多に陥りやすい。このマンションの場合、乱立しているタワーマンションの中でも最も駅から離れていることがマイナス要素として大きかった。ただ、新築では手が届かなかった方達にも買える価格になるという点で、購入者層が広がる利点はある。


 私は水谷様の背中越しに窓の外を見た。この部屋は東向きなので、バルコニーからは隣接するタワーマンションの合間を縫って都内郊外の住宅街がはるか遠くまで見渡せた。奥の方は、もしかしたら千葉県なのかも知れない。


「ありがとう。素敵なところだったわ」

「こちらは大規模マンションなので共有スペースがございます。見て行かれますか?」

「例えば、どんな?」


 水谷様に聞き返され、私は手元の物件案内を見た。


「共用会議室、ゲストルーム、キッズスペースです」


 大規模なマンションになればなるほど、こう言った共有スペースは充実してくる。少額を管理費として負担しあうだけで維持費が確保できるからだ。中にはジムやカフェ、プールがある大規模マンションも最近はあるが、ここは共有スペースとゲストルームとキッズスペースの3つだった。


「うーん。やめとく。せっかく時間を取って貰ったのに、ごめんなさいね」


 水谷様は曖昧に微笑むと、申し訳なさそうに眉じりを下げた。その表情を見て、私は今回も契約は無しだと悟り、内心でがっかりした。


「そうですか。今後、水谷様にいいと思われる物件があった場合、ご案内させて頂いてもよろしいでしょうか?」

「ええ。お願いするわ」


 私は最寄りの駅まで水谷タクシーでお送りすると、背筋のピンと通ったその後ろ姿に深々とお辞儀をした。



 ***



 オフィスに戻った私はパソコンの前で項垂れた。

 何でだろう。

 マンションのような高額物件が月に何件も売れるとは思わないけれど、こんなに売れないなんて。

 きちんとご希望の物件にご案内しているのに、自分の何がいけないのだろう。

 自分なりに考えても、答えは分からない。


 項垂れた私は、机がコツンと鳴る音で顔を上げた。そこにはマグカップに入ったコーヒーが置かれていた。綾乃さんが何も言わず、こちらを見ていた。


「……また駄目でした」

「そっか。どんなお客様をどこに案内したの?」


 綾乃さんに聞かれ、私は水谷様の事を話した。綾乃さんは真剣な顔でそれを聞いていたが、話を聞き終えると大真面目な顔で私を見た。


「ねえ。その人、迷ってるんじゃない?」

「迷ってる?」

「うん。確かに36歳でそのスペックだとどう見てもバリキャリだし、仕事命っぽく見えるけど、本当は家庭を持つ選択肢も考えてるんじゃないかなぁ?」

「家庭を持つ選択肢を考えてる人が、1人暮らしのためにマンションなんて買いますか?」

「だから、それが迷ってるってこと!」


 綾乃さんはずいっと人差し指を立てた。


「65平方メートルの2LDKって、そもそも1人暮らしの女性が買うには広いと思うのよ。もしかしたら、将来結婚したときに一緒に暮らせるように保険をかけてるんじゃない?」


 綾乃さんに言われて、私は水谷様のことを思い返した。落ち着いた雰囲気、凜とした佇まい、いかにも出来る女風のキャリアウーマン。一見、彼女は仕事と結婚しているように見えた。

 けれど、実際は? 

 例えば自分が水谷様だと考えたとき、やっぱり仕事一筋の人生は不安があると思う。この先の長い人生で、体を壊したときにすぐに助けてくれる人も、辛いときに寄り添ってくれる人もいない。仕事には誇りを持っていても、家庭を持つ選択肢も視野に入れているのではないかと思えてきた。仕事が出来る女性が恋しちゃいけない、結婚しちゃいけない、子どもを産んじゃいけないなんて決まり、どこにもない。


 65平方メートルは確かに1人暮らしには広い。そして、物件価格が新築時より下がっていると知ったときの水谷様あの表情。

 色々考えると、水谷様は将来に備えてマンションは欲しい。けれど、家庭を持つ可能性は捨てたくない。そして、将来的に自身が体調を崩すなどの万が一の事態に備えて、マンションに資産価値を求めている。

 そんな風に思えてきた。


「私、その可能性を視野に物件のご案内してみます」

「うん。頑張れー」


 ぎゅっと胸の位置で拳を握った私を見て、綾乃さんはにまっと口の端を持ち上げた。

 


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