第十七話 桜木さんという人
私には、ほんの少しの勇気が足りていない。
もっと自分に自信が持てたなら、あなたに好きだと伝えたい。
9月に入り、私がイマディール不動産に入社して既に5ヶ月が過ぎた。これまでは桜木さんにくっついて仕事を覚えていた私も、そろそろ大丈夫だろうということで1人で業務をこなすことが増えてきた。そんな中、私は先日物件のご案内をしたお客様とオフィスで電話のやり取りしていた。
「はい……はい。……そうですか。誠に残念ですが……またのご機会があったら、是非ご利用お願いします。ありがとうございました」
「せっかく案内して貰ったのに、ごめんなさいねぇ」
もう何回繰り返したかわからない、このやり取り。電話を切ると、私ははぁっとため息をついた。
イマディール不動産で1人で営業を始めて早1ヶ月。私の成績は『契約件数0件』と言う、散々たるものだった。ご案内自体はそれなりの人数をお連れしているし、物件にも自信を持っている。けれど、なぜか上手く行かない。
「あーあ。駄目でした……」
自席で項垂れる私を綾乃さんがチラリと見る。
「まあ、不動産の見学者の半分以上は冷やかしだから。そう気に病むことないって」
元気付けようとしてくれているのか、綾乃さんの口調は底抜けに明るい。そう言ってもらえると、少し救われる。
「でも、桜木さんは何件も成約してます」
「あいつは化け物だから。張り合っちゃ駄目よ。前の会社でも、断トツだったもん」
「前の会社?」
私は伏していた顔を上げて、綾乃さんを見た。こちらを見ていた綾乃さんは、私の訝しげな顔を見て目をパチクリとしている。
「あれ? 言ってなかったっけ? 私と桜木、イマディールに入社前に勤めてた会社で同期なの」
「そうなんですか? 全然知りませんでした」
本当に全然知らなかった。
思い返せば、綾乃さんは桜木さんのことだけ呼び捨てだし、とても親しげだ。前の会社に新卒で入社したと考えれば、既に10年の付き合いになるのだからそれも頷ける。
「ちなみに、どちらの会社に?」
「SAKURAGI」
「SAKURAGI?」
私は思わず聞き返した。
SAKURAGIと言えば、旧財閥系などの大手不動産会社には敵わないが、関西地方を中心に手広く不動産関連を扱う中堅の不動産会社として、業界ではそこそこ有名な企業だ。一般人は知らないかも知れないが、不動産会社に勤める人なら知っている、そんなレベルの会社。最近は関東地方にも進出しており、イマディール不動産とは比べものにならないくらい会社の規模は大きい。従業員だって何百人もいるはずだし、資本金だって全然違う。会社の安定性たるや、言うまでも無い。
SAKURAGIからイマディール不動産に転職。なんともちぐはぐなこの転職には疑問を持たざるを得ない。
「何でまたSAKURAGIからイマディール不動産に?」
「私は、桜木に惚れたから」
「惚れた!?」
私は素っ頓狂な声を上げて、慌てて自分の口を塞いだ。まるで『おはよう』と言うが如く、自然に『惚れた』とカミングアウトした綾乃さんに驚きが隠せない。あわあわする私を見て、綾乃さんは目をパチパチとしばたたかせ、その後けらけらと笑い出した。
「藤堂さん、今勘違いしてるでしょ? 『惚れた』って言うのは、異性としてじゃなくて、同僚としてってことよ。桜木ってさ、御曹司だから前の会社の時陰口が酷くてさ」
「桜木さん、御曹司なんですか!?」
私はまたもや素っ頓狂な声を上げた。
SAKURAGIの御曹司と言えば、とんでもないボンボンの筈だ。今までそんな素振りは一度も見せなかったのに。
「そうだよ」と綾乃さんは言った。
「だから、契約をとっても『わざと契約を取りやすいお客様を回されてる』って言われたり、なにか成果を出しても『親の七光りで上司に付け入ってる』って言われたり」
「酷いですね。桜木さん、本当に仕事出来るのに」
私は思わず顔を顰めた。今の桜木さんの働きっぷりからすると、きっと実力で頑張っていたのは想像がつく。それを僻みでそんなふうに言うなんて、酷いと思った。
「そうそう。でも、高学歴だし、仕事できるし、そこそこハンサムだし、挙げ句の果てに御曹司でしょ? 妬む連中っているのよ。結構酷いこと言われてたよ。でも、コネが何もないとか、上司が贔屓していないなんて、結局のところ、証明のしようがないじゃない? もしかしたら、少しぐらいそういうことがあったかもしれない」
私はぐっと押し黙った。上司だって人間だ。確かに、部下に経営者一族の若手がいたら、ある程度の贔屓は起こり得る。なぜなら、相手は将来的に自分の会社の経営幹部に成り得る立場の人間なのだ。
「でね、アイツどうしたと思う?」
綾乃さんは私を意味ありげな目で見つめた。私は無言で首を傾げると、綾乃さんは言葉を続けた。
「ある日、突然辞表出して辞めたの。自分にはコネなんてないってことを証明してやるってこれまで陰口叩いてた連中に啖呵切って。あれはびっくりしたわ。前の会社の同期内じゃ、『逆ギレ退職』って未だに伝説になってる」
「えぇ!?」
綾乃さんはその時のことを思い出したのか、クスクスと笑った。一方、私は唖然としてしまった。
桜木さんが逆ギレして辞表を出すなんて、私にはとても信じられなかった。私にとって、桜木さんはいつも穏やかな雰囲気の大人の男性だ。でも、今の話を聞く限り、芯の部分はとても負けず嫌いな激情家なのかもしれない。
桜木さんは、私が振られた腹いせに辞表を出したと言ったとき、馬鹿にせずに聞いてくれた。もしかしたら、その時の自分と私が重なったのかもしれない。
「で、桜木がイマディールリアルエステート株式会社に転職を決めた時、私もたまたま夫の東京転勤が決まってSAKURAGIを退社することになったから、なんなら同じ会社に入ってアイツの行く末を見てやろうと思ったわけ。駆け出しの会社で不動産会社の営業経験者を欲しがってたから、すんなりと採用が決まって今に至るわ。もう、4年位前の事よ」
「そのことって、綾乃さんの旦那様は知ってるんですか?」
「もちろん。だって、うちの夫、SAKURAGI時代の同期だもん。桜木の事もよく知ってるよ」
綾乃さんは屈託なく笑う。
始めてここで働き始めた日に、綾乃さんは桜木さんの事を『色々と凄い』と評した。私はこれまで、桜木さんの仕事ぶりのことを指してそう言っているのだと思っていたけれど、きっとそれだけじゃないんだ。生まれ育った環境とか、御曹司であることとか、仕事ぶりとか、熱いところとか、全部引っくるめて『色々と凄い』と言ったんだ。
「綾乃さんから見て、イマディール不動産に入社後の桜木さんってどうですか?」
「んー、そうねぇ」
綾乃さんは考えるように天井を仰ぐ。そして、ゆっくりとこちらに視線を移動させた。
「相変わらずずば抜けた仕事ぶりは変わらないけど……なんだか楽しそうに見えるわ。前は会社が大きい分、仕事も縦割りだったから。色んな事を任されて、凄く勉強になってると思う。きっと、SAKURAGIに戻ってからも今の経験って役立つと思うの」
「……え? 桜木さんってSAKURAGIに戻るんですか?」
「はっきりと聞いたことは無いけど、いつかは戻るんじゃないかな? 御曹司だし」
頬に手をあてる綾乃さんを眺めながら、私は自分でも考えられないくらいショックを受けていた。
毎朝出社したら、目の前に尾根川さんがいて、隣に綾乃さんがいて、斜め前に桜木さんがいる。でも、それが当然じゃ無いってことを、私はすっかりと忘れていた。
このまま、桜木さんが会社を去ったら?
──きっと、2度と会えなくなる。
後悔しない?
──きっと、後悔する。
でも、私にはもう少しの勇気が足りていない。
あと少し、もっと自分に自信が持てたなら──あなたに好きだと伝えたい。




