第十五話 恵比寿で暑気払い!
恵比寿駅と言えばビール!
駅の乗車案内曲もあのCMのあの曲だよ。
イマディール不動産では、8月のお盆に1週間ほどの夏休みがある。そのため、7月も後半に入ると、夏休みも近いことからなんとなくオフィスは浮き足立った雰囲気に包まれていた。
「藤堂さん。お盆入る前に、暑気払いするから来てね」
「暑気払い?」
「月末の金曜日に恵比寿ガーデンプレイスのビアホールで。ついでに有志でビール工場見学するよ」
「ビール工場? あんな都心にビール工場があるんですか?」
私は目を丸くした。恵比寿ガーデンプレイスと言えば、雑誌やテレビで見たお洒落なデートスポットのイメージしかない。あんなところにビール工場があるなんて、全然知らなかった。
驚く私に対し、綾乃さんは「違う、違う」と顔の前で手を振った。
「ごめん、正確にはビール工場見学じゃないかも。あそこって元々ビール工場があった跡地だから、その名残でビールについての見学が出来る施設があるのよ。ついでだし、行かない?」
「行きます!」
私は一も二もなく、コクコクと頷いた。実は私、こんなに近所に住んでいながら、恵比寿ガーデンプレイスには行ったことが1度も無いのだ。
恵比寿ガーデンプレイスは、大型総合複合施設の再開発における先駆け的存在として、1994年に誕生した。広い再開発エリアの中には、オフィスビル、デパート、映画館などの商業施設、レストラン、住宅、美術館などがある。元々はビールの製造工場で、恵比寿駅もビールを運ぶための貨物駅だったらしい。今はお洒落なイメージしかない恵比寿だけど、何十年か前までは全く違う景色だったのかもしれない。
***
暑気払いの日、ビールの見学のために早めにオフィスを出て日比谷線で1駅隣の恵比寿駅に向かった私は、あまりの人の多さに目をパチパチと瞬かせた。
「な、なんか凄い人じゃ無いですか??」
日比谷線を降りて地上に出ると、辺りは人・人・人! 人気テーマパークのような混雑具合だ。
「今日は盆踊りだからね。藤堂さん、こっちだよ」
すぐ近くを歩いていた尾根川さんが、JRの駅ビルへと繫がるエスカレーターを指差した。
「盆踊り?」
私はおしゃれな恵比寿らしからぬ単語に目をパチクリとさせた。確かに、駅前の広場にはピンク色のぼんぼりが沢山ぶら下がり、中央には社が組まれている。
尾根川さんによると、恵比寿駅前で毎年行われる盆踊りは、いつも、もの凄い人出なのだという。なんと、2日間で6万人も参加するらしい。
「夜はもっと凄い人だよ」
「へえ」
これより人が多かったら、ぶつかって盆踊りが踊れないんじゃ? と余計な心配をしつつ、私はエスカレーターからその景色を眺めた。
恵比寿駅から恵比寿ガーデンプレイスまでは、連絡通路で繫がっている。真ん中に歩道、左右に動く歩道があるその連絡通路を使うと、暑い今の季節も快適なままで恵比寿ガーデンプレイスまで到着することが出来た。
連絡通路を出て道路を渡るとまず最初に見えた広場には、テレビドラマでおなじみの石のオブジェがあった。その前で観光客が写真撮影をしており、背後にはかつてここにビール工場を構えていたビール会社のオフィスが見えた。
茶色い煉瓦タイル貼りのお洒落な外観で、恵比寿ガーデンプレイス全体がその茶色い煉瓦タイルと統一感があるデザインになっていた。
私はそのオブジェがある時計広場から、ガーデンプレイスの中心であるセンター広場までの下り坂を眺めた。右手に近代的なオフィスタワー、左手に低層のデパート、真ん前には高い屋根の緑色のアーチがあり、下り坂の両脇に並木と花の植栽。その向こうには西洋館のようなお洒落な建物が建っている。
「あれ、ミシュランガイドで毎年3つ星をとるレストランだよ」
綾乃さんが西洋館のような建物を指さした。建物はライトアップされており、まるで白く浮き上がる小さなお城のようだ。
「へえ、よく知ってますね?」
「うん。旦那と結婚記念日に来た」
「わぁ。ラブラブですね。羨ましい!」
「ふふっ。ありがとう」
綾乃さんは照れくさそうに笑った。否定しないところを見ると、本当にラブラブなのだろう。羨ましい!
ビール工場見学はセンター広場からデパートを通り抜けた先の少し分かりにくい場所に入り口があった。
館内は無料で自由見学も出来るし、受付でお金を払うとガイドさんの解説付きのツアーに参加できる。みんなで早めに切り上げたかいあって私達は予約していたガイドツアーに間に合ったのでそちらに参加することにした。
ツアーガイドは前半は恵比寿にちなんだビールの歴史を学び、後半はガイドさんによる美味しいビールの注ぎ方レクチャーとビールの飲み比べだ。
「藤堂さん、大丈夫?」
グラスに注がれた2杯のビールをちびちびと飲んでいると、隣にいた桜木さんがこちらを見ていた。私は何が大丈夫なのかと首をかしげると、桜木さんは私の顔と並々と注がれたビールグラスとを見比べた。
「あんまりお酒強くないよね?」
「あ……はい」
桜木さんのご指摘の通り、私はあまりお酒に強くない。すぐに顔が赤くなるし、飲み過ぎると気持ち悪くなる。だから飲み会では出来るだけ弱いお酒をちびちびと飲んでやり過ごすタイプだ。
このビールツアー、試飲と侮るなかれ。結構しっかりとした量のビールが出てきた。時間が短いので、確かに私にはやや多すぎるのだ。
「せっかく美味しく入れて貰ったので、これは飲みます」
「そう? 無理しないようにね」
「ねえ、注ぎ方だけの違いなのに、凄く美味しく感じるね。何でだろう?」
反対隣がいた綾乃さんはいつの間にか一瞬で2杯とも飲み干しており、こちらを見て頬を綻ばせていた。
私は慌てて「そうですね」と目の前のビールグラスを持ち上げて口に含んだ。確かに、中身は同じなのになんだかいつもより美味しい気がした。
私はチラリと隣に座る桜木さんを窺い見た。既に反対側を向いて、隣にいる尾根川さんと何か会話している。
私はビールグラスに入れられた泡がたっぷりの琥珀色の液体をぼんやりと見つめた。シュワシュワと泡が上がっては消えてゆく。
桜木さんが、私がお酒に弱いことに気付いて気に掛けてくれた。それはほんの些細なことだけど、私は堪らなく嬉しく感じた。
飲み会の後は恵比寿ガーデンプレイスの中のオフィス棟の上層階のレストランフロアから見える夜景を見に行こうと綾乃さんに誘われた。高層階のレストランフロアには、無料の展望スペースがあるのだそうだ。都心を高層階から眺める夜景は、街の灯りがまるで宝石のように煌めいていた。
「美雪ちゃん! 東京タワーだよ」
綾乃さんがぶんぶんと手を振って私を呼ぶ。綾乃さんは酔っぱらうと私を『藤堂さん』では無く、『美雪ちゃん』と呼ぶのだ。綾乃さんが興奮して指さす先には、東京タワーが根元までしっかりと見えた。赤と白の躯体が幻想的にライトアップされている。
「本当だ。綺麗ですね」
「以前、藤堂さんと東京タワーから景色を見たよね」
いつの間にか隣に桜木さんがいて、懐かしそうに呟いた。
「そうですね」
私も小さく返事する。それはついこの間の事なのに、ずっと前の事のように感じる。
「ええ!? さくらぎぃ! いつ美雪ちゃんと東京タワーデートしたのよ?」
私達の小声の会話を聞き逃がさなかった綾乃さんは、眉を寄せて桜木さんを追求し始めた。
「デートじゃ無くて、仕事だよ」
桜木さんが相変わらずの酔いっぷりの綾乃さんを適当にあしらう。
「しごとぉ? なんだ、つまんなーい」
「何だよそれ?」
口を尖らせる綾乃さんを見て、桜木さんは呆れ顔だ。桜木さんが『仕事』と言ったのを聞いて、ちょっとだけがっかりする自分がいる。
──あの食事も、ただの仕事?
ふとそんな疑問が浮かんだけれど、臆病者の私は口に出して聞くことが出来ない。英二にこっぴどい振られ方をした私は、自分に自信がない。
私は楽しそうに桜木さんに絡む綾乃さんと、呆れ顔で対応する桜木さんから視線を移動させ、見渡す限り光り輝く東京の夜景を眺めた。
「よし。明日からも頑張ろっと」
キラキラ煌めく光は星のようだ。なんだかその光に応援されているような気がして、私は小さく自分にカツを入れた。
***
「藤堂さん、どうやって帰る?」
お開きの時、桜木さんにそう聞かれて私は首をかしげた。
「バス以外に、なにかあります?」
「歩いても15分かからないよ」
「本当ですか?」
住み始めてもうすぐ3か月経つというのに、私は全く位置関係が分かっていなかった。恵比寿ガーデンプレイスは恵比寿駅より私の家に近い側にあるらしい。
「帰り道が分かりません」
「途中まで方向が同じだから、一緒に帰ろうか?」
「いいですか?」
一緒に帰って頂けると、正直、非常に助かる。実は、バス停の場所もよく分かっていなかったから、あの人で溢れる恵比寿駅にもう1度戻るしかないかと考えていたところだったのだ。
帰り道、ふと気付けば、歩道についた街灯がビールジョッキだった。2つのビールジョッキを馬車が牽くような、変わったデザインをしている。そのビールジョッキはちょうどビールを注ぐような、絶妙な角度に傾いている。
「なんか、この街灯可愛いですね」
「通りの名前がビール坂って言うくらいだから、昔はこの坂を馬車がビールを運んでいたのかもね。さっき、見学ツアーで言ってなかったっけ?」
街灯を見上げ、桜木さんは少しだけ眩しそうに目を細めた。黄色いライトはビールをイメージしているのだろう。
ビール工場は数十年前まで、今は恵比寿ガーデンプレイスになった場所に存在していた。自分のおばあちゃんの時代くらいまでは、ここをビールを乗せた馬車が行き交っていたのかもしれないと思うと、とても不思議な感覚だ。
歩道を歩いていると、ちょうど羽田空港と恵比寿ガーデンプレイスにあるホテルを繋ぐエアポートリムジンが通り過ぎた。白にオレンジ色のラインが入ったバスには、何人かが乗っているのが見えた。
「桜木さんは、夏休みにどこか行かれるんですか?」
「俺? 実家帰るだけだよ」
「へえ。どちらなんですか?」
「兵庫だよ。兵庫県神戸市」
「関西なんですか? 意外です」
私は隣を歩く桜木さんを見た。桜木さんは少しだけ首をかしげた。
「そう?」
「だって、関西弁が全然出ないですね」
「そう言えば、そうだね。向こうに戻れば出るよ」
「ふーん……」
桜木さんはいつも落ち着いた口調で喋る。関東人の私からすると、関西弁は少しテンション高めなイメージだ。その関西弁で桜木さんが喋るところが想像がつかない。
「藤堂さんはどっか行くの?」
「私も帰省です。栃木なんですけど、私の住んでるところは何もない田舎なんです」
「普段が都心真っ只中だから、メリハリがあっていいね」
桜木さんは両方の口の端を持ち上げた。肩越しに見える道路を走り抜ける車のヘッドライトが、ふわりふわりと揺れて見える。
「藤堂さん、俺こっちだから。気をつけてね」
お喋りしていたら、時間が経つのは本当にすぐだった。いつの間に来たのか自宅近くの交差点に着いたとき、桜木さんは我が家とは違う方向を指差した。ここまで来れば流石に私も見覚えがある。我が家はすぐそこだ。
「はい。ありがとうございました」
私は桜木さんにお礼を言うと、笑顔で手を振り、家路へとついた。
恵比寿駅前の盆踊りの混雑具合は、本当に凄まじいです(-- )
ビール坂を下りきったところにはオーバーラップ様の本社があって、新刊書籍(なろう作品も!)がエントランスに飾ってありました。




