第一話 仕事も恋人も失った
あの時はつい、カーっとしてしまったのよ。
皆様にご迷惑をお掛けしたことを、心よりお詫び申し上げます。
あの時期の私は本当にどうにかしていた。
だって、恋人に振られた腹いせに仕事を辞めるなんて……ねえ?
***
うららかな春の日。
桜前線がどこそこに北上してきたなんてニュースが毎日のように流れ、街には新生活を始めて希望に溢れる若者が溢れている。
そんな中、私──藤堂美雪は会社の会議室で課長と2人で向き合っていた。課長は目の前に置かれた紙を読み返して、眼鏡のフレームをグイッと人差し指で押し上げると、困惑気味に私に視線を移した。
「本気なの? 藤堂さんは勤務態度も真面目だし、是非残って欲しいと思っているんだよ。早まらない方がいいよ。買い手市場とはいえ、正社員で再就職するのはなかなか難しいよ?」
引き留めてくれることがちょっとだけ嬉しい。課長もこう言ってる事だし、やっぱり取り下げようかな、なんて思ったところで、その男──三国英二はやってきた。
『使用中』の札がかかっているはずなのにも関わらず、英二は勢いよく会議室のドアをバシンと開け、文字通り部屋に乱入してきた。
「美雪! どういうことだよ? 辞めるって??」
息を切らせた英二は呆然とした顔で私を見つめている。私は英二をキッと睨みつけた。
「三国さんには関係ありません。他人のことに口を出さないでいただけますか?」
「関係ないって! お前、ここを辞めて働く宛てあるのかよ?」
「あらあら。赤の他人の心配をして下さるなんて、三国さんったら優しーい」
私は感動して泣いているかのような真似をして見せた。英二はぎりっと奥歯を噛みしめた。
「ふざけてる場合か! お前のそういう考えなしのところ、本当に治した方がいい。こっちは心配しているんだ!」
これには流石にカチンときた。
心配している?
へえ、どの口が言うのかしら?
ついこの間、2年も同棲していた私をこっぴどく振ったのはどこのどなただったかしら??
別れた翌日には、後輩と手を繫いで仲良く2人で飲みに行くのを目撃されたのは誰だったかしら?
私達は結婚間近だと思われていた。
私が会社中の人から可哀想なものを見る目で見られるような状況を作ったのは誰だったかしら?
全部、全部、誰のせい?
こんな小さな会社で、私がどんなに肩身の狭い思いだったか!
「はあ? 三国さんはそういう上から目線なところを治した方がいいですよ」
「なんだよ、その言い方! お前はそういうところが駄目なんだよ!」
売り言葉に買い言葉。
言い争いを始めた私達をポカンとした顔で見上げていた課長に私はぐいっと向き合った。
「課長、とにかく私は辞めます。確か辞表は2週間前までに提出でしたよね?明日からは有給消化ということで。私、全然休んでないんであと30日以上は残ってますから」
「はあ……」
それだけ言うと私は課長の前に置いてあった辞表をもう一度むんずと掴み、バシンと机の上に叩きつけた。課長は突如として始まった目の前の光景に、まさに目が点状態。開いた口が塞がらないご様子だ。
「美雪!」と叫ぶ英二の声が後ろから聞こえたけど、思いっきり無視してやった。ざまーみろ。
その日の晩、英二は私の住むマンションを訪ねてきた。
ここはかつて私達が同棲していた場所であり、今は私が1人で住んでいる。ピンポーンと呼び鈴がなり、外を確認せずにドアを開けた私の愚かさよ。
「美雪。考え直した方がいい。お前、路頭に迷うぞ」
「……」
無言でドアを閉めようとすると、慌てて英二が鞄をドアの隙間に滑り込ませた。鞄の金具にドアが当たり、ガキャッと嫌な音がした。
「美雪、待てよ! なにも辞めることはないんだ。少し話そう」
ドアの隙間から眉間に皺を寄せた英二がこちらを覗き込む。私は英二を睨みつけた。
「私は話す事なんてない。話なら散々したはずよ? 私とこの先も一緒に歩むのは無理って言ったのは英二でしょう? 望み通り英二の前から居なくなるんだから、万々歳でしょ?」
「それとこれとは別だろっ!」
「とにかく、私は話す事なんてない。もう帰って。帰らないと警察呼ぶわよ?」
表情を歪めた英二の腕から力が抜け、鞄がズルリと落ちた。信じられないものでも見るかのような目で、私を見下ろす。私はそんな英二から咄嗟に目を逸らすと、バシンとドアを閉めた。
すぐにコツンコツンとドアから遠ざかる足音を聞きながら、私は玄関に崩れ落ち、両手で顔を覆った。
***
休暇というのは、普段の忙しい時は大変ありがたいものだ。けれど、毎日が休暇だとあっという間にやりたいことがなくなる。
平日は友達も仕事していて都合が合わないし、ゲームも飽きたし、美容院も行ったし、平日に済ませておきたかった用事ももう終わったし……
なによりも、記帳したての預金通帳を見て私は顔を顰めた。残金のところには『398,443』と記載されていた。間取り1LDKのマンションの家賃は11万円。今までは半額が英二が払っていたけれど、1ヶ月程前に英二が出て行ったので、今月からは全額自分で払う必要がある。引っ越すにも資金がいるし……。
つまり、私は早急に働く必要があるようだ。
つい2週間程前まで働いていた──正確に言うと今日まで有給休暇を消化中だから一応在籍している会社は、賃貸住宅の仲介を行う不動産会社だった。従業員は15名で、私はそこで窓口スタッフとして働いていた。一応正社員だったけど、給料はあまり高くなかった。
「今月までは給料が出るけど……、どうしよう」
私は通帳を見ながらハァッとため息をついた。
会社を辞めると言ったのは、完全に英二への当てつけだった。こっぴどく振られた自分が肩身の狭い思いをして、英二は後輩とよろしくやってるあの状況が耐えられなかったのだ。
「あーあ。ばかだな、私……」
こんな事しても、何にもならない。本当にばかだ。英二の中で燻っていた不満に気付かなかったことも、私だけラブラブだと思い込んでていたことも、会社を辞めたことも、何もかも……
あの日、私は英二が『会社を辞めるな』ではなく、『私と別れると言ったのは気の迷いだった』と言ってくれることを心のどこかで期待していた。
すぐに引っ越さなかったのは、もしかしたら英二がもう一度戻って来るかもしれないと、ほのかに期待していたから。我ながら、本当に救いようのないばかだ。
私はもう一度ハァッとため息をつくと、スマホで求人案内の検索を始めた。田舎の両親には元気にやっていると言っている手前、何となく頼りにくい。あまり貯金がないから、出来るだけ早く働けるところを探さないと。出来れば正社員がいい。力仕事は無理。女ばっかりの職場もドロドロしているから避けたいな。やっぱり経験があるって事で不動産窓口が無難かな。
そんなことを思いながら、目を皿にして探したけれど、なかなか条件に合う仕事は見当たらない。しばらく画面を見ていた私は段々と嫌になってきて、持っていたスマホをポイっとベッドに放り投げた。
ゴロンと仰向けになると、見上げた白い天井が落ちてくるような嫌な錯覚に襲われた。冷蔵庫のヴィーンという音が異様に大きく聞こえる静寂が辛い。何もかもが嫌になる。
「あーあ。気分転換にでも行こ」
私はおずおずと起き上がりハンドバックを手にすると、簡単に化粧をした。家を出て向かったのは10分ちょっと歩いたところにある最寄りの駅だ。
「どこ行こうかな……」
駅の路線図を見ながらどこに行こうかと考える。
いつもなら会社のある隣の駅が大きいからそこに行くけれど、今は知り合いに会いたくない。どこか遠いところに行きたかった。誰も私を知らないところに。でも、お金の事もあるからそんなに遠出は出来ない。
しばらく鉄道案内を見ていた私は、気分転換なのだから、たまには少し離れた都心のお洒落な街にでも行ってみようと思った。ちょうど目に入ったのが広域路線図に書かれた東京メトロ日比谷線の『広尾』の文字だった。
広尾と言うのは、言わずと知れた日本有数の高級住宅街だ。東京都渋谷区にあり、山手線で言うと西側の端、渋谷から南東内側に少し入ったところに位置している。
不動産窓口をしていたのでそれは知っていた。けれど、行ったことはないのでどんな場所なのかは全く知らない。
きっとお金持ちのセレブが集まる、とびきりお洒落な街に違いないと思った。こんな気分の日は、お洒落な街に行ったら気分も上向くかもしれない。
私は行き先を広尾にきめると、電車に飛び乗った。