だから私は、また君に縋り付く
生まれたばかりの私を、君が手を引いて立たせてくれたんだ。
1
高低様々な山に囲まれた田舎町。土地の大部分が田畑となっていて、視界を遮る程の大きな建物も無い。そんな環境だからだろうか、町の子供達の多くは近代的な電子ゲームよりも、自然と戯れることを好んだ。服を泥で汚しては母親に怒られながらも、走り回り、田に踏み入り、山を登り、虫と遊び、星を眺める。
小学二年生になったばかりの少年明も例に漏れず、学校帰りに近所の低い山に遊びに行くことが多々あった。特に目的も無く登っては、木登りしたり、昆虫を採ったり、花を愛でたりと、その日の気分によって色々なことをした。
ある日、明はふと冒険がしたくなった。今まで行ったことがないくらい深くまで、山を登りたくなった。こんな時、明は気分に従う。今までもそうだったからだ。
申し訳程度に舗装された道を辿って、どれだけ歩いただろうか。気付けば明は道の終点、小さな祠の前に立っていた。
祠の扉は閉じており、勝手に開かないようにだろうか、古びたお札が中心に貼られている。
「開けちゃだめってことかな……?」
呟きながらも、しかし心は既に開けてみたいと叫んでいた。ただ同時に、開けるとよからぬことが起きるのではないかという漠然とした不安もあった。
「…………よし」
数十秒に渡る些細な葛藤の末、明はお札を引き剥がし、両開きの扉を勢いよく開け放った。途端、大量の埃が舞い、視界が数瞬の間遮られる。
「ゲホッ、ケホッ」
何度か咳き込んだところでようやく埃の嵐が収まる。そして、祠の中を見ることができた。
中にいたのは、着物姿の少女だった。
2
瞼の内側から、光を見た。
次いで、鼓膜を震わせる声を聞いた。
そして、肩を揺さぶる人の手を感じた。
瞼を持ち上げると、少年がいた。
「騒がないでも、大丈夫だから」
未だに少女の耳元で喚く明に、鬱陶しそうに少女は言い放つ。まるでただ寝ていただけだとでも言わんばかりの寝惚けたような眼で明を睨みながら。
「あ、ごめん……その……立てる?」
睨まれ竦みながらも、手を差し伸べる明。ありがとうと、その手を握る少女。祠から引き起こされた少女は、明よりほんの少し背が高かった。
「君は……ここで何をしていたの?」
心配と好奇心が混ぜ合わさったような声で、明が尋ねた。
「わからない。……たぶん、寝ていたんだと思う。ずっとずっと長いこと」
対して少女は平坦な口調で言葉を返す。何かを考えるような表情を浮かべながら。
「この中で寝てたのに、なんでその服は綺麗なの?」
「わからない」
「君の名前は?」
「わからない」
「家族は?」
「わからない」
少女が本気で言っているらしいということは、明にもわかった。問答を繰り返すたびに、少女の表情が何かを不審がるような方向へと変わっていったからだろう。
「家はどこ?」
しかし、これだけは確認しなきゃいけないと、明は再度尋ねる。帰る場所が無い場合、大人の助けが必要だと考えて。
「たぶん、ここ」
対する少女の回答は、衝撃的なものだった。
「ここって……祠!?」
「たぶんね」
「たぶん……?」
いまいち判然としない少女の言葉に疑問を持ちながらも、明は既に、少女が自分とは何か決定的に違う存在だと、そう感じていた。
「……君ばかり質問をするのは公平じゃないから、私も質問をするよ」
唐突に少女がそう宣言する。
「う、うん。僕に答えられるなら」
「じゃあ、君の名前は?」
「明。上月明」
「君はなんでここに来たの?」
「な、なんとなく?」
そんな気分だったからだと素直に答える。
「そう。……じゃあ、また、そんな気分になった時でいいから、ここに来て欲しいな」
それが何に起因する頼み事だったのかは、明にも、少女本人にも分からなかったが、少女はそう頼んでいた。
「あ、うん! 明日も来るよ!」
そして明は快く約束をする。
少女が初めて笑った。
3
明は不思議な少女の話を誰かに話すことはなかった。何故秘密にしたがるのかは本人にも分からなかったが。
そして数ヶ月間、明はほとんど毎日山を登り、少女と会った。マメな性格とは程遠かった明にとって、数ヶ月という長期間続いた日課など、過去に無かったにも関わらず。
「やあ、来たよ」
「いらっしゃい明くん」
そして今日もまた、明は少女の元を訪れていた。いつも通り、明が学校で起きたことなどを語り、少女がそれを聞くだけの時間が過ぎて、日が沈みかける頃にさよならをする。
「またね」
「うん、また」
明としてはこの少女との会話が、毎日の変わらない楽しみとなっていた。
しかし、対する少女は少し複雑な想いを抱いていた。
「明くん、もう私と同じ身長だ……」
明を見送るために立ち上がった姿勢のまま、ポツリと溢す。
自分のことはよくわからないけれど、これはわかる。……私の身体は、成長しないんだ。
少女は、自分がただの人間でないことには気付いていた。まず、目覚めてからの数ヶ月間、一切食事というものをしていないのだ。明の学校の給食の話を聞いても、食欲すら湧かない。加えて、少女の身体は祠から一定距離以上離れられないらしい。十数歩進んだところで、どうしても足が前に動かなくなるのだ。
これでどうして、自分を普通の人間だと思えようかと、嘆息しながら空を仰ぎ見る。夕暮れ時の、紅く染まった空が妙に眩しかった。
4
少女の感情とは無関係に、時間は留まることなく流れ続ける。
それでも変わらず少女を尋ねる明と、変わる明を見つめる少女。どうしようもなく歪な関係が構築されていた。
「君はさ、どうしてまだ、ここに来てくれるの?」
祠に腰掛けながら、少女は隣に座る明に尋ねる。
「なんとなく、かな」
声変わりを経て、幾許か声が低くなっても、明の紡いだ言葉は変わっていなかった。
その言葉に、少女は少しだけ顔を綻ばせ、そう、と嬉しそうに返した。変わる世界の中、変わらないものを愛おしむような、そんな表情で。
そこでふと、胸の内から願望が溢れ出す。
「ねえ……君はさ、私のことを、どう思ってる?」
求めたのは鎖。今以上の不変の繋がり。
「どうって……?」
「私は、明くんのこと、好きだよ」
自分が最低なことをしている自覚はあった。ただ、想像以上に逸る自分の鼓動を聞いて、どうやらその台詞は本心だったらしいと、少しだけ心が軽くなる。
「俺も、君のこと好きだよ。……ずっと昔から」
ただ、明はそんな少女の打算を知ってかしらずか、純粋な本心のみで好意を返した。顔が赤いのも熱いのも、夕日のせいではないのだろう。
音も無く少女の手が明の手に重ねられた。それだけで、二人の体温は一層高まった。
5
高校の図書室で、明は一冊の本を読んでいた。田舎の高校らしい、小規模な図書室ではあったが、逆にだからこそ置かれているであろう本——町に伝わる伝承についての本だった。
「緋金の御魂……」
そして、求めていたものらしき記述を見つけた。内容を要約すると、緋金の御魂は自然崇拝に纏わる信仰概念が人を形取ったもの。この町でも目撃されたという話は昔から伝わっている……というようなものになる。
「情報少なすぎるだろ……」
これなら明の方がまだ多くの情報を持っていると言える程だろう。だがそれでも、得られた情報の価値としては、小さなものではなかった。
まず、少女の正体が——恐らく、という但し書きは付くものの——わかった。緋金の御魂、そのものだろう。
次いで、少女の身体が成長しない理由。これも恐らくではあるが、緋金の御魂というものが概念的存在であるという点に関わっているのだろう。概念は成長しない。
「でも、それだけか……」
落胆を隠すこともなく、大きく溜息を吐く。期待外れだったのだ。
結局その日、明は日が傾き始めるまで図書室で粘ったが、めぼしい成果は挙げられなかった。ちなみに、少女には来るのが遅いと涙目で叱られることになるのだが、図書室を出る頃の明にはその事を知る術は無いのだった。
6
緋金という名を貰った少女にとって、祠の周りだけが世界の全てであり、明は世界そのものだった。明がいる時は明のことしか見えず、明のいない時は明のことしか想わない。そんな状態。
これが依存というものなのだろうと、緋金は自己分析をするも、特に改めようとは思っていなかった。改める必要があるとすら思っていない。結果、重すぎると本人が自覚している以上に偏った、歪な愛が明に注がれる。
しかし、明もまた緋金のことを溺愛していた。それこそ文字通り、愛に溺れる程に。
学校では他の女子生徒はおろか、男子生徒も含めて他人に興味を持たず、友達付き合いまでもを蔑ろにしながらも、授業が終わるとすぐさま山の祠へと向かう。それは休みの日であろうと変わらず、体調不良で家から出られなかった時等を除いたほとんど毎日、明は緋金の元を訪ねていた。
そんな、緋金にとってはこれ以上無いと思える程の歪な関係による繋がりは、唐突に破綻する。それは緋金にとってもずっと昔から予期できていたことであり、何より明本人が決断したこと。
「なあ、緋金……俺、町を離れたいんだ」
「……はぇ?」
「この町を出て、都会の大学に行きたい」
「……それは、私を置いて行くってこと?」
明ももう高校三年生。町に大学が無いため、大学に行こうと思えば町を出ることは必至だった。だがそれでも、大学よりも私を選んで欲しいという緋金の切なる願いは、本心からのものだったのだ。
「ごめん」
明がずっと大学のことで悩んでいたことはわかる。わかるが、理解できることと納得できることは違うのだ。それなのに、この目も合わせようとしない明の態度はなんだ。私の願いはいったい何処に捨てられた!
「ねぇ、待ってよ! どうしても大学には行かなくちゃいけないの!? 一緒に居ることは、できないの!?」
明の腰に縋り付き、俯いた顔を下から覗く。見えた表情は、今にも泣き出しそうだった。
「できないんだよ……居られないんだ! 俺は……緋金はっ! …………違うんだよ。どうしようもなく、違うんだ……」
『違う』という、ただそれだけの言葉が、緋金に深く突き刺さる。それは、緋金がかねてから常々意識していたこと。自分は人間じゃなくて、明が人間であること。愛し合おうと、共に居られる存在ではないということ。
「そう……だよね。無理、なんだよね。……生まれたばかりの私を、君が手を引いて立たせてくれたんだ」
特に何を考えるでもなしに、緋金は訥々と語り出す。とめどなく流れる川のように、心の内が飛び出して行く。
「たぶん、もうあの時から、私は君に惹かれてた気がする。また来てって言ったら、うんって言ってくれたこと、嬉しかった。次の日、本当に来てくれた時も、すごく嬉しかった。学校での色んな話を聞かせてくれたのは楽しかったし、二人で宿題をやったのもいい思い出。私が解いたところが間違ってたのも、笑って許してくれてホッとした。学校で喧嘩したって泣きながら来た時は吃驚したし、家出したって言ってここに泊まろうとして来た時は説得するのが大変だった。君が大きくなってからは、私を楽しませようと色々工夫してくれてたよね。ちゃんと気付いてたよ。私が告白した時も、二つ返事で好きって返してくれた。嬉しすぎて飛び上がりそうだったんだよ? それから、私のことを教えてくれた。私に名前をくれた。……ありがとうって言いたいこと、多すぎるよ」
明の胸元で嗚咽を漏らしながら、緋金は泣いた。それは、明の意思を変えるための最後の悪足掻きなんかではない。ただただ、気持ちを伝えたいという、それだけのことだった。
しかし明は、そんな緋金を抱き締め返さない。両腕は宙に浮かせたまま、目に涙を湛えて、それだけだった。
「俺が緋金を好きなことは絶対に変わらないから。……四年だけ、待っててくれ」
結局明はそれだけを言うと、少しばかり強引に緋金の腕を振りほどき、町の方へと駆け出した。
残された緋金の泣き声が、静かな山に響く。
7
起きる。君を想う。君がいないことを思い出す。また君を想う。君が今日も来ないことを知る。寝る。夢で君を想う。起きる。君を想う。君がいないことを思い出す。また君を想う。君が今日も来ないことを知る。寝る。夢で君を想う……
「私ってなんなんだろう? 緋金の御魂って何? ……わからないよ。何もわからない。私何も知らない。教えてよ……助けてよ、明くん……」
ああ、磨り減って、消えてしまいそうだ。君がいなくなって初めてわかった。君がいないと、私はこんなにも脆いんだ。私脆いんだよ、明くん……
どれくらいの時間が経っただろう。あとどれくらい待てば良いのだろう。
「起きてても、辛いだけだ……」
緋金は祠の扉を閉めた。
8
瞼の内側から、光を見た。
次いで、鼓膜を震わせる声を聞いた。
そして、肩を揺さぶる人の手を感じた。
瞼を持ち上げると、彼がいた。
「起きて、緋金」
優しい声。大好きな声。愛する人の声。
「明……くん?」
「うん。ただいま緋金。こんなに待たせちゃって、ごめん」
四年経っても、見間違えることなどありえない顔があった。明の顔だ。
咄嗟に言葉が出なくなり、口より先に手足が動く。四年前のあの日と同じく、緋金は明の腰元に抱き付いた。
「おか、えりっ!」
振り絞った声は、少し掠れてしまっていた。それでも、明に伝えるには十分だ。
「ただいま。寂しい思いをさせて、ごめんね」
明も緋金を抱き締めた。強く。緋金の幼い身体が、少しばかりの痛みを訴える程強く。
「寂しかった! 本当に! 死んじゃうくらい寂しかった! もう、絶対放さないから! 死ぬまで一緒に居てもらうんだからぁっ!」
泣きながらも大声で叫ぶ緋金。喉が張り裂けんばかりのその宣言に、明は微笑んだ。
「うん。死ぬまで一緒に居よう」
「ふぇ?」
緋金が顔を上げると、涙でぶれた視界に少し照れたように笑う明の顔が映る。
「渡したいものがあるから少し、ほんの少しだけ距離を置いてくれないか?」
「嫌だ」
途端、緋金の抱き締める力が少し強まった。
「そうか……じゃあ、このまま伝えるよ」
仕方ないなと一つ小さく溜息を吐き、次いで深呼吸をする明。たっぷり数秒空けて、口を開く。
「緋金、俺と結婚してくれないか?」
それは紛れもなく、一世一代のプロポーズだった。
「え?」
しかし、唐突すぎるプロポーズに、緋金の思考は停止する。
永遠のような一瞬を経て、緋金の思考が真っ先に算出したのは否定だった。即ち、無理。結婚することがではなく、まともな結婚生活を送ること——共に生活を送ることが、物理的に不可能だからだ。祠から離れられない私に、結婚など土台無理な話……
「無理じゃないよ」
そんな緋金の思考を明は再度停止させる。
明は自身のポケットから小さな箱を出すと、緋金の視界に入るように持ち、そのまま片手で蓋を開いた。
「これ……」
箱の中身は、大きな宝石が嵌め込まれた、小さな指環だった。丁度緋金の薬指に嵌まる程度の。
「風土史とか地方信仰について、大学で研究してさ……やっと方法が見つかったんだよ。四年も待たせてごめんな」
明は、緋金の腕が少し緩まったのを感じて、少し離れ指環を緋金の正面へと持ってくる。
「ゆ、指環があっても、結婚はできないよ……私、ここから離れられないもの」
対して緋金は戸惑いしか返せない。指環一つで変わるのは、隠し切れないほど高まった自分の感情くらいだと考えているから。
「離れられるんだよ。……緋金の御魂は信仰心そのものって話は昔したよな。その信仰心っていうのも、自然崇拝ならなんでもいいってわけじゃなかったんだ」
心底嬉しそうに語り出す明。そう、明にはすでに、緋金をこの場所から連れ出せるという確信があった。
「緋金の御魂は文字通り、緋緋色金に対する信仰心。そして、この町での緋緋色金は、琥珀だったんだ。……琥珀を奉った残骸であるこの祠よりも、琥珀そのものの方が信仰心が縛られやすいだろ? だからこの指環を、受け取って欲しい。……いや、そんなややこしいことは抜きにして、俺と結婚してくれ!」
そう叫んで、改めて頭を下げながら指環を突き出す明。
「子供とか、作れないよ?」
「緋金がいれば、それでいい」
「一緒に成長、できないよ?」
「老いた俺でも、愛して欲しい」
「…………」
「結婚してくれ、緋金!」
断られたらどうしようという不安を押し退けて、永遠にも等しい時間、気丈に返事を待つ。
「……はい、よろこんで」
明の手を握って、泣きながら笑って、緋金は応えた。そして、心底嬉しそうに顔を上げた明の唇に、飛び付くように唇を重ねる。
その日緋金は横抱きの姿勢のまま、生まれて初めて山を降りた。
9
「ありがとうな……」
「どうしたの? 急に」
「いや、ただ伝えたくなってな」
車椅子に座る老人と、幼い少女。その組み合わせは、見た人に老人とその孫の関係を思わせるようなものであったが、そうでないことは彼ら自身が知っていた。
「すまない」
「謝らないで。言ったでしょう? 君だけが変わって行っても、私だけは変わらない。私は、老いた明くんも、ずっと大好きだから」
車椅子の背後から、少女が老人へと腕を回す。身体を労わるように優しく、心を伝えるように強く。
「私は、幸せだったよ。出逢えて、結婚できて、一緒に暮らせて、本当に幸せだったよ」
老人を抱きながら、少女は少しばかり濡れた声で語る。これだけは伝えておきたいと、そう願うように。
「ああ……私も——俺も、幸せだった!」
そして、老人は吼えた。声を出すことも険しい身体で、それでもなお少女に応えるために、吼えた。
それから数分後、老人は少女に抱き付かれたまま眠っていた。それは、いつもより少しだけ長い睡眠。
「……愛していますよ、明」
少女の涙が、老人の服に吸い込まれた。