[旅] -2-1- (★)*
拙作を気に入ってくださっている素敵な絵描き作家様『yamayuri』様より、素晴らしいイラストを頂きましたので、こちらにてご紹介させていただきます♡
yamayuri様、誠に有難うございました!! お陰様で拙作もまた一段と大切な物になりました♪ これからもどうぞサファラグと不肖な作者を宜しくお願い致します*
2013年10月28日 朧 月夜 拝
翌朝。
「プシケ、お願い!」
朝食後、既に十五分は経っただろうか。ルーラのプシケを叱る声が、徐々に大きくなってきていた。
「これ以上は無理なのよぉ。お願いだから大人しく帰ってちょうだい」
これでルーラの溜息は何度目になるだろう。が、プシケも負けてはいない。前日僕達の周りを回ったように何周も回り続け、置いてけぼりを食うのを嫌がった。
結界のこんな外れの方でも、人魚が灯した燈が点々と置かれ、それは地上の夜明けの頃から明るくなり出した。それでもこの辺りは水深が浅いようで、結界の向こうの海からも陽の光を感じられる。
「僕がプシケの気を逸らしたら、どれくらいで結界に穴を作れる?」
「え……? あ、二十秒くらいかな……」
僕はズボンのポケットに眠るコインを二つ三つ手に取って、ルーラにそう質問した。
偶然にも僕は左利きなのでこのままで可能だが、海中でどれくらいコインを飛ばせるだろう。第一プシケがそれに興味を示してくれなければ意味がない。
「行くよ、ルーラ……プシケ! これあげるっ、取ってきて!」
ルーラに目配せしてプシケを呼び寄せると、目の前でちらつかせたコインは運良くキラキラと輝いて、プシケを釘付けにした。その間にもルーラは右手を僕には見えない結界に当て、何やら呪文を唱え出した。大きく弧を描いてプシケの背後目掛けコインを投げる。それを目で追うプシケはそのままのけぞり宙返りをして、その勢いで発生した水流が、ちょうど開き始めた結界の穴に僕達を吹き飛ばした。
それは物凄い波だった──そう、ほとんど二十四時間繋ぎ続けていた手もほどけてしまうほどに……。
「すごーい、アメル! ……え? あっ、あれ……?」
遠くでルーラの感嘆の声が聞こえた。うっすらとぼやけていく視界には、おそらくは結界の中で右往左往するプシケ、手には残りのコイン。でもこれは左手だ……。
「アメル! えっと、あー酸素、酸素っ」
ほぼ気絶寸前に、慌てふためくルーラの顔が近くで見えた。と同時に背中が温かくなる。きっとルーラが僕を抱き上げたんだろう──これで大丈夫だ……これで……。
でも次に触れた温かさは、生まれてこの方味わったことのない感覚だった。遠のいていく意識が無理矢理引き戻される。口の中にルーラの甘い香りが広がり、そして唇は──まるで禁断の果実を口にしてしまったかのような、芳醇な潤いを感じていた。
「アメル!」
一呼吸分の息を吹き込んだルーラの唇が離れた刹那、僕はパッと眼を見開いて半身を起こし、次の酸素を送り込もうとする彼女を制してギュッと抱き締めた。
──ダメだよ……これ以上触れてしまったら、僕は君を忘れられなくなる──。
けれど彼女の努力は無駄ではなかったみたいだ。僕はお陰で飲んでしまった海水を吐き出し、しばらく抱き留めたまま呼吸を整えていると、ルーラは僕の背中をさすってくれた。
「ごめん……こんなことまでさせて──もう、大丈夫だから、ありがとう」
そう言いながらも、すぐには彼女を自由に出来ない自分がいた。
分かっている──これは口づけなどではない、僕を救うための術であったことは。それでもやり切れない気持ちが僕を取り巻いていた。彼女のその柔らかな唇は、飽くまでも言葉を発するため、唄を歌うため、食事を取るため、こうして酸素を送るための道具でしかなくて、恋をするためには存在しないのだ。
「ごめん……ルーラ。ごめん……」
僕が感じているこの想いを、どう伝えたらいい?
「アメル……どうしたの? 怖かったの?」
きつく抱き締められたルーラが、少し苦しそうに問いかけたので、僕は腕を解かずにはいられず、ううんと薄く笑んで首を横に振った。
改めて彼女の左手と僕の右手を繋ぎ直す。身体の何処か一部分さえルーラに触れていれば呼吸は出来るようだが、既に一日が経って、これが一番しっくりと落ち着いた。
でも僕はそれきりしばらくルーラと目を合わせることはなかった。結界の膜の向こうで依然回転を続けるプシケをなだめ、お別れを言う。二人きりではもう自力で進むしかないのだが、僕は空気に包まれているため、ルーラが主導してくれれば海中を泳ぐように浮遊出来たし、僕がリードしようと思えば、海底を歩いて前進することが出来た。初めの内は調子が合わせられず、ルーラの後を追いかけるように手を引かれ浮かんでいたが、やがて感じが掴めたのだろう、今まで通りに会話をしたいルーラは隣に並んで泳ぎ出した。けれど当の僕自身は、幾ら声を掛けられてもひたすら前を向いて、会話を合わせることしか出来なかった。
あんなことの後で気恥ずかしいというのもあったが、本音は口惜しい、というか、哀しくて仕方がなかったのだ。異性を愛することを、異性の存在しない人魚にどう説明すればいいというのか。いや、そんな必要すらないのか、と思い始めたら、哀しみは尚更増していった。
「ちょっと海上に上がってもいい?」
突然の申し出に少し驚いた僕は、抵抗を感じながらも視線をルーラへと向けた。彼女は僕と同じように真っ直ぐ前方を見据えていたが、その横顔は随分と訝し気であった。
返事を待たずに僕の手を引き水面を目指したルーラは、波打つ空と海の狭間へ顔を出して「やっぱり」と声を上げた。
「西から嵐が来るわ。結構荒れるかも……波がうねるから出来るだけ深く潜りましょう」
「どうして分かったの?」
船に乗った人間は波と空で天気を判断する。そのどちらも体感出来ない海の底で、何故ルーラは嵐に気付けたのか。
「匂いで分かるの」
それは人魚全てが持つ能力ではないらしい。自慢そうにその可愛い鼻を擦ったルーラは、僕にウィンクしてみせた。
未だ正午にもならないのに西の空は暗く淀んでいて、それは微かだがこちらに向かっているようだった。目的地の方角から嵐が来るのだから避けようもない。これからの旅は辛くなりそうだ。
その後僕達は再び海中へ戻り、海が静かな内にと歩みを速めた。しばらく進んだ所で小島らしき断崖に当たったので、緩やかな岸辺を見つけて上陸する。背の高いナツメヤシや鈴なりのビワの木を見つけた僕は、マルタ達の食事を勧めるルーラを制して器用に椰子を登った。すぐさま下から彼女の驚く声が聞こえてきた。
「そんな所まで登れるなんて! 人間は皆出来ることなの?」
波打ち際で鱗を浸すように座ったルーラは、羨望の眼差しで僕の採ってきたデーツ(ナツメヤシの実)やビワの実を手に取り、今度はそれを興味津々に見つめ始めた。
「全員じゃないよ……これはこうやって食べるんだ」
ビワの皮を剥いて渡し直しても、どうして食べるのか分からないでいるルーラに、見本がてらかぶりついてみせる。刹那僕が昨日見せた仕草そのままが返ってきて、思わず二人で吹き出した。
「種は出してね。こっちは未だ時期じゃないから、熟しているのだけだよ。未熟は渋いから……」
既に三つ目のビワをほおばり出したルーラに、僕はナイフで落としたデーツの房から熟した物だけを選んで、食べ易く切れ目を入れて渡した。それを口にした彼女の大きな瞳は、これ以上は有り得ないというほどに見開かれた。
「美味しーい! あ……ごめん、あたしばっかり」
デーツの新鮮な甘さに、ルーラは最高の笑顔を見せた。
「大丈夫だよ、まだあるから。地上の果物が口に合って良かった」
僕はいつの間にか、いつも通りの僕に戻っていた。
初めて見る物・触る物に子供のような好奇心で反応するルーラに癒され、また、此処までの彼女への蟠りは、僕ばかりが迷惑を掛けているという不甲斐なさや後ろめたさもあったのだろう。
彼女といると本当に楽しい。心からそう思えた。