[恋] -1-
あれから二週間が過ぎ去った。船はエジプトを経て、再び結界の海の上を走っていた。
「おーいっ! ぼうず」
何もなかったように船員達の声も聞こえる。
二週間──僕はからくり人形のように甲板磨きをし続けた。
頭の中では、あの日のことが繰り返されて……。
大ばば様が死んだ。
僕は泣き叫ぶルーラを抱きすくめることしか出来なかった。
童話のように、老婆は虹色の泡になってしまった。
残ったのは薄い白色の鱗。
カランと音を立てて、全てが消えた。
ルーラは泣きながらも僕らの船を助けてくれた。
そして──それだけ。
「さようなら……アメル」
そう言ったのだと思う。
それ以来ルーラは来ない。
「あーあっ」
僕はぼやきのような声を吐き出して伸びをした。
全てがふりだしに戻ってしまった。多分、もうルーラとは会えないだろう。大ばば様を殺したのは僕だ。去り際の彼女の瞳がそう語っていた。
この二週間ずっと薄曇りの天候が続いていた。時々雨も……きっとルーラ達の涙だ。けれど今日は清々しい快晴で、それがやけに口惜しかった。
「こんなもの……!」
僕はズボンの前ポケットから、ちょうど親指程度の白いカード状の物を取り出し、握り潰そうとした。
大ばば様の鱗。
もちろん盗もうと思って持ってきた訳ではなかった。確かに売る気になれば、とてつもない値段でも売れそうな代物だ。大ばば様は泡となって消えてしまった。まるで老婆の最後の光を吸い取るようにして残った鱗。それは以前よりも輝きを増して……。
このたった一枚の鱗がポケットに入っていたことに気付いたのは、帰る間際のことだった。大体の見当はついていたりもする。大ばば様は死ぬことを勘付いていたから、最後に何かを頼みたかったのだろう。それで分からないように鱗を抜き、僕に託したに違いない。
ルーラを手助けしてほしいとか……あるいは……?
「でも、もうルーラは来ないんだ」
──さよなら、僕の人魚姫──。
僕は涙を無造作に擦って、小さな鱗を海へ放り投げようとした。
「誰が、もう来ないの?」
「え?」
寸でのところで手を止める。
女の子の澄んだ声が耳に入り込んできた。
──ルーラ?
「ルーラ……なの? ルーラ!」
硬直したままの視線を何とか右へ移した。僕の目に映ったのは、弾けば奏でそうな金色の髪と、好奇心を膨らませた大きな瞳──。
「久し振りね……アメル」
「ルーラっ!!」
「きゃっ!」
思わず僕は彼女を抱き締めていた。甘い香りがして──多分、潮の香りでない、父さんの匂いでない、母さんの匂いのような気がした。
「ど、どうしたの? アメル。あの……もしかしたら怒ってるの? ずっと来なかったから……ごめんなさい。色々立て込んでて、本当、ごめんなさいね」
このまま時が止まってしまえば良かった。けれどルーラがあんまり「ごめんなさい」を繰り返すので、彼女の身を自由にして……僕はハッと我に返り、顔を赤らめそっぽを向いた。
「アメル……?」
どうやら彼女は僕の動揺している理由が分からないみたいだ。キョトンとした眼で僕を見つめて、または怒られるのではないかと心配しながら。
「いや……違うんだ。別に謝ることはないんだ。謝らなくてはならないのはこっちの方で……ごめん。僕があんな時に大ばば様に喋らせたから──」
しばらくの間、沈黙が続いた。どうして彼女は此処へ来たのだろう。あの時の瞳。違うものを語っていたのに。
「いいのよ、アメル。あれはアメルの所為じゃないわ。寿命だったんですもの。この二週間、色々考えたの。あの時は動転して良く分からなかった大ばば様の言葉や、シレーネの階級や、アメルのこと、自分のこと……姉様のこと。未だ分からないことが沢山あるけど、少し気持ちの整理が出来たの。だからこうやってアメルの所に戻ってくることが出来て……あの、前みたいに友達でいてくれる? アメル。あたし……」
しおらしいんだね、ルーラ。
僕はルーラの方に向き直り薄く笑んだ。二週間が過ぎ、僕の知っているルーラは少し大人になったようだ。心配そうに見つめる彼女に僕は、
「もちろんだよ」
と即答し、すぐさま「ありがとう」と素直な返事が返された。
その後の僕達は船員に見つからないように隠れながら、この二週間のことを話した。
いつの間にか大気は夏へ近付いている。
時々僕らを歓迎するようにトビウオが顔を見せ、頭の上では海鳥達が舞った。
ルーラが戻ってきてくれたことで、辺りが明るく見えるようになった。
父さんがいなくなってからの七年の間、こんなに楽しいと思ったことはなかっただろう。いつも独りぼっちだった。病気の母さんのために働きに出て、離ればなれになり、学校にも行けず、友達も出来ないまま。
だからこそ、シレーネを探し、シレーネに夢を見、シレーネに憧れ……。
もしも 空を飛べたなら
魚に憧れ
もしも 海に生きたなら
鳥に憧れる
人は二つの憧れを持って
ああ、シレーネ 悲しみ
人は 知らずに……
「ルーラ?」
以前歌ってくれたように、彼女は静かな流れの中に美しい音を奏でた。
けれど惹き込みながらも引き離すあの時とは違い、完全に僕を惹きつけていた。まるで僕を自分の物にしようとするような力。物凄い魅力が僕を縛りつける。
「この唄はね、シレーネの哀しみを歌った唄なの。人間には鳥になりたいとか、魚になりたいって思う人がいるのでしょ?」
「あ……ああ」
僕は麻痺した身体で何とか頷いてみせた。
「人間は知らないのね。人になりたいと願う生物だっているのだということを。シレーネは……シレーネだって……!」
「ルーラ……」
彼女は声を荒げた。僕は彼女が取り乱したお陰で魔法が解けたらしく、元に戻ると共にルーラに疑問を抱く。
シレーネは、シレーネでさえも、人になることを望むというのか。
邪悪な二つの心を持つ人間に。
僕は何度となくそんな人間を見てきた。醜い汚い人間の世界を。
「人であり鳥であった昔のシレーネ達や、人であり魚であるあたし達は、いつも人を羨んできたわ。半身が人である以上、人になりたいと思うのが性というものよ。あたしはいつも考えていた。……ね、大ばば様の言葉を覚えてる? 『ルーラにシレーネを任せたのは間違いだったかもしれない』っていうの。あたし、本当はシレーネなんかになりたくなかったのよ。ただ外の世界が見たくて……だから外界へ行き来出来る自由を条件に、シレーネの継承を承諾したの。シレーネになりたくない者がなったって、世の中良くなる訳ないのに!」
僕はその時初めて、ルーラのことが少し解ったような気がした。
時々曇ってしまう表情は、きっとこの所為。名を告げることをためらったのも、「シレーネ様」と呼ばれることを嫌ったのも、自己を優先して人魚の長となることに引け目があったからなんだ。
でも……僕は彼女に何も言ってはあげられなかった。彼女をなだめられる名案も持っていなかったし、多分、今の彼女には何を言っても正解でない気持ちがした。
その代わりふと脳裏に浮かんだ物は──
「ねぇ、ルーラ。『人魚姫』っていう物語、知ってる?」
「え? ううん」
今まで激しさの中にいたルーラの瞳が、好奇心の色を映し出した。
「ある人間が作った哀しい物語なんだ。昔、人魚姫と呼ばれる人魚が嵐の日に人を助け、恋に落ちてしまう。人魚姫は魔法使いにお願いして、声と引き換えに人間にしてもらうんだけど、自分を助けたのは別の女性だと勘違いされてしまい、人魚姫は泡になって消えてしまうんだ。……ルーラ、人になりたいと思っても、思うだけで留めておくべきだよ。人魚には人魚らしい生活がある筈だ。シレーネである以上これは……ルーラ?」
自分でも心にないおかしなことを言っているな、と思いながら僕は話を続けていた。心にない。当たり前だ。僕の言う通りなら、今此処にルーラがいることさえもいけないことになる。
「ルーラ? どうしたの?」
ルーラは今まで見なかった不思議な表情をした。顔はそのまま海を向いているのに、目線は上に向かっていて妙な雰囲気がある。
「ねぇ、アメル。お話は何となく分かったのだけど、その中の『こいにおちる』って……何?」
「……え……?」
彼女は本当に申し訳なさそうな顔で、僕の顔を覗き込んだ。
そして、僕は──。
信じられないといった表情をしていたに違いない。
「い、今なんて言った……?」
「だから『こいにおち……」
「ああぁっっ!!」
僕はいつになく大声を上げて、彼女の言葉を遮った。何てこった。恋を知らないなんて。信じられることじゃなかった。人魚であろうが何であろうが、恋をするから生きているのに。種族が続いていく筈なのに。……いや、待てよ? そう言えば──
「ルーラ、ちょっと訊きたいのだけど……もしかして人魚には女性しかいないの?」
僕は驚愕を落ち着かせて問いかけた。あの祭りの際、海上で見た人魚達は全員女性だったと思う。となれば、ルーラの言っていることも分からないではない。
「女性って、あたし達みたいな形態の者のことでしょ? それは大ばば様に教えてもらったことがあるわ。アメル達みたいな人達を男性ということも。……うーん、そうね。この船に乗っている人のような人魚はいないわね。でもヘラルドやトロールは、アメルよりもずっと力が強いわよ」
──女性しかいないとなれば、恋を知らないのも無理はないか……いや、こんなことを言っている僕だって、恋を知っているなんて言えないのかもしれない。
ぶつぶつと呟きながら一人海の方を向いてしまった僕に、
「ねぇ、アメルっ。それで『こいにおちる』って何なの?」
ルーラは僕の腕を揺さ振りながら、もう一度質問をした。
──『恋に落ちる』……僕だって知りたいよ。
「多分、相手を好きになるってことだよ」
ルーラに相対し優しく答える。
「あたし、姉様も大ばば様も、喧嘩ばかりしてるトロールも、ヘラルドもマルタも……悪戯好きのシャチのプシケも好きよ。もちろん、アメルも大好き!」
そう言って彼女は未だあどけない素顔を僕に向け、絶品の笑顔を見せた。
──もちろん、アメルも大好き!
それが僕に対してだけの言葉だったらいいのに。
突如心に浮かび上がってきた言葉に、僕は顔中真っ赤になって、再び慌ててそっぽを向いてしまった。僕はルーラに恋してしまったのだろうか? 海の守り神ネプチューンに準ずる統率者、シレーネに対して──?
「……と、そろそろ帰らなくっちゃ。また姉様に大目玉を喰らっちゃうわ。ねぇ、アメル。あたし一つ訊きたいことがあって来たのよ。『西の魔法使いアーラに会え』って大ばば様が言っていたでしょ? 大ばば様が亡くなった今、魔法を使える人魚がいなくなってしまったから、あたしもアーラ様にお会いして、魔法を教えてもらおうと思うの。ね……一緒に行かない?」
「僕も連れていってくれるの!? えっ、あ……」
勢い良く反応して振り返った先には、想像していたよりもずっと近くに艶やかな唇があった。僕は刹那絶句する。
心臓の高鳴りがうるさい……僕の病は相当重症のようだ。──そう、恋の病。
「アメルも“とうさん”って人を探したいのでしょ? ちょっとした魔法は大ばば様の石のお陰で使えるから、海の中でも一緒に行けるわよ」
“とうさん”って人ね……。
まるでハイキングにでも行くかのようにはしゃぎ出したルーラに、僕は苦笑いを返した。
でも……どうしたらいいかな……。
渋い顔をして考えあぐねてしまう。そんな僕にルーラが首を傾げたので、
「いや……仕事をどうしたらいいだろうと思って……」
と独り言のように呟いた。
僕は残念ながら一人前の船乗りではない。そして母さんの入院代と引き換えに、この船に身を売られたも同然の扱いだった。それでも家計は苦しく、僕達は泣く泣く父さんの建てた、小さいながらも温かい我が家を手放さずにはいられなかった。
そうした気苦労も母さんの病気の内なのだろう。病院で独り僕の帰りを待つ母さんの病状は一進一退で、悪くはならないこそすれ良くもならなかった。
数ヶ月に一度僅かばかりの賃金を持って、数日の休みを過ごす僕のベッドは、母さんの暮らす集団病棟の簡素で硬いベンチだ。満足とは言えない金額に恥ずかしさが手伝うのか、どうにかして繕った笑顔も、その奥に潜む苦しさが見え隠れし、母さんにはすぐに見透かされてしまう。でも僕の帰る場所はこの船しかないのが現状だった。
「辞めちゃいなさいよ」
「……え?」
驚いて見つめた彼女の表情は、決していい加減な気持ちで発した言葉ではないことを物語っていた。
「アメルは自信がないのよ。本当は力があるのに、意地悪な船員達に馬鹿にされて分からなくなってるだけ。この船じゃなくてもアメルを必要とする場所はきっと在るわ」
数回会っただけの僕に、どうしてルーラはそんな自信を持って話せるのだろう。
それでも不思議な説得力があった。どちらにせよ、このままこき使われていても相変わらず雀の涙で、母さんと共倒れになるのは目に見えていた。だったら少しでも母さんを元気づけられる、父さんのカケラを探した方がいいに決まっている。
「ありがとう、ルーラ」
僕は腹を決めて微笑んだ。ずっと追い求めてきた夢への道を、此処で見過ごす手はなかった。但しこんなに都合の良い“奴隷”を簡単に手放す気などある筈がない。ならば……
「ちょっとお願いがあるんだけど……」
僕は彼女の白く丸みのある、形の整った耳に口元を近付けて妙案を話した。初めはくすぐったそうに笑った彼女も、それを聴くや悪戯っぽい笑みで頷いて、必ず『約束』は果たすと誓って、碧い海へと消えていった──。