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Sapphire Lagoon [サファイア・ラグーン1作目]  作者: 朧 月夜
[MY TREASURE]
52/52

[本編 前投稿時 冒頭]三人称部分(計7話)

※本編冒頭の三人称だった部分を、こちらに残させていただきます<(_ _)>


【第一章:第一話】[位] -1- (★)*



 ~このお話は、ほんの少し昔の物語。


 そう……未だ飛行機もなく、


 帆船や蒸気船が活躍していた頃の時代です~




 ◇ ◇ ◇




 ──シレーネ。


 セイレーン、シレン、シレーヌ、サイレンなどとも呼ばれる。


 神話上では半人半鳥の姿をした、声の美しい魔女として表された。怪物スキュラとカリュブディスの近くに住み、歌で船人を魅きつけ海を渡ることを拒んだ怪鳥である。


 しかしオデュッセウスが船の帆柱に身体を縛りつけ難を逃れた為、シレーネ達は怒り、海に身を投げたと云う。



 全ては太古(いにしえ)なのだ……全ては……──。




 ◇ ◇ ◇




 地中海──沈黙の深海に横たわる閉ざされた小さな領域──結界。


 その一角でひときわ暗く静寂に包まれた海溝が、大きな魔の口を広げていた。

 覗き込めば只深々(しんしん)と、吸い込まれるようにマリンスノーが落ちていく。何も変わらない、何も変えようのない、ゆったりと漂う此処だけの時間が流れていた。


「ルーラ……ルーラ!」


 そして※光の月十四番目の今日も、いつもと変わらない筈だった。


「ルーラっ、何処にいるの、ルーラ!!」


 カミルはいつの間にかそんな外れに辿り着いていた。此処に落ちたら例え泳ぎの上手い彼女でさえ抜け出すことは出来ない。そう、『人魚』の彼女でさえも……。


「う……ん。うるさいなぁ……何よ、(ねえ)(さま)。せっかく気持ちの良くなってきたところを……」

「ル……ルーラ!?」


 突然現れた不機嫌そうな声の先へ振り返り、カミルは思わず泡を吹きそうになった。海溝の裂け目から顔を出したのは、探していた妹のルーラである。


「……ルッ」

「ちょっと待って。お説教はもうこりごり。……だってここ、昼寝をするのにちょうど良いんだもの。暗いし静かだし、必ず海草を手に巻きつけてるんだから、心配し過ぎよ、姉様」


 目を見開き口を歪ませたカミルを見て、ルーラは掌を向け制した。海流が風のように彼女達の髪を優しく撫でる。驚きと怒りと呆れた気持ちで頭の一杯になったカミルは、それでも今日という日を思えばそんなことはどうでも良いと、動揺を(いさ)めるように軽く首を振った。


「ルーラ、ちょっとこちらへ」


 薄く笑みを浮かべ手招きをする姉に、大きな欠伸を一つ、ようやくルーラはカミルの元まで寄った。いつになく不思議な雰囲気を漂わせる姉の端正な顔を見上げ、おもむろに唇を突き出した。


「なぁに……? あたし、海藻採りに行かされるのは嫌よぉ」


 そんなおどけたぼやきに、お互いプッと笑いが吹き出す。神経質で賢いカミル、呑気でおてんばなルーラ。正反対な性格とはいえ、二人の仲の良さを知らぬ者はいない。


「耳を貸して」

「??」


 ──何かあったのかしら? いつもならこのまま大目玉なのに……。


 (ささや)くような静かな声に、ルーラは(いぶか)しく首をかしげた。が、探る間もなく耳を引かれ、思わず大声を上げていた。


「姉様っ、痛いわよ。一体何だって……え? まさか……」


 姉の手を振り払い、しばし考えてみる。

 カミルはと言えば、先程の怒りなど忘れたようにニコニコと微笑んで、ルーラの両肩に手を置いた。


「どうやら大体の見当はついたようね。もう耳なんてどうでも良いわ。良く聞きなさい、ルーラ。今日は光の月の十四日。あなたの誕生日よ。それでウイスタ様がね……」

「ちょっと待って」


 ルーラは鋭い瞳を上げ、すぐさまカミルの台詞を遮った。


 海溝の周りはかなりの深海だが、遠くに人魚の並べた灯火(ともしび)が点る。それでもこの辺りは岩続きの()()か、一筋の光しか入ってこない。


 時折通り過ぎる魚達がざわめいた。溢れ出す無数の泡。そして……


「あたし、階級なんて欲しくないわ」

「どうしてっ……!?」

「嫌よ! 大ばば様の命令でも、こればっかりは聞けないわよっ!!」


 激しく舞い散りながら泡が踊った。

 水を切り裂くように尾びれを揺らし、頭上を(かす)めるルーラの後ろ姿を目で追って、カミルは軽く溜息をついた。


 ──あなたは、あの『階級』を継ぐべき人魚なのよ、ルーラ。いえ、シレーネ──。


 ウイスタ様にこの事をお知らせしなければならない。


 一度何かを決意するように、ギュッと拳を握り締める。長く細やかな、一本一本が揺らめく美しい銀色の髪を振り乱し、カミルは東の館へと向かった。


 ──ルーラ、十六歳のお誕生日おめでとう……。


 贈りそびれてしまった祝いの言葉を、深く広がる海溝際に残したまま──。



 ※光の月・・・人間界の四月




 ◇ ◇ ◇




挿絵(By みてみん)


「結界……」


 太陽の光と、空気の泡と、食糧の豊富な海面から深くにその結界は在った。その中でも此処は空に最も近い場所。


 ──結界に触れたら……どうなるのかしら。


 ルーラは境界に沿って身体をくねらせる。

 海よりも僅かに白い薄い膜──おそらく人間には識別も出来ないその結界は、人魚の鱗で造ったとも云われ、光に反射して白銀に輝き、彼女の顔を濡らした。


「……綺麗」


 ルーラは一度で良いから、結界の外を見てみたかった。

 通常人魚達に外へ出る機会は与えられない。それでもこうして結界内の一番上に昇れば、外界の様子を感じることは出来た。温かみのある陽の煌めき、結界の中にはいない鮮やかな魚達の群れ、知らない海草の美しい揺らぎ……。


 確かに階級を得れば、継承の儀式の際に唯一数時間を外界で過ごすことは出来る。が、それは階級を得た者に限らず、全ての人魚に与えられる権利だ。何もその為に階級を得る必要はない。『象徴』になってまで、()()()階級を得たくはない──ルーラはそう考えていた。


 『階級』──それを得るということは、この人魚界を統率する大いなる力を保持するということであった。風と海底の闇を司り、時に補佐である侍女の目を通して陸の様子も見るが、殆どは東の館──暗い洞窟のような大きな宮殿で過ごさねばならない。


 館の大ばば──ウイスタは、二百年前に階級を戴き、大魔法使いとなった。

 五十年その位に就き、その後は席を退いて百五十年、階級を持つ者のいない東の館を守っている。


「あたしはルーラだもの……大ばば様とは違うわ」


 退位以来誰にも階級を与えようとしなかったウイスタが、今年に限って継承者を決めるという噂はルーラも知っていた。

 けれど一体誰がその跡継ぎをルーラに、などと思うというのか?


 ──あたしはルーラよ。シレーネじゃない……。


 小さく尾びれを振り、哀しい瞳で暗黒の海の底を見下ろす。

 彼女にとって人魚の世界は窮屈に過ぎなかった。所詮闇の中の一つの灯火なのだ。いつかは消えてしまう。



 海よ、我が生命よ。

 我は、その流れに値する者か。

 判断を下すべき時が来た。

 地中海、海の神──ネプチューンよ。

 我に(みち)を与えたまえ──。




挿絵(By みてみん)




●仲良くさせていただいております五月七日ヤマネコ様が私のイラストに色を付けてくださいました♡

ヤマネコ様、誠に有難うございました!!


挿絵(By みてみん)







【第一章:第二話】[位] -2-*



挿絵(By みてみん)


 東の館──ウイスタの(へや)


「その様子では、どうやら振られたようじゃな……カミル」


 黒々とした広い空間に、しゃがれた声が響いた。

 彫刻を施した玄武岩の入口には、水中でも燃える蝋燭の炎が、紅く蒼い舌をチラチラとたなびかせている。


「申し訳ございません……説得する前に拒絶されてこのざまですわ。おてんばルーラのことですから、一筋縄で『象徴』になってくれるとは思いませんでしたが」


 門同様、滑らかな暗い線を描く玄武の床には、ウイスタに一礼をし、ゆっくりと顔を上げ、濁った笑みを作るカミルが居た。


「まぁ良い。まずはルーラをこの部屋に連れてくることじゃ。……なぁに、単純なあいつのことよ。一つ二つ有利な条件を出せば考えも変わるじゃろ。穏やかで平和なこの世界……しかし最近の活気の無さは誰もが気付いているところじゃ……これを変える唯一のことは──分かるな? カミル」


 大ばばがニヤリと皺だらけの頬を盛り上げるや、


「階級の代表者を掲げることですわ」


 カミルが即答した。

 カミル、二十三歳。二百年以上生きる人魚としてはまだまだ未熟ではあるが、ウイスタの片腕となり彼女を助けている。


「うむ。『シレーネ』の階級──お前も分かっておろう。百五十年階級を就けなかったのは、それに値する者が現れなかった故じゃ。それだけの美と秘められた力を持った者がな……」


 ウイスタは先刻まで深く座っていた玉座から立ち上がり、白いローブを花びらのように咲かせた。

 人魚の老婆達は、その褪せた身体を隠す為にローブを羽織る。ウイスタも同じく白いそれを(まと)い、そして今は小さな背中をカミルに向けて佇んでいた。


「ルーラにそのような強い力があるかは未だ分からぬ。が、……カミルよ、そなたをそんな妹の補佐にまでしかしてやれぬ(われ)を許しておくれ」


 少しだけ首を(かし)げるようにカミルの元へと視線を送ったウイスタの表情は、殆ど見て取れはしなかったが、妹よりも低い地位に就かねばならぬ姉の心情を想い、その声は遠慮がちに弱々しく終わった。


「いえ……そのようなことは少しも……それこそが私の使命ですから」


 カミルの顔に(かげ)が帯びる。が、最後の言葉は力強く、視線はウイスタの背中を一心に貫いていた。


「どうやら、ルーラを此処へ連れてくる必要もなさそうじゃ……今、到着したらしい」


 ウイスタの口調は再び(じょう)を失くした。


「そのようですね」


 カミルが室の入口へ振り向き、ウイスタは玉座に深く腰を掛けた。その刹那、重々しい大きな扉を開いて見慣れた姿が映った。


 ──ルーラ。


「ウイスタ様、お願いがあって参りました。どうかシレーネの階級を他の者へお与えください」


 現れた途端発せられた語気の強い訴えに、たちまち崩されてしまう希望。

 カミルの胸の内で、これからの不安と惑いが渦を巻いて流れていく。


「ルーラ──黄金の髪を持つ娘よ。我は他の者を就けるつもりはない。数年前よりお前を頂点に立たせるべきだと考えておったのだ。……シレーネの階級は十六の誕生日に授けられるものと決まっておるのだから、お前には本日中に選択してもらわねばならぬな? それに何か不服でもあるのかの?」


 睨むような眼差しのルーラに対し、ウイスタの口調はいつもと変わらず淡々としたものであった。

 のっけから調子を狂わされ、ルーラは呆気に取られて口を半開きにしてしまった。が、今一度気持ちの(たか)ぶりに火を点けようと、その唇に力を込めた。


「不服があるもないも、ウイスタ様はシレーネの生活に満足出来たのですか? こんな暗い部屋に日がな一日閉じ込められて……あたしは、そんなの嫌です!!」

「ルーラ! もうやめてっ!!」

「姉様……」


 頭を抱え、その場にしゃがみ込むカミルを目に入れて、ルーラは言葉を失くした。

 床に垂れる銀の雨。彼女は明らかに泣いていた──過細い肩が震えていた。


「もう……やめて、ルーラ……。あなたはシレーネの階級を全然分かっていない……。ウイスタ様のことも、この館のことも。自分自身を……見直しなさい」

「良いのだ……カミル」


 揺らぐ台詞も涙の理由も分からぬルーラは、いつになく取り乱す姉に戸惑いを隠せなかった。おどおどした様子でウイスタを見上げ、カミルを見下ろす動作を数回繰り返した。


「シレーネの生活……そなたが不服であれば見直そう。我は先代からの決め事を貫くつもりはない。つまり……シレーネを『象徴』になどする気はないということじゃ。他に気に入らぬことがあるのなら、今の内に申してみなさい」


 ウイスタの言葉にルーラはハッと振り返った。それに続いて泣き崩れていたカミルも、同じような視線を大ばばへ向けたことを、二人は気付いただろうか?


 少女の喉元が意を決するように波打つ。そして──。


「では……外界へ行き来する自由をお与えください」


 水の流れが止まった。


 硬直してウイスタを見詰めていたカミルの瞳が、ゆっくりと妹の横顔へ移る。二人のやり取りは衝撃以外の何物でもなかったが、ルーラの気持ちが少しずつ階級に傾いていることを、複雑な気持ちながら前向きに感じずにはおられなかった。


 そしてそう発言したルーラ自身も、心乱されずにはいられなかった。既にウイスタのペースに乗せられた自分が居る。が、海上への誘惑も止められない。


「外界への自由……ほぉ、それ位お安いご用じゃ」

「え……?」


 懇願した本人も驚くほど安易な返答であった。


「えっと、あの……」

「外界など好きなだけ行きなされ。人間に姿を見られても良いぞ。ただ捕まらぬようにな。その為に人間の近くでは唄を歌え。すれば捕まりはしない」

「唄?」


 自然と不審な表情を浮かべるルーラ。


「そうじゃ、我等シレーネの末裔。唄で人を魅了することが出来る。お前に階級を与えようとしているのは、お前が人魚の中で一番唄が上手いということもあるのじゃ。唄を歌えば人間に捕まるどころか、優しい心を与えることも出来る。……ルーラよ。この人魚の世界も少々寂れてきた。我の力ではどうにもならぬじゃろう。だが、お前なら……ルラの石も有ることじゃしな……」


 ──ルラの石?


 ウイスタのやや控えめな末尾を聞いて、ルーラは疑問を投げ掛けようと唇を開いた。──その時、


「ウイスタ様」


 咄嗟にカミルが感情のない声で口を挟んだ。


「どうした、カミル?」

「申し訳ございません……少し気分が優れませんので、下がらせてください」


 ウイスタの返事を待たずに、俯き長い銀髪で顔を隠したカミルは、甘い残り香を漂わせて、そそくさと室を出ていってしまった。


「姉様……? 大ばば様、姉様は一体……?」


 質問も忘れて心配を表したルーラに、ウイスタは含み笑いを向け、


「どうやら元のルーラに戻ったようじゃな」


 と玉座に頬杖を突いた。

 ルーラは普段ウイスタを“大ばば様”と呼ぶ。が、先程まで“ウイスタ様”と呼んでいたのは、緊張と怒りと、シレーネであったウイスタ自身への問い掛けであったからかも知れない。


「カミルのことは心配要らぬ。さて……時間もないことじゃし、そろそろ儀式の準備を始めても良いかの?」


 そう言って微笑んだウイスタの碧を帯びた黒い瞳が、嬉しそうに鈍く潤んだ。


「あ、いえ……大ばば様」


 制する言葉がふと口を突く。ウイスタの流れに乗せられてはいけない。そんな安易に決められる階級ではなかった。例え『象徴』として『人形』のように生きることにならずとも。


「今日これから海上へ行かせてはいただけませんか? せめてその後でお返事させてください。この願いを聞けないと言うなら、シレーネのことはお断りします」


 ルーラは真剣な面差しで大ばばをぐっと睨み、きっぱりと申し出た。


「……分かった」


 (かす)れた低い声だった。


「分かった。だが一時間だけじゃ。一時間だけ結界の門を開いてやろう。その間に帰ってこなければ、お前は二度とこの世界には戻れない……それで良いな?」

「はいっ!」


 元気良く答えたルーラは、先刻までの(かたく)なさなどすっかり消し去り、にっこりと笑って表へ飛び出していった。


太古(いにしえ)……」


 小さく呟いたウイスタの言葉が、室の中に反響した。


「ウイスタ……様?」


 玉座の後ろでじっと黙っていた侍女のマルタが、初めて声を上げる。


「シレーネは、ある意味で自由、ある意味で束縛された階級よ。その者次第で自由にも束縛にもなる。それを利用し、自身を解放することもあれば、逆に首を絞めることもある。……そして、この人魚の世界を発展させることもな」


 ウイスタは頬の白い肉塊をゆっくりと歪めた。


「全てはこれからじゃ……マルタよ、我は疲れた。今から一時間、結界を開くのはお前の方でやっておくれ」


 ウイスタは玉座からのそのそと立ち上がり口早に告げ、マルタを置いて寝室へと消えていった。


 太古から()()へと続く、暗く重い扉を開いて──。







【第二章:第一話】[人] -1- (※)



「おーいっ、ぼうず! タワシとバケツを持ってこいっ。早く行かないと、また船長にぶっ飛ばされるぞっ!!」


 その男は怒鳴りながらやって来て、ニヤニヤしながら僕を見下ろした。


「僕、“ぼうず”っていう名前じゃありませんから」


 力を込めて目を据える。

 潮と太陽の()()で黒く焼けた血色の良いその男は、顔を歪ませ突然僕の(むな)(ぐら)をぐいと掴み、せせら(わら)った。


「ぼうずじゃなかったら、何だって言うんだ? ……うむ、思いついたぞ。お前は“チビ”だ。ほれ、チビ、早く行け!」


 ごつい手を振り子のように動かし放り出して、そいつは豪快に笑いながら去っていった。

 振り払われた力が強かったのか、僕はフラフラとよろけてしまう。


「はいっっ!!」


 消えていった方角へ向けて、大声を上げ睨みつけた。けれどそんな物は小動物の悪あがきのような、貧弱な詰まらない物で、僕の為に塵すら動いてはくれない。悔しいことにあの男は船乗りなのだ。何も言い返すことが出来ない。


 碧が広がっていた。

 僕の走り出す背の中に、碧が広がっていた。


 ──海。


 水と空気が同時に存在するその空間は、僕の夢を映している。


 僕は今にも壊れそうな扉を開いて、倉庫のある船底へと向かった。

 タワシとバケツは甲板を磨く為の道具だ。もう五年もこき使われ、くたびれ掛かった用具の中で、まだマシそうなタワシを拾い上げた。


「僕は一体……」


 そこまで言って口を閉ざした。

 本当のことを言えば、()()は僕の喉から今にも飛び出してしまいそうな言葉だ。けれど例え周りに誰もいないとしても、声に出してはいけない。病気の母と死んだ父、それに僕自身の夢の為でもある。


 暗闇の中、光の元へ続く腐りかけた階段をゆっくりと登った。早く此処も直さないとその内崩れるだろう。時間を作らなければならない。


「……ん……」


 再び色褪せた扉を開いたが、先刻とは僅かに変化のある強い陽差しが僕の眼を突いた。

 しばし僕は真っ青になってしまった景色を眺めて、瞼を瞬かせた。

 暗い所から突然明るい場に出たことも理由の一つだけど、それよりも何よりも其処には……──。


 風が吹く。

 ゆったりとその人の髪もたなびき、こちらを振り返ったのは、


 そして──。

 それが『彼女』との出逢いだった──。




挿絵(By みてみん)







【第二章:第二話】[人] -2-



「こんにちは」


 彼女はそう言った。

 雨をしのぐ為に掛けておいた救命用ボートのシートで身をくるみ、僕の方を大きな丸い、好奇心を膨らませた瞳で見詰めている。


「こ……こんにちは」


 いつの間にか、僕は魅せられていた。

 自然と口が開いて、彼女の元へ足を運んでいた。


「あなた……人間でしょ? さっき見てたんだ、どうしてやり返さなかったの?」


 ──人間でしょ?


 変なことを訊く少女だ。自分だって人間なのに。流暢(りゅうちょう)なイタリア語を話すけれど、イタリア人ではない感じがする。いつから乗っていたのだろう? 密航者なのか? 髪が濡れていることから見ても、初めから乗っていた訳ではないらしい……なんて、僕の頭の中では謎が立ち込めている。


 ()()の髪。

 まるでライオンの(たてがみ)のような、濡れてもなびく美しい髪。


「どうしてあんなに悔しい想いをしてまでここに居るの?」


 彼女はまだ十七の僕と同じくらいの少女だった。


 後々気付くことなのだけど、まるで吸い寄せられるように彼女の隣に座り、僕は話を聞き始めていた。白く滑る肌。鎖骨辺りにはまだあどけなさが残り、水色の水晶らしき石が輝いている。


「……僕は船乗りになりたいんだ……だから此処で見習いをして……」

「ふうん」

「君、一体いつから……それに、何でシートなんかにくるまってるんだい? 船員に見つかったら大変だよ」

「この船は、どこへ行くの?」


 彼女は全く僕の問いには耳を貸さず、真っ直ぐ船の進む方角に目を向けていた。僕は半ば催眠状態のまま、


「地中海の島々やエジプトなんかだよ。貿易をしているんだ」


 彼女の鼻先が示す海の彼方へと目をやった。

 このおんぼろ船は、もう十五年ほど海を走っているそうだ。近々新しい船に替えるという話も出ている。でも僕はこの船が好きだ。五年間僕に仕事を与え、夢を与えてきてくれたのだから。


「名前」

「え?」

「名前、何ていうの? あなたの名前」


 突然彼女は真剣な眼差しで僕を見詰めた。と言ってもその甘い瞳は僕だけではなく、空や船や、まるで幼子のように──初めてそれを見るように(せわ)しないのだが。


「アメリゴ。アメリゴ=フェリーニ。アメルでいいよ……君は?」


 彼女が落ち着きをなくしている内に呼吸を整え、僕は答えた。


「あたしは……ル」


 僕の問いに、彼女はふと口をつぐむ。

 魅了の呪文で固められた僕の心に、誰かが故意に開けたような穴が、ぽっかりと口を広げていた。

 何故自分の名を明かすことくらいで、これほどの不安に襲われるのだろう。


「……あたし……ルーラ」


 船の波を押す鈍い音に、消え入りそうな過細い声だった。


 ──ルーラ。


 少なくともイタリアの名前ではない。

 彼女は僕のそんな不審を帯びる表情に気付いたのか、


「嘘なんかじゃないわ、本当の名前よ。あたし達の一族は、深海の底で採れる宝石から名を得るの。この首に掛かっているのが『ルラ』という石だから、あたしの名はルーラ。あたしの姉様(ねえさま)はカームという石を持っているから、カミルというわ。大ばばのウイスタ様はウィズからきていて、あ、それから……」

「分かった。信じるよ」


 僕は彼女の必死な主張にちょっと驚いて、解釈も出来ぬ内から返事をした。


 けれどやっぱりいまいち信じ難い話だ。

 宝石から名が付くとしても、一体誰がどうやって深い海の底から、それを拾ってくるというのだ。大体一族ってどれ位の人数なのだろう? 全ての名を付けられる程、この世の中には沢山あるものなのだろうか。


「信じてないでしょ? いいわよ、別に信じなくても。あたしだってあんなに色んな石があるだなんて思えなかったもの」


 彼女はいささか拗ね気味に向こうを向いてしまった。


 何て美しい金髪なのだろう。

 まるで一本一本が光の糸のように風に響いて、背を向けた所為で僕の頬に(まと)わりつく。

 透き通ったホワイト・ゴールド。

 僕の顔を泳ぎ……


「……ふぁっ……くしょんっ!」

「きゃっ」


 くすぐったさに耐えきれず、思わず僕はクシャミをした。


「あ、ごめん。君の髪が鼻を……」

「え? ああ……あたしこそごめんなさい、怒ったりして。初めて外に出たものだから、気持ちが逆立ってるの」


 ルーラというその少女は、(うつむ)いて真っ赤な小さな舌を出した。


 好奇心の大きさは感じ取れるが、初めて外に出たという割に驚きは見えなかった。どうして外出したことがなかったのだろう? ずっと病気で禁止されていたのだろうか? ……なんてことも考えてみたが、病弱とは思えないほど体力もありそうで血色も良い。


「君は色んな物を見ても驚かないんだね」


 僕は薄く笑んで言い、


「大ばば様に、良く話を聞かされていたから」


 彼女は(まばゆ)く笑った。

 今日は良い天気だ。まるで彼女の笑顔のように……そして静かな──。




 ああ、海に準ずる者よ

 海の神 ネプチューンよ

 しばし(なん)(びと)をも静まらせ

 風と波を(しるし)めよ

 その誇らしい歌声に

 (ひそ)む誓約の血潮に

 ああ、海を友とする者よ

 海の神 ネプチューンよ

 高らかな波と唄を持つ

 シレーネ、今、導き──




 美しい歌声。

 それは彼女の方から聞こえた。いや、聞こえた訳ではなく、彼女自身が歌っていた訳で……何だろう、僕を惹き込む強い想い。けれど惹きつけると共に引き離し、僕の心を揺るがせているような……──。


「ごめん……変な気分になったでしょ。あたしったら、まだ修行不足で……」

「いっ、いや……あ……」


 彼女の苦笑いに、僕は魂でも抜かれたような、くすんだいかれ声を返した。


 ──シレーネ。


 それはきっと僕達が云うところの『シレーナ』。何故この唄を知っているのだろう。この唄を──。

 胸が苦しくなる。この唄は僕の未来への唄。僕の夢を運ぶ唄……。


「どうして、その唄を……」


 自然と声が震えていた。

 惑う瞳を隠す為に立ち上がり、背中を向ける。嫌だな、この感覚。逃げてるみたいだ。覚悟が出来てない。


「あたし達の一族に伝わる唄よ。大ばば様に教えてもらったわ」


 彼女の柔らかな視線が、いやに背中に沁みた。


「君は……シレーナ、いや、シレーネを知っているの……?」


 恐る恐る問い掛けてみる。


「ん……知っているといえば知っているのだけど、今、シレーネはいないの……」

「嘘だっ!」

「きゃっ」


 僕は知らず大声を上げていた。


 シレーネが居ない。

 だったら僕のこの五年間は一体何だったというのだ。毎日汗水垂らして甲板を磨き、修理・料理の手伝い・帆の上げ下げ、果ては船員の服の洗濯や繕いまで……僕は寝る時間まで割いて、母、そして僕の夢の為に頑張ってきたというのに。


「嘘じゃないわ。シレーネは百五十年前からいないの……」


 哀しそうな声だった。


 瞳を閉じれば、先刻のルーラの歌声が胸を巡る。でもシレーネは居ない訳で、僕は……。


「僕が船乗りになりたいと思ったのは、シレーネに会いたかったからなんだ──」

「え……?」


 僕は座り込んで、背中で話を始めた。


「でもっ! そんなの神話の時代のお話でしょ!? 大体身体半分が鳥の化け物なんかに会って何だっていうの? 殺されるだけよ!」

「違うっ! ……違うんだ。確かに昔は鳥だったけれど、海に身を投げて美しい人魚に生まれ変わったんだ。ずっと昔の物語だけど、人魚の目撃談はいつの時代にもあった。僕は命なんか要らないんだ。唄を聴ければ……話をすることが出来れば、それでいい」

「ばか」

「え?」


 今度は僕が驚く番だった。

 振り返ると彼女の肩が震えていた。笑いを(こら)えているらしい。僕は急に腹が立った。誰にだって、例え会ったばかりでお互いを知らない彼女にだって、僕の夢を笑う権利はない。


「ごめんなさい……あなたがあんまり真剣に反論するものだから。……本当のことを教えてあげるわ。あのね……」


 それから彼女はシレーネについて、沢山の話をしてくれた。


 確かに昔の半人半鳥のシレーネは海で死に、半人半魚──つまり人魚となって海の底に住んでいるということ。

 『シレーネ』というのは人魚の中の最高の位のことで、百五十年前からその地位に就く者が居ないということ。

 その者は十六歳の誕生日にあらゆる魔法を与えられ、『結界』という彼女達の住処の安定維持に従事するということ。

 そして今日、シレーネの位に就く者が居るかも知れないということ!


 他にも沢山、彼女は知っていた。


「何処でそんなにシレーネのことを知ったの?」

「大ばば様は何でも知っているわ」


 シートに身を丸めた彼女は笑ったが、それからすぐに顔色を曇らせてしまった。遠くの一点を見詰める横顔は淋しそうで、こちらにはそれ以外の何物も伝わってこない。


 どうしてそんなに哀しい顔をするの? 君は一体誰──?


 訊いても答えてはくれない気がした。今までそれとなくはぐらかされてきたのだから。答える筈もない。

 彼女がもし人魚で、シレーネの位を与えられることになってもこんな表情は変わらないのかも知れない。彼女は……──。


 いや、違う。

 僕は彼女の横顔に胸を衝かれた。


 ()()じゃない。本当に()()()()()であったなら……──海底から宝石を探してくることだって出来る!


「おーいっ、ぼうず! 掃除は終わったかぁ」


 甲板が震える程の足音で、船員が僕らの方に近付きつつあった。

 まずいな──甲板磨きはやっていないし、第一彼女のこともある。


「あたし、帰るわ」

「え? ……ま、また会える?」


 咄嗟に現れた言葉は、たったこれだけだった。


「多分。シレーネになれたなら」

「……!!」


 僕は一瞬目を疑った。彼女が立ち上がった。すっとシートが身体の線を描いて落ちる。僕はすぐには声が出せなかった。


「ル……ラ……」


 真紅の、胸を包む背中の大きなリボンが、僕の目の前に突如飛び出した。見える全てが真っ赤に、そして真っ青に。


「シレ……ネ……」


 消えるひととき。僕はルーラの笑い声を聞いた気がした。

 美しい人魚が、藍色の海へ溶け込むそのひとときに──。







【第三章:第一話】[死] -1- (※)



「あたし、シレーネになります。大ばば様」


 ルーラはにっこりと微笑んだ。

 ウイスタの背後に(ひざまず)くマルタと、ルーラの背後に立つカミルは、遠からずも顔を見合わせ目を丸くしている。


「どうやら海上で良いことがあったようじゃな。……マルタ、皆を集めて儀式を行なう。準備を始めておくれ」

「は……はいっ」


 マルタは突然自分へ言葉を向けられたことに驚いたのか、肩を上下に波立たせ(へや)を飛び出していった。


 東の館。

 静寂の満ちた大広間には、時が止まったかのように三人の人魚が佇んでいた。


「ルーラよ。お前にはカミルを補佐として就ける。詳細はカミルから聞くが良い」

「え? あ……はい」


 気の抜けたような返事を一つ、カミルに促されウイスタに会釈をし、ルーラは表へ出た。


「あ、其処、土台をしっかりしてね」


 マルタは(せわ)しなく準備に取り掛かっている。本来なら早朝より行なわれる儀式の支度だが、ルーラの我儘により遅れる羽目になったのだから無理もない。


 マルタだけでなく成人した人魚達は全員、儀式用の祭壇作りや衣装の直しに借り出されていた。キラキラと光に透ける皆の尾とリボンが、美しく水に揺れる。が、ひときわ輝きを放つルーラの鱗には(かな)わないようだ。


(ねえ)……(さま)……?」


 ルーラにはカミルが怒っているとしか思えなかった。

 館を出てから一度もルーラと目を合わさず、唇は閉じたままだ。


「……姉様? 姉様っ、ねぇったら、姉様!」


 ハッと我に返る(うつ)ろな瞳。


「ご……ごめんなさい、まだ少し気分が悪くて。光の多い所へ行ってくるわ。あなたはヘラルドの家に行って、衣装合わせをしなさい」


 カミルは蒼褪めた顔に薄い笑みを浮かべ、上の方へと泳いでいってしまった。


「姉様……」


 ルーラは呆然として、それを見詰めることしか出来なかった──。




 ◇ ◇ ◇




 それから一時間後。


「これで……いいの?」

「綺麗よ、ルーラ。あんたは本当に紅いリボンが似合うわ」


 衣装係のヘラルドは、得意気に彼女の背中を叩いた。


 両手を彩る幾つもの指輪に、首や腕どころか鱗にまで飾りを付けられ、ルーラは少し不機嫌になっていた。


「いったぁ~~~! ねぇ、ヘラルド。宝石が重過ぎるわよ。それにリボンが大き過ぎるわ。背中に荷物でも背負(しょ)ってるみたい」


 とぼやき、プッとふくれてみせる。


「そんなこと言ってたらシレーネなんかなれないよ! ……しっかし、あんたがシレーネになるとはねぇ……世の中分からないもんだ」


 少々丸みを帯びた身体を揺さぶりながら、ヘラルドは腕を組んだ。

 彼女はカミルやマルタと同じく、館に勤める侍女の一人だ。頑固で豪快、言葉遣いは悪いが働き者で、ルーラとは母娘(おやこ)のように仲が良い。


「ルーラ。あんた、何故自分がシレーネに選ばれたのか知っているのかい?」


 ヘラルドはニヤニヤと笑って、ルーラの髪を指に巻きつけた。


「もっちろん、歌が上手くて金髪で、やっぱり所作(しょさ)に品格があるからでしょ? ……なーんて」


 くるくるくる。巻き毛気味の肩越しの髪を引かれ、舌を出すルーラ。


自惚(うぬぼ)れるんじゃないよ、この()は! あんたがシレーネになれるのはね、今年十六の誕生日を迎える娘の中で、一番単純で未熟だからさ。まぁ、金髪ってのは合っているがね」


 筋肉質な両腕で大袈裟な仕草をするヘラルドは、ルーラを(はす)に睨んで鼻で笑った。


「何よ、それ。確かに……そうかも知れないけど」


 再び頬に力を込める。


 彼女もヘラルドの言葉を否定出来ぬほど、自分の未熟さには気付いていた。同世代の娘達が好む細やかな作法に興味はなく、『おてんばルーラ』と云われる所以(ゆえん)を地で行く毎日だ。


 が、誰も近付くことのなかった結界の隅に足しげく通い、其処に棲む大型海獣達との接触を試みて、気付けば打ち解けているところなど、ルーラが他とは違う強い熱意や根気を(あわ)せ持つというのは、語らずとも皆の知るところかも知れない。


「ふんっ、分かっているようだね。まっ、そんなにふくれなさんな」


 相変わらずの乱暴な言い草で、ヘラルドはおどけた。


「未熟なもんは未熟なだけ、やること成すこと全てに溶け込んでいけるんだ……まぁ、褒め言葉のつもりだよ。あんたの場合ルラの謎もあるし、鱗と髪は人魚の中で絶品だ。が、今更ウイスタ様も金髪に(こだわ)ることはないと思うけどね」


 そう言いながら、ヘラルドは片付けを始めてしまった。


 ──まただ。


 ルーラは思わず顔を(そむ)けた。


 ──まただ。また石の話。一体あたしの石にどんな秘密があるというの?


「ヘラルド……あなた、ルラの石の秘密を知っているの?」


 おのずと語尾が(かす)れてしまう。


「ああ、知ってるさ。あんたの……」

「ルーラ、すぐこっちに来て!」


 厳しい声に振り返ったルーラの前には、表情のないカミルが立っていた。


「姉様、一体いつから……」

「今よ。ルーラ、衣装が終わったら儀式の練習をしなさい。今日中に済まさなければ、この儀式は成り立たないのよ」

「はい……」


 カミルの言っていることは筋が通っていて、否定する暇さえなかった。歪んだ口元──カミルの様子がおかしいことには、妹であるルーラも数日前から気付いていた。けれどどんなに質問をぶつけても否定するばかりの姉に、もどかしく感じながらも今日という日を迎えてしまっている。


「カミルも補佐になるんじゃ大変だね。何しろルーラは人魚の中で一番のおてんばだから」

「ええ」


 呆れ顔のヘラルドに、カミルは笑み一つ見せずに(うなず)いた。


「ヘラルド、それじゃ祭りで会おうね」

「もちろん。あんたのお陰で海上に上がることが出来るんだ。うんとめかし込んでいくよ」


 そよそよと水に流れる大きなリボンのルーラとカミルに向かって、ヘラルドは軽くウィンクをした。


 儀式の後の祭りは海上で行なわれる。他に外界へ出ることの許されない人魚達は、この時ばかりと身を清め、一番の衣装を(まと)うのだ。

 岩場を見つけ一夜歌い続ける人魚達は、シレーネを守り従うことに誓いを立てる。その誓いの唄を聞いた人間はしばし自らを忘れ、それからというもの海から離れられなくなるのだと云う。


「姉様、どうして怒っているの?」


 儀式の舞台のある東の館の広場を目指しながら、ルーラは隣で消え入りそうなくらい静かに泳ぐカミルを見詰めた。


「あら、別に怒ってなんかないわよ。ちょっと緊張しているだけ。まさか自分の妹がシレーネになるだなんて思ってもみなかったもの。……でも、これからは大変だわ~ビシビシ鍛えてあげるから、覚悟しておきなさい」

「はぁーい」


 いつも通りに戻ったカミルにルーラは安堵の返事をし、けれど気付かれないように溜息混じりの息を吐いた。


 彼女とて、海の外に出たいという願望のみに動かされているつもりはないのだ。全ては皆の為、この狭い世の中に生きる人魚達の為──ルーラもそう信じようとしている。ウイスタの言う通り、寂れきった人魚界に活気を取り戻すには『きっかけ』が必要なのだから。

 その『きっかけ』に、もし自分がなれるのであれば──。


「姉様、何故シレーネは金髪の者がなるって決まっているの?」

「……」


 カミルの表情が一瞬曇った。


「さぁ……きっと昔からの習わしなのでしょう。ウイスタ様も金髪であったと云うから、何かしらの言い伝えよりきていることなんじゃないかしら。……どちらにしても私には関係ないわね。金に反発する銀の髪ですもの……」

白髪(しらが)の大ばば様がねぇ……。でも『先代からの決め事を貫くつもりはない』って言ったのは? それに当てはまらないの?」

「さぁ……」


 素直に疑問を口にしたルーラに対して、カミルの返事は消極的だった。


「着いたわ。マルタが全体の指揮を執るそうだから、そこへ行きなさい」

「姉様は?」

「もちろん祭りの準備よ。ヘラルドの言うように折角外へ出られるのだもの、少しは飾らなくてはね。それが終わったらたっぷり手伝うから待っていなさい」

「う……うん」


 小刻みに頷くルーラに(こわ)ばった笑みを作り、カミルは二人の家の在る西へ向かった。


 背中──。

 ──姉様の背中……哀しい……──。


 カミルの淡い群青色のリボンが、水に(いざな)われ消えていく。


 ──ごめんね、姉様。あたし、姉様の気持ちに気付けているのに、(わか)ってあげられていない……──。


 胸を締めつける苦い想いが、軽い眩暈(めまい)を起こさせた。

 原因も理由も分からない。けれどカミルは嘘をついている。いや、自分の心を隠す為に必死になっている。


 ──姉様、ごめんね……ごめんね……。


 そしてルーラも自分のそんな心を隠していくことに、不安が募るばかりであった──。




挿絵(By みてみん)







【第三章:第二話】[死] -2-*



(なんじ)、象徴の印を持ち、主となりて海を支配するべし。風と海底の闇を得、友となし、人間どもを助けたまえ。汝、此処において……──」


 儀式が始まった。

 広場には赤子から老婆まで大勢の人魚が集まり、中央の祭壇に立ったウイスタとルーラを静かに見守っている。


「……此処において、ネプチューンに従い、誓約を受けるべし。“シレーネ、イマ、ウマレント、ス”と」


 ウイスタは奇怪なしゃがれ声を上げ、自分の左手首に銀色のナイフを埋め込んだ。


「汝、今シレーネを継ぐ」


 流れ出し海水と一体化した血液を法術で集め、ルーラの持つ水晶のグラスに注ぎ入れた。


「シレーネ、今生まれんと、す」


 ルーラも小さく繰り返し、一息に血液を飲み干した。

 (くれない)の塊。(ほの)かに光り、喉を通る度に熱い物が込み上げる。


「……ふぅ……あっ……──」


 突然ルーラは宙に浮くような気だるい衝撃に見舞われた。走る脱力感。グラスが流れ、一瞬の内に結晶に戻って──。


「……大ばば……様……?……」


 疑問符を(いだ)きながら、ゆっくりと意識が遠ざかる。


 予行演習はしていたが、彼女が教えてもらったのは誓いの(さかずき)までだ。気絶するとは思ってもみなかったのだろう。


「さぁ、皆の者、良く聞くのじゃ!」


 予期せぬことに驚き騒めく民を(なだ)めたウイスタは、ローブを広げ手を掲げた。


「ルーラはシレーネになるべく、ネプチューンに導かれ眠りについた。我々はこのままルーラに眠っていられては困るのだ。さぁ、夜も更けた。海上へ行こうぞ。唄を歌い、シレーネとなったルーラを呼び起こすのじゃ!!」


 嵐のような大勢の喜びの声が吹き抜けた。面々が海上を目指して泳ぐ。


「トロール、お前はルーラを運んでおくれ。カミルは我の傍に……何しろ年寄りじゃてな」


 ウイスタは皺がれた頬を傾け、嬉しそうに笑った──。




 ◇ ◇ ◇




 海の精シレーネ、惑わしのシレーネ

 人々を誘い、素敵に歌うよ

 金色の髪の、

 透き通る声の、

 美しい鱗の、

 可愛い人魚……──




「ルーラ、ルーラっ」

「ん……ん? ……」


 ルーラは浅い眠りから、しばし顔をしかめて目を覚ました。

 耳には大勢の歌声。周りを見渡そうとするが、起きたばかりで視界が悪く、ぼんやりと漂わせてしまう。


「ルーラ、いえ……シレーネ様。もう祭りは始まっておりますぞ」


 ウイスタは骨と皮で出来たような細い手で、楽しそうな歌声の先を指差した。


 辺りはすっかり夜である。

 天上の──月や星の輝きと、海の照り返しと、遠くに光る不知(しらぬ)()のような船の灯りだけが、(みち)(しるべ)となっている。


「皆っ! シレーネ様がお目覚めになられた。松明(たいまつ)に火を点け、盛大に祝おうぞっ!」


 すっくと立ち上がった大ばばは、金切り声で叫んだ。


 燃え上がる炎。はしゃぎ出す人魚達は、闇の妖精から光の妖精へと生まれ変わるのだ。


 身を起こせば、此処がどんな場所であるのかが良く判った。

 地中海の中でも一番と言って良いほど岩場の多い海域だ。ルーラ達はその岩礁で、海上に隆起している中で最も大きい──(ほとん)ど小島のような岩の上に居た。


「あ……大ばば様。あたし、一体……?」

「眠っておられましたのじゃ。頭が痛むのでしょう? 一時的なものですよ。すぐに治ります」


 ウイスタの口調はすっかり変わっていた。一方皆の誓いの唄は終わり、飲めや騒げや賑やかなものである。


「あたし、どうして? それに大ばば様、変よ。そんな話し方、大ばば様じゃない」

「シレーネ様が気を失いましたのは、我がグラスに眠り薬を仕込んでいた故。それも演出の一つ。……それから、我々はシレーネ様を認めたのでございますよ」


 そう言ってウイスタは哀し気に微笑んだ。


 ──何故なの? 姉様だけでなく、大ばば様まで……。


 ルーラは大ばばから目を逸らして黒い海を見詰め、姉のカミルを思い浮かべた。

 妹がシレーネになることを願ったカミルは、まだ幼い内に母を亡くしたルーラにとって、母親同然の存在だった。そしてルーラをずっと見守り、世の中を教えてきたウイスタは祖母のような者。そんな二人が望んだ地位を授かったというのに、言葉は喜びを表しながら、表情はそれを語っていない。


「シレーネ様、シレーネ様ってばっ!」


 漠然と物想いに(ふけ)っている少女の頭上から、慌しい声が降り注がれた。


「え? あ、そうか。あたしがシレーネだっけ」


 振り向き仰ぎ見れば、幼馴染みのトロールである。


「あ、あれ? トロール、どうしたの? 祭りに入らないの?」

「何を寝ぼけたことを言っておられるんですか、シレーネ様。あたいはその祭りに参加するよう、貴女様を誘いにきたんです」


 そうしてトロールは太くごつい腕を差し出した。

 彼女は人魚一身体が大きく力も強い。昔は良くルーラと喧嘩をした仲だが、いつも不思議とルーラが(まさ)っていた。


「ん……あ、うん」


 静かに見上げるウイスタを横目に、トロールに手を引かれて、ルーラは戸惑いながらも炎の輪の中へと向かった。


「さぁ、シレーネ様」


 トロールに促され、シレーネたるルーラは中央に立たされた。

 途端に唄が()み、沈黙の状態が続く。シレーネに向けられる幾つもの瞳。彼女は耐えられなくなったようにはにかみ、仕方なく口を開いた。


「あ……どうも」


 気のない返事である。


「えっと、あの……あ……唄、歌いましょうか」


 軽く指揮を執るや歌声が奏でられて、ルーラは恥ずかしそうにいそいそと輪の中へ入り、カミルとマルタの間に腰を降ろした。


「シレーネ様。もう少し堂々としていらしても宜しいですわ」


 そう言ったのはカミルだった。


 ──シレーネ様。


 もう昨日でさえ、以前の皆には戻れないのかも知れない。


「……私が貴女様をシレーネ様と呼びますのは、シレーネとしての業務の時だけでございます。ご安心なさいませ。──……他の時間はあなたの姉よ」

「あ、ありがとうっ!」


 にっこりと微笑ったカミルに、ルーラはホッとして抱きついた。


「あらあら、どうも今度のシレーネ様は、甘えん坊のようですわね」


 隣に座って軽く口ずさんでいたマルタが、カミルと顔を見合わせて笑う。


「ねぇ……シレーネ様。何故シレーネ様はそんなに早く、シレーネになることを決断出来たのでございますか? 最初は嫌で嫌で、確か館に乗り込んでこられた筈でしたけれど……」

「マルタのシレーネ盛り沢山な台詞を聞いていたら、頭が痛くなっちゃいそうだわ」


 ルーラはカミルから離れ、肩をすくめて苦笑した。


「海の外には素敵な世界が広がっていたわ。今は夜だから見えないけれど、真っ青な『空』という海みたいな空間に、白いふわふわの『雲』という物が浮かんでいて、大ばば様に教えてもらった『太陽』という物は、特に素晴らしかったの!」

「祭りは夜と決まっておりますから、ちょっと分かりませんわねぇ」

「でね、人間の友達が出来たのよ。あたし達とは雰囲気が違うから『男性』という種ね」


 その時突然地面に衝撃を感じ、辺りが一気に明るくなった。それと共に大きな陰を帯びて。


「──」


 ルーラは声を出さなかった。彼女には例え遠くとも、()()が何なのかが解った。


 ──アメル……。


 老いぼれたその大きな物は、アメル達の船だった──。




挿絵(By みてみん)







【第三章:第三話】[死] -3-*



 僕は──。


 身体中の神経が途切れてしまったのかも知れなかった。


 甲板に釘付けになった僕等は何を見ているのだろう。全ての器官という器官が時というものを止め、けれど耳だけは『流れ』を吸い込んでいる。

 見開かれたままの目に、大きな赤い舌のようなチラチラとした物が映った。その周りには人型の──人なのかも知れない者達が居た。


 その中の一人がこちらへ向かってくるのを、僕は無意識に見つけた。

 途中、海岸に丸まる白い影に話し掛け、海に飛び込み、僕の真下へとやって来る。


 碧と紅の人魚。

 以前にも魅せられたその笑顔は──。


「海の神ネプチューンよ。我の願い叶えたまえ。この我々に値する人間──アメリゴ=フェリーニの封印解かれるべし」


 彼女が船の近くで両手を掲げ、そう叫んだ刹那だった。僕は脳天から足の先まで電撃が走ったように感じて倒れ、今までの金縛りから逃れた。


「アメルっ! 大丈夫!?」

「ルーラっ!!」


 船縁にもたれて、情けない格好のまま笑みを返す。

 僕等は船の上と下と別々であったが、再会の喜びに胸を躍らせた。


「ルーラ、シレーネになれたんだね。今のは魔法なんだろ?」

「うんっ! でも未だ魔法は習っていないの。今のは大ばば様に呪文を教えてもらっただけなのよ」


 闇の立ち込める()()で良くは見えないが、彼女はかなり着飾っている様子だった。電光がパチパチと跳ねるように火花らしき物が散り、時々彼女の顔を照らす。


 ──人魚(シレーネ)


 本当に居たんだ。シレーネ達の末裔。僕の夢は間違っていなかった。


「シレーネ様。どうぞお乗り遊ばされませ」

「アメルったら、変な言葉使わないで。ルーラの方がいいの」


 ルーラの口調がとても不機嫌そうだったので、僕は言い直しロープを垂らした。


「あ……」


 溜息が(こぼ)れた。

 近くで見た彼女は、想像以上に素敵だった。


「どうかしたの? アメル」

「う、ううん……それよりシレーネ就任と、十六歳の誕生日おめでとう、ルーラ」

「わっ、ありがとう!」


 ルーラは僕の言葉に歓喜の声を上げた。それから濡れた髪を整え、甘い歌声の所為で気絶し硬直したままの船員達に悪戯(いたずら)を始める。


「この人、今日あなたに暴力を振るっていた人でしょ?」


 尋ねながら昼間の船員の鼻をつまみ、そいつに向かって舌を出した。


「ああ、でもいいんだ。いつものことだから。五年働いてもろくに仕事を覚えないのろまな僕が悪いんだよ……それよりあっちで唄を歌っているのは君の仲間だろ? どうして陸上に居るの?」


 彼女は話を変えられたことを良く思わないらしく、渋々と隣に座り、


「シレーネの位に就く為の儀式が終わると、夜の海上に出て祭りを行なうの。みんなが結界の外に出られるのは最初で最後の機会かも知れないから、声の出る限り歌うのよ」


 と言って、炎の方へ顔を逸らしてしまった。


 何が君を哀しくさせるの?

 僕は彼女の横顔を見詰める。


 明るい笑顔が時々曇るのは、彼女の持つ僕には解らない悩みの所為なのだろう。

 問い掛けても良いのだろうか? でも……聞いたところで今の僕に、気の利いた慰めなど言えるのか? 人を元気づけられたことなどない僕なんかに……。

 僕は浮かんだ気持ちを打ち消して、少々心配になってきた船員達の方を向いた。


「ねぇ、ルーラ。船長達、ちゃんと元に戻るんだよね?」


 船縁の手摺にしがみついた状態で──まるでメドゥーサに石にでもされたような船員達は、今でも動かず押し黙っている。


「このままにして置いたら、海から離れたがらなくなってしまうのよね。毎日毎日海のことだけ考えて、全てを忘れてしまうの。……でも大丈夫。さっきの呪文で封印を解いてあげるわ。あなたは信用出来るからいいけれど、この人達はちょっと分からないから、あたし達が海底に戻る前になってしまうけれど。あと、この船も岩に乗り上げちゃったから、それも直すわ。でも、アメル。今までのことは船員さん達に言っちゃダメよ。記憶を抜くんだから」


 ルーラはにっこりと笑った。


「まさか……僕の記憶も抜くなんて言わないよね?」


 途端冷汗が背中を流れ落ちていった。折角ルーラと友達になれたのに全てを忘れてしまったら、僕はまた毎日を仕事だけで終わらせることになってしまう。


「大丈夫。記憶を抜くのは、彼等が聞いた人魚の唄を消すことだもの。アメルは封印を解いたのが早かったから、消すことはないわ」


 僕はホッと胸を撫で下ろした。

 けれど、もし封印を解いてもらわなくても、そして記憶を消されても、僕は幸せだろう。

 シレーネを探す為に、今僕は生きているのだから。


 海を漂い、死んでしまっても良いかも知れないんだ。シレーネに導かれ、()()()を見つけることさえ出来れば……出来れば、僕は死んでも──。


 人魚達の方を見下ろした。

 魔法の所為か、硬直していた時に良く聞こえた彼女達の声は、今は微かに聞こえる程だ。視線を少し戻した先に、ルーラが“大ばば様”と呼ぶ、白いローブを羽織った老婆が腰を降ろし、海を眺めていた。


 あの方に尋ねれば、分かるかも知れない。


「ルーラ、あの……」


 そこまで言って僕はやめた。


 何かが……。

 空間が揺らぐように見ている物全てが歪んでいった。嫌な予感が走る。一瞬気が動転した僕は、唇は動いてもそれは音声にならなかった。


「ル、ルーラ……」


 僕の瞳の中で誰かが倒れた。白い……あれは……!


「ルーラっ。大ばば様がっ!」


 僕はハッと我に返り叫んだ。ルーラは咄嗟に立ち上がり、その顔はみるみると蒼褪めた。


「大ばば様……? 嘘っ!? 大ばば様っ!!」


 彼女はすっかり取り乱している。僕は彼女の手首を掴み、


「早く行くんだ。僕も行く!」

「で、でもロープは?」

「船に(くく)って降りるよ。君は先に大ばば様を!」

「う……うん」


 彼女は(うなず)いて、僕の握り締めたロープを伝い降りていった。海へ飛び込み岸に辿り着いた時、皆の唄が止んだ。

 どうやら唄がなくとも船員達は目を覚まさないようだ。僕はロープを船縁の柵に縛りつけて、同じようにゆっくりと降りた。


「大ばば様っ、大ばば様!?」


 ルーラに(いだ)かれた大ばば様は荒い息をしている。僕は濡れた髪を振り払い、ルーラを取り囲んだ大勢の人魚達の、驚きや(おのの)きを示す視線も気にせず進んでいった。


「……おお、(はしばみ)色の髪の少年よ。……そなたのお陰でシレーネ様は位に就いたのじゃな。……礼を申すぞ……」


 僕はルーラの横に(ひざまず)いて顔を強ばらせた。大ばば様はそれだけを言い咳き込んでしまう。


 ルーラが僕とどう関係するというのだろう?


「大ばば様っ! ねぇ、どうしたの? ねぇっ! やだ、死んじゃ嫌よ。大ばば様……」

「シレーネ様……いや、ルーラ。この時が来る前に、お前に継承出来て本当に良かった。お前は……我の十六の頃に……そっくりじゃよ」


 そうしてルーラの手を取った。


 唄の消えてしまった剥き出しの岩場には、波の音が聞こえるだけだ。いや、ルーラ達のすすり泣きと、夜の風。


 僕は一瞬迷いを生じた。

 弱りきり、今にも永遠の眠りにつきそうな大ばば様に、こんなことを訊いて良いものか、と。

 けれど……今教えてもらわなければ、今じゃなくちゃ間に合わないんだっ!


「大ばば様」


 僕は一大決心といった形相で、老婆を見ていたに違いない。

 暫く目を閉じて浅い息をしていた大ばば様は、静かに僕の方を向いて柔らかく微笑んだ。

 其処に漂う……死の匂いを感じた。


「どうしたの……アメル?」


 精一杯泣きはらして少し落ち着いたんだろう。ルーラは僕の変化に気が付いて、震える声で尋ねた。

 それとも震えているのは……僕?


「あ……あの、大ばば様。一つ訊いても宜しいでしょうか?」


 老婆はコクリと頷いた。

 本来なら一つどころじゃなく、二つでも三つでも訊きたいところだった。ルーラのこと、シレーネのこと。でも今訊いて許されるのは、きっとたった一つだ。


「実は──」


 僕は話を始めた。

 シレーネに会いたかった理由を……。




 ──僕の父は、船乗りでした。

 地中海を挟んで、イタリアとエジプトの貿易を行なっていました。

 けれど或る日、船を出したまま帰ってこなかったんです。

 僕が十歳の頃です。

 嵐があったと聞きました。

 そして……今でも行方不明のままなんです。

 人魚は海の守り神ですよね。

 教えてください。父さんの居場所を……

 死んでたって構わないっ! 教えてほしいんです──




「アメル……?」


 僕は手を突いて、そしてその上に顔を覆い被せた。どうにか答えてほしいと、心から願っていた。


 じっとりと汗が(にじ)む。顔に付いた髪は妙に懐かしい匂いがした。父さんの髪の匂い。海の潮の香り──。


「分からぬのじゃ」

「え?」


 僕はその声に身を起こした。


「我等は鳥から魚に変わることによって、人間との隔たりを持ってしまった……結界じゃ……海に生きるとは云えども、結界の中では……許せ、少年──ぐふっ」

「大ばば様!!」


 ルーラが狂ったように叫んだ。

 大ばば様が血を吐いたのだった。


「大ばば様……」


 僕は思った。既に死が迫っている。


「じゃが……望みは一つだけあるぞよ。西の海の──魔法使いアーラを訪ねるが良い……」

「大ばば様ぁ!!」


 老婆はもう精気を失っていた。表情から血の気が引き、小刻みに震えた。


「アメルっ、もういいでしょう? 十分でしょう!? これ以上大ばば様に喋らせないで! 大ばば様っ、大ばば様っ! もう喋らないでっ!!」


 白いローブが花を咲かせたように紅い汚点を降らせる。それはまるで真紅の薔薇のようだった。血液ほど……赤いものはないのだと感じた。


「ルーラよ……」

「嫌っ、喋らないで!」


 必死になって両耳を塞いだ彼女は発狂寸前だった。


 ──魔法使いアーラ。

 こんな状況の中で僕は別のことを考えていた。アーラ。その方に会えば……。


「ルーラよ。死を怖れるでない……我の寿命じゃ。あと数分の命であろう──人魚の死は永遠の時を得ることなのだ……ルーラよっ!」

「……くっ……」


 歯を喰いしばって(うつむ)くルーラ。僕は呆然と眺めることしか出来ず……。


「少年よ、ルーラをこれからも助けておくれ……ルーラよ、少年に手助けしてやるが良い。我がルーラにシレーネを任せたのは、間違いであったかも……知れんな」


 老婆は一呼吸置き、そして、


「マルタ、後は頼むぞ……少年よ──アーラは地中海の西端に住んでおる。西へ向かうのじゃ、西へ、場所はサファイア・ラグーン……」


 不意に老婆の身体が透き通ったような錯覚を覚えた。


「シレーネ様、これをお持ちなされ。これが有らば多少の魔法は使える筈……では、素敵な夢を見せてくれて……ありがとう……ルーラ……少年よ……──」

「大ばば様ぁ!!」


 耳に染み入るルーラの悲痛な声を聞いていたのは、誰?

 目には、少しずつ泡と化していく大ばば様の姿が焼き付いていた──。




挿絵(By みてみん)




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