[死] *
僕は──。
身体中の神経が途切れてしまったのかもしれなかった。
甲板に釘付けになった僕らは何を見ているのだろう。全ての器官という器官が時というものを止め、けれど耳だけは『流れ』を吸い込んでいる。
ルーラと出逢ったその晩だった。僕の乗る船は進んだ先の島で荷を降ろし、偶然にも再び来た航路を引き返していた。あの奇跡の起きた場所が近付くにつれ、僕の鼓動が速まっていったのは……もしかしたら同日の内にルーラと再会出来るかもしれないなんて、そんな淡い期待をしたからだ。星明りと遠い船の燈しか見えない夜の景色に、気付けば目を凝らし、耳を澄ませる自分がいた。
そして本当に二度目の奇跡が起こったのだ!!
まもなくという頃に、ささやかな音色が僕を捉えた。その声に誘われて集まってきた船員達も、次々と美しい音楽に聞き惚れる。やがてそれは幾重にも重なり、僕達の耳から意識の中へ浸透し……いつの間にか身動きが取れなくなっていた。前方に黒々とした巨大な影が近付き──いや、僕達が近付いたんだ──激しい衝撃と共に、船は岩礁の岸に乗り上げてしまった。
甲板から前方を望む見開かれたままの瞳に、まるで赤い舌のようなチラチラとした物が映った。その周りには人型の──人なのかもしれない者達がいた。
その中の一人がこちらへ向かってくるのを、僕は無意識に見つけた。
途中、海岸に丸まる白い影に話しかけ、海に飛び込み、僕の真下へとやって来る。
碧と紅の人魚。
以前にも魅せられたその笑顔は──。
「海の神ネプチューンよ。我の願い叶えたまえ。この我々に値する人間──アメリゴ=フェリーニの封印解かれるべし」
彼女が船の近くで両手を掲げ、そう叫んだ刹那だった。僕は脳天から足の先まで電撃が走ったように感じて倒れ、今までの金縛りから逃れた。
「アメルっ! 大丈夫!?」
「ルーラっ!!」
船縁にもたれて、情けない格好のまま笑みを返す。
僕らは船の上と下と別々であったが、再会の喜びに胸を躍らせた。ルーラはきっとシレーネになったのだ。僕はそう確信した。
「ルーラ、シレーネになれたんだね。今のは魔法なんだろ?」
「うんっ! でも未だ魔法は習っていないの。大ばば様に呪文を教えてもらっただけなのよ」
闇の立ち込める所為で良くは見えないが、彼女はかなり着飾っている様子だった。電光がパチパチと跳ねるように火花らしき物が散り、時々彼女の顔を照らす。
──人魚。
本当にいたんだ。シレーネ達の末裔。僕の夢は間違っていなかった。
「シレーネ様。どうぞお乗り遊ばされませ」
「アメルったら、変な言葉使わないで。ルーラの方がいいの」
ルーラの口調がとても不機嫌そうだったので、僕は言い直しロープを垂らした。
「あ……」
溜息が零れた。
近くで見た彼女は、想像以上に素敵だった。
「どうかしたの? アメル」
「う、ううん……それよりシレーネ就任と、十六歳の誕生日おめでとう、ルーラ」
「わぁ、ありがとう!!」
ルーラは僕の言葉に歓喜の声を上げた。それから濡れた髪を整え、甘い歌声の所為で気絶し硬直したままの船員達に悪戯を始める。
「この人、今日あなたに暴力を振るっていた人でしょ?」
尋ねながら昼間の船員の鼻をつまみ、そいつに向かって舌を出した。
「ああ、でもいいんだ。いつものことだから。五年働いてもろくに仕事を覚えないのろまな僕が悪いんだよ……それよりあっちで唄を歌っているのは君の仲間だろ? どうして陸上にいるの?」
彼女は話を変えられたことを良く思わないらしく、渋々と隣に座り、
「シレーネの位に就くための儀式が終わると、夜の海上に出て祭りを行なうの。みんなが結界の外に出られるのは最初で最後の機会かもしれないから、声の出る限り歌うのよ」
と言って、先程赤い舌のように見えた松明の方へ顔を逸らしてしまった。
何が君を哀しくさせるの?
僕は彼女の横顔を見つめる。
明るい笑顔が時々曇るのは、彼女の持つ僕には解らない悩みの所為なのだろう。
問いかけてもいいのだろうか? でも……聞いたところで今の僕に、気の利いた慰めなど言えるのか? 人を元気づけられたことなどない僕なんかに……。
僕は浮かんだ気持ちを打ち消して、少々心配になってきた船員達の方を向いた。
「ねぇ、ルーラ。船長達、ちゃんと元に戻るんだよね?」
船縁の手摺にしがみついた状態で──まるでメドゥーサに石にでもされたような船員達は、今でも動かず押し黙っている。
「このままにしていたら、海から離れたがらなくなってしまうのよね。毎日毎日海のことだけ考えて、全てを忘れてしまうの。……でも大丈夫。さっきの呪文で封印を解いてあげるわ。あなたは信用出来るからいいけれど、この人達はちょっと分からないから、あたし達が海底に戻る前になってしまうけれど。あと、この船も岩に乗り上げちゃったから、それも直してあげる。でも、アメル。今までのことは船員さん達に言っちゃダメよ。記憶を抜くんだから」
ルーラはにっこりと笑った。
「まさか……僕の記憶も抜くなんて言わないよね?」
途端冷汗が背中を流れ落ちていった。折角ルーラと友達になれたのに全てを忘れてしまったら、僕はまた毎日を仕事だけで終わらせることになってしまう。
「大丈夫。記憶を抜くのは、彼らが聞いた人魚の唄を消すことだもの。アメルは封印を解いたのが早かったから、消すことはないわ」
僕はホッと胸を撫で下ろした。
けれど、もし封印を解いてもらわなくても、そして記憶を消されても、僕は幸せだろう。
シレーネを探すために、今僕は生きているのだから。
海を漂い、死んでしまってもいいかもしれないんだ。シレーネに導かれ、あの人を見つけることさえ出来れば……出来れば、僕は死んでも──。
人魚達の方を見下ろした。
魔法の所為か、硬直していた時に良く聞こえた彼女達の声は、今は微かに聞こえるほどだ。視線を少し戻した先に、ルーラが“大ばば様”と呼ぶ、白いローブを羽織った老婆が腰を降ろし、海を眺めていた。
あの方に尋ねれば、分かるかもしれない。
「ルーラ、あの……」
そこまで言って僕はやめた。
何かが……。
空間が揺らぐように見ている物全てが歪んでいった。嫌な予感が走る。一瞬気が動転した僕は、唇は動いていてもそれは音声にならなかった。
──ル、ルーラ……
僕の瞳の中で誰かが倒れた。白い……あれは……!
「ルーラっ! 大ばば様がっ!!」
僕はハッと我に返り叫んだ。ルーラは咄嗟に立ち上がり、その顔はみるみると蒼褪めた。
「大ばば様……? 嘘っ!? 大ばば様っ!!」
彼女はすっかり取り乱している。僕は彼女の手首を掴み、
「早く行くんだ。僕も行く!」
「で、でもロープは?」
「船に括って降りるよ。君は先に大ばば様を!」
「う……うん」
彼女は頷いて、僕の握り締めたロープを伝い降りていった。海へ飛び込み岸に辿り着いた時、皆の唄が止んだ。
どうやら唄がなくとも船員達は目を覚まさないようだ。僕はロープを船縁の柵に縛りつけて、同じようにゆっくりと降りた。
「大ばば様っ、大ばば様!?」
ルーラに抱かれた大ばば様は荒い息をしている。僕は濡れた髪を振り払い、ルーラを取り囲んだ大勢の人魚達の、驚きや慄きを示す視線も気にせず進んでいった。
「……おお、榛色の髪の少年よ。……そなたのお陰でシレーネ様は位に就いてくれたのじゃな。……礼を申すぞ……」
僕はルーラの横に跪いて顔を強ばらせた。大ばば様はそれだけを言い咳き込んでしまう。
ルーラが僕とどう関係するというのだろう?
「大ばば様っ! ねぇ、どうしたの? ねぇっ! やだ、死んじゃ嫌よ。大ばば様……」
「シレーネ様……いや、ルーラ。この時が来る前に、お前に継承出来て本当に良かった。お前は……我の十六の頃に……そっくりじゃよ」
そうしてルーラの手を取った。
唄の消えてしまった剥き出しの岩場には、波の音が聞こえるだけだ。いや、ルーラ達のすすり泣きと、夜の風。
僕は一瞬迷いを生じた。
弱りきり、今にも永遠の眠りにつきそうな大ばば様に、こんなことを訊いて良いものか、と。
けれど……今教えてもらわなければ、今じゃなくちゃ間に合わないんだっ!
「大ばば様」
僕は一大決心といった形相で、老婆を見ていたに違いない。
しばらく目を閉じて浅い息をしていた大ばば様は、静かに僕の方を向いて柔らかく微笑んだ。
そこに漂う……死の匂いを感じた。
「どうしたの……アメル?」
精一杯泣きはらして少し落ち着いたんだろう。ルーラは僕の変化に気が付いて、震える声で尋ねた。
それとも震えているのは……僕?
「あ……あの、大ばば様。一つ訊いても宜しいでしょうか?」
老婆はコクリと頷いた。
本来なら一つどころじゃなく、二つでも三つでも訊きたいところだった。ルーラのこと、シレーネのこと。でも今訊いて許されるのは、きっとたった一つだ。
「実は──」
僕は話を始めた。
シレーネに会いたかった理由を……。
──僕の父は、船乗りでした。
地中海を挟んで、イタリアとエジプトの貿易を行なっていました。
けれど或る日、船を出したまま帰ってこなかったんです。
僕が十歳の頃です。
嵐があったと聞きました。
そして……今でも行方不明のままなんです。
人魚は海の守り神ですよね。
教えてください、父さんの居場所を……
死んでたって構わないっ! 教えてほしいんです──
「アメル……?」
僕は手を突いて、そしてその上に顔を覆い被せた。どうにか答えてほしいと、心から願っていた。
じっとりと汗が滲む。顔に付いた髪は妙に懐かしい匂いがした。父さんの髪の匂い。海の潮の香り──。
「分からぬのじゃ」
「え?」
僕はその声に身を起こした。
「我等は鳥から魚に変わることによって、人間との隔たりを持ってしまった……結界じゃ……海に生きるとは云えども、結界の中では……許せ、少年──ぐふっ」
「大ばば様!!」
ルーラが狂ったように叫んだ。
大ばば様が血を吐いたのだった。
「大ばば様……」
僕は思った。既に死が迫っている。
「じゃが……望みは一つだけあるぞよ。西の海の──魔法使いアーラを訪ねるが良い……」
「大ばば様ぁ!!」
老婆はもう精気を失っていた。表情から血の気が引き、小刻みに震えた。
「アメルっ、もういいでしょう? 十分でしょう!? これ以上大ばば様に喋らせないで! 大ばば様っ、大ばば様っ! もう喋らないでっ!!」
白いローブが花を咲かせたように紅い汚点を降らせる。それはまるで真紅の薔薇のようだった。血液ほど……赤いものはないのだと感じた。
「ルーラよ……」
「嫌っ、喋らないで!」
必死になって両耳を塞いだ彼女は発狂寸前だった。
──魔法使いアーラ。
こんな状況の中で僕は別のことを考えていた。アーラ。その方に会えば……。
「ルーラよ。死を怖れるでない……我の寿命じゃ。あと数分の命であろう──人魚の死は永遠の時を得ることなのだ……ルーラよっ」
「……くっ……」
歯を喰いしばって俯くルーラ。僕は呆然と眺めることしか出来ず……。
「少年よ、ルーラをこれからも助けておくれ……ルーラよ、少年に手助けしてやるが良い。我がルーラにシレーネを任せたのは、間違いであったかも……しれんな」
老婆は一呼吸置き、そして、
「マルタ、後は頼むぞ……少年よ──アーラは地中海の西端に住んでおる。西へ向かうのじゃ、西へ、場所はサファイア・ラグーン……」
不意に老婆の身体が透き通ったような錯覚を覚えた。
「シレーネ様、これをお持ちなされ。これがあらば多少の魔法は使える筈……では、素敵な夢を見せてくれて……ありがとう……ルーラ……少年よ……──」
「大ばば様ぁ!!」
耳に染み入るルーラの悲痛な声を聞いていたのは、誰?
目には、少しずつ泡と化していく大ばば様の姿が焼きついていた──。
此処までお読みくださいました皆様、本当に有難うございます。
少々アメルが自分勝手で冷たく思われたかも知れませんが、何ぶんまだ十七歳の少年です。父親の手掛かりをつかむ為に必死だったとご勘弁ください。
そのアメルの本名、アメリゴ=フェリーニの名前の由来ですが、アメリゴはアメリカの名の元になったアメリゴ=ヴェスプッチから頂きました。コロンブスより後にアメリカへ上陸した人ですが、コロンブスが「アジアの一部」と思い込んだのとは違い、「新大陸」だと気付いた新鮮な眼を持つ人物でした。という訳で、船乗りだったアメルの父親が、そう名付けたのは自然の成り行きだったかと・・・フェリーニはご存知イタリア映画の巨匠フェリーニ監督の姓でございます。ごつい姓名が多い中で、結構気に入っている名字です。