[光] (※)
案の定、僕は船員に首根っこをひっつかまれ、力一杯甲板に叩きつけられた。
それでも頬を打つ痛烈な衝撃はすぐに消えた。それほど全身を高揚させる大きな出来事だった。
再びどつかれない内にせっせと甲板を磨き出す。目の前の床面に張られた水溜まりに、僕の輝き出す瞳が反射した。
あんなにシレーネの存在を信じ続けた自分でさえも、誰かに問い質さねばいられないくらいの驚きだった。けれどそんな夢のようなおとぎ話、打ち明けられる相手など此処にはいない。一生懸命左右に動く手の甲を見下ろしながら、とにかくこの数十分の過去を反芻する。
突然現れた濡れ髪の少女。それは海からやって来た証拠であって、シートで身体を包んでいたのは、鱗で覆われた下半身を隠すためだった。
人魚は現実に存在したんだ!
まるで海の青を集めたような煌めく尾びれのひらめきは、僕の眼にしっかりと焼きついて、決して幻ではないことを物語っていた。
彼女達は深海の『結界』という領域に住んでいると言っていた。人間には見えない膜に守られた、外界とは隔離された世界だという。どうしてそんな手の届かない所に暮らしているのだろう? 人間に見つからないように? それなら何故今ルーラは、人間である僕の前に姿を見せたのだろうか?
──「多分。シレーネになれたなら」
人魚の長『シレーネ』になるのは十六歳の誕生日だと言っていたっけ。今日は四月十四日。もしそれが今日なら、彼女は僕より一つ半年下ということになる。誕生日のお祝いすら言えなかったな……予期せぬことであったとはいえ、立ち上がるルーラに何も伝えられなかった自身に失望して、しばし床を擦る手を止めた。
彼女はシレーネになるのだろうか? 百五十年もの長い間、存在しなかったシレーネに。
今までその地位に誰も就かなかったことには、何か意味があるのだろうか?
「また会える?」という問いに対し、彼女は「シレーネになれたなら」と答えた。もしルーラがシレーネになったなら。僕はまた彼女に会えるのだろうか? でも一体いつ何処で? 僕にはルーラを見つけ出す時間も術もない。それに彼女だって航海を続ける僕をどうやって探すのだろう? 再びこの海域を渡る際、さっきのようにひょっこり船に乗り込んでくれたりするのだろうか? 僕には……ただひたすら待つことしか出来ないのだろうか──?
沢山の疑問で埋め尽くされた脳内を落ち着かせるために、タワシを置き放しておもむろに立ち上がった。船縁の向こうに波立つ水平線が伸びる。この遥かな空間に、ずっと探し求めてきたシレーネが実在することが証明された。
「今までだって待ってこられたんだから……」
そう呟いた口元を引き締め、僕は右舷に近付いていった。揺れる波間の奥の奥、見通せる筈もない海の底を見つめる。
神話に登場する魔女の存在を信じるなんて、誰もが呆れて嗤うような絵空事に、いつしか夢を託すようになったのはもう五年も前のことだ。そうでもしなければ、あの頃の僕にはやりきれない想いもあったのだと思う。そんな投げやりな始まりでも、いつしか気持ちが傾いていったのは、この神秘に満ちた地中海の美しさの所為かもしれない。海の中には僕達の知らない現実が隠されている──ルーラの眩しい笑顔を脳裏に浮かべながら、僕はその確信に胸を熱くさせた。
けれどあの輝かしい微笑みを、時々失わせたものは何なのだろう。名前を告げる時に見せた、戸惑うような表情も。
いつかもう一度シレーネになったルーラに会えた時、それは全て明らかになるだろうか。その時彼女の悩みが払拭されて、翳りのない笑顔が見られますように。そして僕の『夢』も、今度こそ実現に導かれますよう。
そうすればきっとこの五年間の苦労も、無駄ではなかったと後悔せずにいられるに違いない。
深い深い海底に横たわる結界に想いを馳せて海を見やれば、その入り口である水面がキラキラと煌めいて、僕を手招きしているかのようだった。
吸い込まれそうな波間から視線を逸らし、再び甲板にしゃがみ込む。ルーラにまた会えそうな予感がした。僕はタワシを左右に動かしながら、ルーラとの時間を何度も何度も繰り返し思い起こした。心に灯ったこの光明が、再会の時まで消えてしまわないように──。