[人] -1- (※)
「おーいっ、ぼうず! タワシとバケツを持ってこいっ。早く行かないと、また船長にぶっ飛ばされるぞっ!!」
その男は怒鳴りながらやって来て、ニヤニヤしながら僕を見下ろした。
「僕、「ぼうず」っていう名前じゃありませんから」
力を込めて目を据える。
潮と太陽の所為で黒く焼けた血色の良いその男は、顔を歪ませ突然僕の胸座をぐいとつかみ、せせら嗤った。
「ぼうずじゃなかったら、何だっていうんだ? ……うむ、思いついたぞ。お前は「チビ」だ。ほれ、チビ、早く行け!」
ごつい手を振り子のように動かし僕を放り出して、そいつは豪快に笑いながら去っていった。
振り払われた力が強かったのか、フラフラとよろけてしまう。
「はいっっ!!」
消えていった方角へ向けて、大声を上げ睨みつけた。けれどそんな物は小動物の悪あがきのような、貧弱なつまらないもので、僕のために塵すら動いてはくれない。悔しいことにあの男は船乗りなのだ。何も言い返すことが出来ない。
碧が広がっていた。
僕の走り出す背の中に、碧が広がっていた。
──海。
水と空気が同時に存在するその空間は、僕の夢を映している。
僕は今にも壊れそうな扉を開いて、倉庫のある船底へ向かった。
タワシとバケツは甲板を磨くための道具だ。もう五年もこき使われ、くたびれかかった用具の中で、まだマシそうなタワシを拾い上げた。
「僕は一体……」
そこまで言って口を閉ざした。
本当のことを言えば、これは僕の喉から今にも飛び出してしまいそうな言葉だ。けれど例え周りに誰もいないとしても、声に出してはいけない。病気の母と死んだ父、それに僕自身の夢のためでもある。
暗闇の中、光の元へ続く腐りかけた階段をゆっくりと登った。早く此処も直さないとその内崩れるだろう。時間を作らなければならない。
「……ん……」
再び色褪せた扉を開いたが、さっきとは僅かに変化のある強い陽差しが僕の目を突いた。
しばし僕は真っ青になってしまった景色を眺めて、瞼を瞬かせた。
暗い所から突然明るい場に出たことも理由の一つだけど、それよりも何よりもそこには……──。
春らしい爽やかな風が吹く。
ゆったりとその人の髪もたなびき、こちらを振り返ったのは、
そして──。
それが『彼女』との出逢いだった──。