ダウンバーストフォレストの冒険 .5 **
彼女の背中を押してから、ふと思う。
ああ、マズいな。――――なんて。
辺りに舞った鱗粉に視界が霞み、どうしようもなく咳き込む中、ついそんな事を呟いていた。霞む視界のせいで、見送る余裕もない。
リテッタが呼んで来てくれるっていうのはいいけれども、多分すぐに応援はこないもとの思っておくべきだろう。どう考えたってあいつ、痕跡追いかけるのに夢中になっているんだろうなあ。はしゃいで飛び跳ねている様子まで目に浮かんだ。
向こうがこちらに気が付いてくれている事を期待して時間を稼ぐか、あるいはリテッタが戻ってくるまで少なからず自分でどうにかするか。そうでもしなければ、殺されはしないが、冗談抜きで寄生はされるって事だよな。
冗談じゃない。
避けた拍子に転がった身体を起こして、その真っ白な姿と対峙する。あちこち粉っぽいし足場は悪いしで、気分も状況も最悪だ。でも、ただヤられるのを待つなんて御免だ。
――――ならば。
「そんなに俺が欲しけりゃかかってこいよ。俺だって流石にエサは嫌だからな、虫ごときに負けてたまるかっつーの」
羽音のする虫に会ったら確実に死ぬって言われたけど、こいつに関してはそうは言われなかったからな。やりようによってはどうにかなるって事だろう? だったら、な。
いつまでもラズやエンマに守られているだけの俺じゃない。女の子に助けを願うだけなんてもっと嫌だ。
虫と本気の戦闘なんて、俺もなかなかの馬鹿じゃないだろうか。笑えてくる。
「ほら、かかって来いよ」
それでいて煽ってしまうんだからどうしようもない。すぐそこにあった藪から枝を手折って差し向ると、能面無表情がその翅を震わせ動いた。
―――っ、速い。
初動は白い残像を残して姿を消し、すぐにどこに行ったのか目で追えなかった。音もなく、そして速い。
一体どこに? そう思っていたら、ちらちらと銀の光が降って来た。それにハッとして見上げると、覆いかぶさらんばかりに翅を広げて突っ込んでくる姿があって、また横に飛び退いた。
「チィ! これならどうだ!」
一歩二歩と避けた先でぐっと踏み込むが、根の傍のお蔭か予想通りに沈まない。これならいけそうだ。
すぐにその胴体を狙って枝を振り下ろす。葉の先が翅にかすった程度で、既にそこには何もいない。ぶわっと、かすった事で銀の光だけが翅からこそげ落ちて、一瞬にして視界を覆い尽くした。
……やっぱりこんな即席武器で対応しようって言う方が無理、か。そもそも葉が空気抵抗を大きくし過ぎて、ただでさえ太刀筋なんてもの存在しないのに、尚更振りを鈍くしている。重い。
リテッタはどこまで行ってくれたんだろう。解らない。
まあいい。ゆっくり考えている場合じゃないからな。さっさと次手だ。
「おらっ、捕まえられるもんなら来いよ!」
向かったのはそこらにある藪の方だ。一番近くの藪に向かって根の上を辿るように走ってみたら、案の定落ち葉の落とし穴に落ちることなく駆け寄れた。
転びそうになろうが全部無視だ。根の上に積もった落ち葉に足を取られて滑ったのは仕方がない。
背中を見せたせいでここぞとばかりに飛びついてきているのが、肩越しに振り返った時に見えた。ここで捕まる訳にはいかない。
「っ……イッ……!」
藪に向かって、プールの飛び込み入水のように頭から突っ込んでいく。
途中、着地の事なんて考えずに頭を抱えて前方宙返りして、藪の中に埋もれていく。背中の下でポキポキ枝が折れていくのが解った。
折り切れなかった太目の枝が、足やわき腹を擦って刺してくれたらしくてめちゃくちゃ痛い。知った事か。
流石にむこうも、俺に続いて藪の中に飛び込んでくる神経は持ち合わせていないようだった。仰向けで藪に埋もれる俺の目の前を、白い何かが通り抜ける。そこを狙って、早急に突き上げた。
「これは、どうだ!」
だが残念。急いで腕を突き上げて小さな当たりを狙ったが、完全に空ぶった。
梢の向こうにそいつが飛んでいく。
「ああ、もう!」
当の俺の方は腕を突き上げた反動で身体が落ち込んで、藪の下に足が付いた。丁度いい。
最早擦り傷のついていないところを探す方が難しいくらいに、あちこちひりひり痛んでいる。うん、構っていられそうにない。
無理やり頭まで潜り込んで藪の向こう側を伺ったら、ハタハタと旋回して同じようにこちらを伺う姿を見た。
……全く、虫なら虫らしくして欲しいね。無表情の人面とかホント、怖いったらありゃしない。
ここでじっとしていればいいんじゃないかって一瞬思いもしたが、辺りをバタバタされたせいで粉っぽくてたまらない。生き物を得る為に何をすればいいのか解っていらっしゃるようで、可愛くない。
ごほ……と、また咽てくる。鬱陶しい。
じゃあ、三手だ。
手にしていた枝を投げ捨てて、藪の下から飛び出した。向かったのは先の木の根元だ。でも、根っこを辿っていた時とは違い、落とし穴に構わず直線距離で俺は走った。
足に刺さった枝が痛いが、構うもんか。
歩測。一、二、三、四、ご――――……。
藪や木の根から離れた途端に、足元がみしみしと怪しく沈む。でも、これくらいならば簡単には底抜けないようで、有難く突っ切った。
だが。
「……六、な……うわっ?!」
ずるっと滑った拍子に出した片足が、床を突き破ろうとしたのが解る。多分、つま先は突き抜けた。
「っ……八!」
飛び込まないように気を付けながら、構わず同じ調子で前に出たら、それ以上落ちる事はなかった。後ろで踏み抜かれた底が、がさりと抜けて少し怯むが歩調は気合で変えない。
足に刺さったままの枝が邪魔臭くって、引っこ抜いて後方に放り投げる。……つと、血が流れたのが解った。クソッいってえ!
「九、十、十一……!」
間髪開けずに白い姿が上から俺を落としてやろうと降って来た。直後にどうなるか想像してしまって、足が止まりそうになる。
でもそれを渾身の心持ちで身を屈めて躱してやったら、がさがさがさっと音を立てて大きな穴が背後に開いた。こいつ、俺なら絶対立ち止まるってアタリを付けて突っ込んできやがった。
一瞬だけ、出来た穴の向こうに白い姿が消えた。可能な限り急いでそこから離れて、大木の元へと向かう。
「二十……四!」
大木の根元につくのと同時に、根っこを踏切板にして飛び上がる。一番下の、それでいてまだ比較的若い枝を掴めるかどうか。
……否。掴まないという選択肢はない!
考えるよりも先に一歩幹を蹴り伸びあがって、一番下の、俺の体重だけで十分しなる枝を引きずり下ろした。
引きずり下ろした枝を、兎に角押して、押して、近くの別の藪まで引き寄せる。どうにか手を伸ばして、力を込めて、藪の枝を掴めるところまで引っ張った。即座に俺は、手に巻いた布を解いて、引き寄せたそれらを合わせてキツく縛った。
ああ……しんどい。
もう一歩たりとも動きたくないが、振り返れば丁度階下に突っ込んでいったはずのそいつが飛び出してきたところだった。ホントに、諦めが悪い。
その表情を力なく見てやれば、能面みたいだった顔が丁度、左右に引きちぎれたところだった。
「うーわ、気持ちわり……」
つい、口を突いて出た言葉。それも仕方ないだろう。
先ほどまでは、無表情ながらもきれいな女の顔に見えていた。でもその顔が、皮膚の内側で何かが蠢いたかと思うと、目の前で真っ二つに裂けたんだぜ?
しかもその下から現れたのは、カマキリのような小さな頭に、大きな複眼がぎょろついている虫らしい頭だ。左右に分かれた牙と顎。飾りみたいに真っ白な体毛に覆われていた、すらりとしていた手足は、一対の鈎爪と二対の歩脚に変わり果てていた。これを気持ち悪いと言わずになんと言おう?
こちらを見据え、かたかたと顎を開閉している様は、大人しく食われない俺に辟易しているのだろう。もはや、ヒトに見える要素はどこにもない。
「いいぜ、来いよ。どう頑張っても、てめえに俺は捕まえらえないって、思い知らせてやるさ」
「ぎぎぎ」 と唸るやつにそんな事を言ったって、やけくその捨て台詞にしか聞こえないよな。それでも手の平をこちらに向けて来い来いと煽ってやると、真っすぐに突っ込んで来た。
……ホント、知能の低い生き物で助かった。
「じゃあな、結構頑張っただろ? 俺も」
目の前に迫りくる姿に、にやっと笑ってやったのはせめてもの手向けのつもりだ。
向かってくる姿に構うことなく、先程枝を縛り上げた布をナイフを突き立て断ち切った。
ザガッ! と、ぎりぎりまで引いたその枝は、勢いよく戻っていった。刹那に目の前まで来ようとしていた姿が、緑の向こうに弾き飛ばされていた。
その先には?
さっきあいつが飛び出してきた、例の穴。俺が開けた穴よりずっと大きく開けてから、有難く使わせてもらった。
暗算で行った目分量の距離に感覚で図った木が戻ろうとする力、それらで作った即席パチンコは狙い通りに白玉を弾いてくれた。
お蔭でばっちり、開けてくれた穴へとホールインワン。本番一回こっきりにしては、我ながらナイスショットだと思う。
――――刹那。
ドン! と地を叩いたような衝撃と共に、大きな大きな数珠つなぎの赤い身体に大きな爪が、穴を突いてきた。ああ、もちろん見間違いじゃねえ、先も見かけたその姿だ。
賭けのような確率だったが、階下に落とした血の匂いに釣られてくれたのだろう。ありがたい。
その大きな爪は、がっちりと白い姿を捕えて銀の雪をまき散らしていた。
「あーあ、ご愁傷さま」
最後に合掌、俺だってそれくらいの意地はあるんだ。立ち向かう気持ちさえ起きれば、死に物狂いで使える物全部使って勝ちに行けるんだ。
悪く、思わないでほしい。
階下に引きずりこまれていく姿を見送ってもよかったが、あの爪に俺自身が狙われても嫌だ。あんなのに狙われたら、今度こそ俺はミンチにされて食われるだろう。
白い虫に夢中になっている間に、俺はその場を離れる事にした。
…………っていうか、あいつら予想通りに来やしないし。酷い。
出来るだけ大きな板根の上を選んで根元に座りこむ。
あーもう無理。身体痛い。
「……痛っ」
シャツとズボンの裾をまくり上げてわき腹や足を確認したら、服の上から貫通した枝が擦りむいた傷をつついてくれていた。足に至っては、枝が完全に皮膚を切り裂いてくれたお蔭もあって、血が滲みまくっている。
そりゃ痛いよなあ、なんて納得してしまう。
一本一本、細切れの繊維になった木屑を引っこ抜いて、辛抱強く怪我に触るものを取り除いていった。手に巻いていた布はお世辞にも綺麗だとは言い難いが、垂れ流しにしてまた虫に襲われるリスクを高めるよりかはマシだろう。
ああ、もうホント疲れたな。エンマの背中で昼寝したい。
「……おーい、おにいさーん。どこー?」
「ディオ、どこ?! お願い、返事してよ! ディオ!」
四苦八苦していたところに不意に聞こえて来た、そんな声たち。誰か、なんて考えるまでもない。
今更かよ。
力なく木の根の上で倒れこんで視界を覆ってしまったのは仕方がない。
「ここにいるよ……」
力なく声を上げれば、急ぎ足がガサガサと藪をかき分けてやって来た。顔をのぞかせたのは先程別れたそいつに間違いなくて、俺の姿を見た途端にアッと声を上げやがった。
「ディオ! 生きてる?!」
「あらあ……これは酷いねぇ、大丈夫?」
「勝手に殺すな……」
のうのうとそんな事聞いて来るからじろりと睨んだら、「ごめーん、大丈夫じゃなかったねぇ」 って笑いやがった。最早突っ込む気も溜め息すらも出なくて、ふて寝したくなる。
せめてリテッタくらい申し訳なさそうにしてくれてもいいのにな!
「ああっ……ごめんってぇ、お詫びにちゃんとした手当するから、怒らないで? ねえ?」
別にそちらが責任感じる必要はないだろうに。困ったように、そして申し訳なさそうにしてくるこいつに対して、仕方がないなって思っている自分がいて驚く。
気が付けば、上手い事懐に入られていたんだなあ、なんて思い知らされた。
「……そっちは、ちゃんと見つけられたのか?」
だから何だか悔しく思えたのだろう。逆に事の原因を訪ねてやれば、心底微妙な顔をされた。
「うん。いた事は居たんだけどねえ、メスじゃなかったから翅しか取れなかったんだよねえ」
しょうがないから翅だけむしって来たよ、と。マントの下に背負っていたらしい、縫い目のない革袋を見せてくれた。
そっと開いたその袋には、あふれんばかりの鱗粉と、ぐしゃぐしゃに砕かれた翅らしき透明な板の欠片が山と詰められていた。
そいつの身体に改めて目を向けてみたら、手足――――特に足元が真っ白になっていた。多分だけど、お目当ての虫を踏みつけて翅だけをむしったのだろう。
心底楽しそうに笑ってむしっている様子まで目に浮かんでつい、身震いした。きっとこいつなら、むしった後は飛べない状態になり、他の虫に食わせる為に放置していく気がしてならない。
……うーん、えげつないが同情はしないな。
「さ、そんな事よりも、ボクに傷を見せて。ちょっと時間はかかるけど、多分消毒してあげられるからさ」
「あ……頼む」
ついどうでもいい事に気を取られていたら早く早くと急かされた。急かされるままにズボンを膝までたくし上げて、思わず目を反らした。消毒って言ったらやっぱ染みるだろうから、正直見ていたくない。
たが、こいつが何をするつもりなのか全く見ていなかった俺は、直後の感覚に飛び上がった。
初めに感じたのは、もぞもぞと、皮膚の上を蟻のような小さな何かが這っているようなくすぐったさ。そして直後に、ちくちくと啄むような痛みだった。
「ぃ……ちょ?!」
「うわあ……」
リテッタが、気まずそうに目を反らした。
慌てて見たら、そいつがいつの間にか手にしていた小さな瓶から出て来た、小さな白い虫が俺の足を這っていた。
「いやおい! 何してんだよ?!」
「ううーん、思っていたよりも軽傷過ぎて上手くいかないかあ」
そりゃ、上手くいくはずがねえだろうよ! お前それ、蛆虫だよな?!
確かに治療に使えるって事は知っているけどよ?! 俺の怪我は皮膚が壊死するほどひどいものだと思っていたのか?!
「今すぐやめろぉぉ!!」
だからつい、振り払ってしまったのは悪くない。
「あっ……」 と、切なそうな声が傍で上がったが、俺は構わず、皮膚の上に残った小さな虫共を爪で弾いてやった。一瞬でも、こいつを頼ろうとした俺が馬鹿だった。
「酷いなあ」
「急にそんなもん見せられて、驚かないと思っているお前が悪い」
「ええ~」
ぷく~っと頬を膨らませているが、正直可愛いとも何も思わない。横目をくれてふんっと、鼻を鳴らしてしまった俺は悪くない。
きっちりしっかりすべての蛆虫を土に返して、せっせと粗布で縛りなおした。
その、時だった。
「あ……」
そんな地道ともいえる作業に没頭していれば、不意に辺りがざわめいて、辺りの空気が変わったのが解った。悪い事って、どうしてこうも重なるのか。
梢を見上げれば、上層にて枝が揺れているのが見える。
「ありゃあ、真上かあ。これ、逃げられないねぇ……」
「嘘っ……!」
ぽつりと隣がこぼした言葉に、すぐに理解が追いつかなかった。
刹那に脳裏で瞬いたのは、俺らがこうしてさ迷っている原因だ。答えにたどり着いた瞬間、頭を抱えるよりも先に、諦めている風なそいつの腕を強く掴んでいた。
せっかく自力でどうにか乗り越えた後だって言うのに冗談じゃないって、怒鳴り返したい。でもそんな暇もない。既に上空からは空気に圧縮された梢がバキバキと悲鳴を上げている。明確な死を、確かに感じた。
――――だからその時の俺は、かなり必死の形相だったと思う。
「せっかく頑張ったのに、諦められるかよ!」
つい、そんな事を叫んでいた俺は、そいつに覆いかぶさる勢いで押し倒して、そいつもろとも板根の間へと、転がり込むように倒れた。張り出している根を盾に、どうにか身を守ろうと縮こまる。
「リテッタ!」
「え、ちょっと?!」
きょとんとしていたリテッタの腕を掴むと、同じように引きずり込んだ。反発するように手足を振り回されたけれども、構ってなんて居られない。
「あっはは! 無茶苦茶するねえ、君」
その時最後に聞いたのは、そいつのそんな笑い声。ふっと頭上が暗くなったのを感じながら、上から降って来る大量の落枝に身を縮ませるばかりだった。
「……そういうおバカさんをほっといてあげられないボクも、大概かもねえ」
俺らに下敷きにされているくせに、随分と余裕そうにそいつはころころと笑う。
直後に聞いたのは、「ギイィィイィ!」 という、初めに聞いた虫が翅をこすって鳴らすような音だった。そして頭上からは大木を割くような軋む音。
頭上の音が俺らにたどり着こうとしたその刹那――――。
すぐ隣の地面が盛り上がり、俺らの上に何かが覆いかぶさってきたかと思うのと同時に、声を上げる暇さえなくて、俺らの身体は地に引きずり込まれていったのだった。




