屍姫は月下に舞う .3
沈み行く陽射しが、加速度的に影法師を長くする。同じころ、街を照らし出すように、俺らが目指すべき灯台の頂に明かりが灯っていた。
遠くの方から聞こえてくるのは雄叫び、あるいは打ち鳴らされた剣の音だ。建物の向こうから時おり上がるオレンジの光は、何かが燃えて火柱を上げているような、おかしな明るさが照らしている。
まるでここだけが、隔離された別世界のようだ。現実感がてんでない。
最も戦況が解らないのだから当然だ。
俺らの目の前では、西日の陰影に彩られた整った顔が、うっすらと微笑む。その様子だけならば、庭園を散歩していた矢先に出会い、他愛もない会話を交わした時を思わせた。
ゆるり、レースの手袋をした手を誘うように差し出す姿は、一体何を思ったのだろう。
「そんなに怖い顔して嫌ね、セルキーのお兄さん。夜は始まったばかりだもの、フェーニと一緒に楽しく踊りましょう?」
「……ふん、断る」
対して端的に告げたのは、二本の剣を構える戦士だ。対面した姿たちの体格差はすさまじい。
……いや、体格差なんて関係ないか。だが、ふたりが対峙して生まれた緊張感に、俺は呼吸も忘れて動くことができずにいた。
その空気を破るように、レトさんが告げた。
「お前ら場所は解っているな? 時は稼ぐ。足手まといになるから、先に行け」
「あら、私だって今日は貴方とゆっくりなんてしていられないわ? だって兄様がここに来てい――――――あら?」
それに対抗するように彼女は微笑み、今にも歌い出しそうなほど弾んでいた声色は、不意にすっとんきょうな声を上げていた。俺とラズとを見比べた途端、不思議そうに小首を傾げていた。
「兄様……じゃ、ない? てっきり兄様がいらしたものだとばかり思ってフェーニ、張り切りましたのに……」
次の瞬間。トンっと、石畳を蹴った音だけが聞こえてきた。
「ではでは、あなた方は誰かしら? お仲間?」
「なっ……?!」
気がつけば、彼女は俺らの目の前にいた。
純粋に初速だけで、間に立っていたレトさんを抜いて、俺らとの距離を詰めたというのだろうか。
覗き込むのはラズの表情だ。咄嗟にラズの腕を引いて間に割れば、アメジストの双眸がこちらを見上げた。白魚のような細い指を、そのふっくらとした頬に添えてまた首を傾げる。
「あなたはヒューマンのだと思うのだけれど……変ねえ、変だわ? おかしいわ? その子は兄様ととてもよく似た匂いがするのに、兄様のような甘いお花の香りはしない。あなたは一体誰かしら?」
「うるさい」
不思議をまるで自問自答するかのように、一方的な言葉を紡ぐ彼女に、ラズが苛立っていることに気がついた。
後ろを伺うと、今にも掴みかかるんじゃないかって程に、ラズは彼女を睨んでいらっしゃる。何でもいいから口を開いて欲しくないと、そんな刺々しさすら感じてしまう。
「耳障りだから喋るのをやめてくれる」
何がそこまで琴線に触れたのかは解らないが、このまま彼女に関わらせるのはマズイ。そう判断するのに容易かった。
だから。
「ラズ、走れ!」
俺が咄嗟に出来たのは、ラズの手から聖水の瓶を奪って、彼女に向かって投げつける事だった。
一喝するような俺の声に、驚いたのは彼女とラズだ。ひったくった時に、ラズがビックリしすぎて固まっていたのには、ついつい笑いそうになった。
ほぼ、ゼロ距離状態で投げると同時に、ラズの腕を引いて灯台とは別の方角へと走り出す。今は彼女を振り切る事が先決だ。
後続のエンマは確認せずとも、飛び上がっているのを視界の端に見てとれた。問題ない。
女の子に向かってなんて事を――――なんて、言っている場合ではない。俺より遥かに実力が凌駕している相手に、『申し訳ない』なんて思っていたら俺が死ぬ。
…………現に。
「きゃあっ!」
なんて可愛らしい悲鳴を上げているが、振り上げた日傘で瓶を一刀両断していたのだから、意味が解らない。叩き割ったのではない、両断だ。「あり得ねぇ」 なんて、ついつい口をついて出た。
だが瓶を割ってくれたのは都合がいい。ほぼ原液の蒸留酒の聖水割り瓶を、彼女は計画通りに頭からかぶってくれた。
「くっさーい! 何よこれ、信じられないっ!」
ふわふわと舞っていた柔らかそうな髪も、まるで濡れ鼠のようにずぶ濡れて、その毛先にたっぷりと水分を含んでいた。しと、と、ドレスに染み入る。
残念ながらボディラインはコルセットによって変わっていない。サービスシーンはなしだ。……なんて。
日傘についた滴を振って飛ばすと、恨めし気な涙目がこちらを睨んだ。つい、舌打ちしてしまう。
「くそ、効かないのかよ!」
「フェーニは怒ったのよ、お兄さん! お気に入りのドレスなのに!」
どうせならば酔っぱらってくれれば良かったのに。明らかに彼女の闘志に火をつけてしまったのは解っているが、そうでもしないと距離を稼げそうになかった。
「穿たれてくださいな!」
追って来なかった彼女は、怒りを露にそう叫んでいた。刹那の事に反応したのは、やはりラズで。
「兄ちゃん!」
強く、腕を引かれて突き飛ばされたかと思うと、それの一部始終がやけにはっきりと見えた。
後方の上空から飛んできている、夕日を受けた白っぽくて長さのある何か。それが、さっきまで俺がいたところを線のように突き抜けていった。
また、だ。またこの白い弾丸のような、もの。
その線が流れて来た先を見上げて、初めてそいつの存在に気がついた。
やけに大きく、見慣れた骨格がそこにいた。翼膜のない翼を広げたその姿は、屋根の上で這いずるように着地した。
こちらに向けるのは空虚な眼だった。カタカタカタと、顎間接を嗤わせていた。その身体を動かす度に、ごりごりと、クッションのない関節の音がここまで聞こえてきてエグい。
生前は、恐らく飛竜だろう。半骨格標本を思わせる、生身の肉を削ぎ落としたその姿に目が釘づける。機能しているのか解らない、僅かばかりの腱や筋肉が、危なっかしくも骨を動かしている。
一個不思議でならないのは……、風を受ける翼膜もなしにどうやってここまで飛んできたのか。疑問でしかないが、差し迫ったこの状況、深く考えている暇はない。
――――スカルドラゴン、とでも言えばいいのだろうか? それともワイバンのアンデット化?
どちらにしてもふと過ったのは、どこぞのおっさん等から聞いたばかりの、ワイバンを使ってろくでもないことを企んでいる奴がいる、というあの話。
「逃がさないんだから!」
「こちらを忘れてもらっては困るな」
俺等を追ってくる彼女の姿は、再び立ち塞がった背中によって隠された。
その姿が上半身を捻って左腕を力強く奮って薙ぐ。ぶんっという音を伴った。
また短く金属が鳴いたかと思うと、白の尾を引く直線が折られる。
絶たれた残骸が、左の建物に向かって弾かれた。その時にはすっかり勢いもなくし、背後で石畳の上を滑って、空木が落ちた時のようなカラカラと軽い音を立てていた。
「あんたの相手は、こちらだ」
「ほんと、これだから貴方の事は嫌いなのよ! セルキーのおにぃさん!」
背中に遮られて姿は見えない。だが、金切り声に近い叫びは、高らかに告げた。
「皆、串刺しにおなりなさいな!」
その宣言を受けて動いたのは、例の骨竜の他ならなくて。建物の上からは、カカッカカカッカカ! ――――と、ひどく顎を打ち鳴らしていた。辺りにその音が伝わるほどに、空がざわめく。
明度を落としていく空は、本来ならば星々がきらめきを取り戻していく時間だ。一番星が輝き出せば、あとは皆が続くように億数の小さな明かりが目に見える、筈である。
…………本来ならば。
その空には、夜空が不自然に網目のように切り取られている。線で描いたような、不可解な模様に気が付いた。
それは、シルエットだった。
その姿が生き物だったら、水平線の向こう側でわずかに残っている太陽の光が、その瞳に今日最後の光を灯してくれたかもしてない。だが、その姿達には、照り返せるような瑞々しい部位というものは存在していない。
そう。気が付けば、先の夕暮れに見た鳥の群れに見間違った、骨の群れが空いっぱいに俺らを見下ろしているのだった。
俺らに逃げ場を与えないかのように表れたその骨ばった鳥たちは、次にくる指示を待って、虚ろな眼を向けてきて怖い。
「掃射されてくださいませ!」
「チイッ!」
カラカラカラカラと空が一斉に嗤う。同時に骨の鳥たちが、その場で縦回転を始めていた。
一体何を始めようというのか、なんて、考えるまでもなかった。
彼女の一言を皮切りに、ザアアッ……! と通りの端から強雨でも降り始めたような音が響いて来た。
いや、石畳をたたく音はもっと固い。雹でも降ってきたようなカツカツという音が断続的に始まって、俺らはますます追い立てられた。
時折、グシャッっという、いくつかのものの集まりを地面にたたきつけたような音がしてきて、つい、振り返ってしまっていた。
そこにあったのは粉々に砕けた鳥の骨の残骸で、それを見てようやく気が付いた。先ほどから俺らの命を狩ろうとしている白色――――あるいはきなりの何かの正体が。彼らが飛ばしているのは『骨』だという確信してしまった。
ネタさえ上がってしまえば、怖いなんて思うどころか、対処の仕様を考え始めた現実逃避。俺だけだったら最初の一撃で死んでいた、なんて考えるのも恐ろしい。
だから、なのか? 俺らだってただやられるのを待つ訳がなくて、気が付けば俺はラズに腕を引かれて走っていた。
「っ……、兄ちゃん捕まって!」
彼女からの距離だけでも引き離してしまえば、リードは俺からラズに代わる。正直今にも足の速さが合わなくて、転びそうだ。でも、逃げ切るためにこのおっそい足を懸命に動かしていこうと思う。
「逃がさないんだからあああ!」
背後から聞こえた声が怖い。いやまあ、怒られても仕方ないけど。酒ぶっかけたの俺だし。
捕まった時の事に思いが巡りぞっとしていれば、静かな声が背中を追った。
「全く、躾のなっていないやつはこれだから困る」
いつの間に移動していたのだろう。建物の側面を蹴り上げて骨竜へと向かっていく姿があった。
レトさんの姿についつい足を止めそうになる。
「行け!」
「はい、すみません! ありがとう!」
叱咤するような声に後押しされて、今度こそレトさんに背中を向ける。
加減をしてくれるラズの速度で駆けていると、視界の街並みが流れるようになった。同時に、ラズに強く腕を引っぱられて、空へと押し上げ投げられた。
流れ作業とでもいえばいいのか。しっかりと俺が掴むのは、エンマの垂れ落ちたままの手綱である。俺をある程度押し上げてくれたラズが下からそれを引いて、ぴんと手綱を張ってくれる。その間に、エンマの手も借りてよじ登った。
胃のあたりに感じたいつもの感覚にホッと息をつく。なかなか必死に登って汗が出るが、これで未だに向こうで怒っていらっしゃる彼女を振り切れるだろう。
後味? 確かに悪いけれど、皆がみんな逃がそうとしてくれて、その思いを邪険にする事は出来ない。
逃げるための言い訳? 知ってる。
そもそも足手まといにしかならないというのに、俺も戦う、だなんて口が裂けても言える訳がない。そんなの何か夢見ている阿呆の言うことだ。
非力が偉そうに威張るな、なんて聞こえてきそうだから、何も見ないフリ、聞こえないフリ。一気にエンマには上昇を指示してこの戦線から離脱してもらう。それが、俺に出来る唯一の事だと割り切った。
ラズが上がって来るのを待つまでもなくて手綱を手繰っている姿を一瞥すれば、ぐんぐんと遠くなる地面が見えた。骨の弾幕はエンマの飛行速度に追いつけなくて、打ち出された骨だけが飛んでくるも当たる筈がない。
だけれども――――。
眼下の光景に俺は、息を呑まずにはいられなかった。




