屍姫は月下に舞う .2
兵舎なんて戦士の縄張りともいえるところに、俺らみたいな他所者が入っていいのか。迷っていれば、内からレトさんに呼ばれて入らざるを得なかった。
「失礼、いたします」
どんな屈強な戦士が待ち受けているかと身構えて入れば、兵舎の中はがらんどうだった。それもそのはず。今は開戦に向けて皆が出払っているのだろう。
辺りに耳を澄ませてみると、広場の向こうから聞こえるヒトの指示や沢山の鎧のガチャつく音が、この兵舎を目指して集約して来ている気がする。ここを出る頃には、完全武装の戦士というものを拝むことが出来るのではないだろうか。
……いや、そんな事でわくわくしてしまうのは不謹慎だな。
不躾ながら、物珍しさにぐるりと建物内を見回した。殺風景な石造りの一間が奥まで広がっている。飾りっ気はない。あくまで駐屯の為の場所に見える。
壁に常設されたスコンスの上で蝋燭が静かに燃えている。よく見ればその火は断続的に小さく揺れていて、遠くからやって来ているものの規模を示しているかのようだ。
部屋の四分の一程度を占める、二十人は座れそうな大円卓はきっと、作戦会議の為に使われるのだろう。映画の世界のようで、またまた不謹慎にもときめいたのは秘密だ。
壁にはずらりと武器が並んでいて少し怖い。弓は一つずつ丁寧に壁の台に納められているというのに、ロングソードらしきものはオーク樽に雑多と入れられているのが見られる。……訓練用、なのだろうか?
その中でも壁際で異彩を放っているのが、この辺りの地特有と思われる、魚の骨――――ソードブレーカーのような『くし状』の剣よりも、やり過ぎなくらい大刃のノコギリもどきの数々だ。一つあたりの歯が、俺の手の平くらいの三角形で、それがずらりと一列に並んでいる。
……一体この地のヒトは、どんな化け物と戦って、あんな肉をえぐり削ぎ落としそうな剣を奮っていると言うのだろうか。こんなこと言っている場合ではないが、それが振り回されるところ、ちょっと見てみたい。
ついつい眺めてしまっていたら、円卓の向こうから何か転がし引きずっているレトさんに謝られた。
「引き留めてすまない。だが、奴らの姿が確認出来た以上、あちらも我々を見ていることになる。……あの女は鼻が利く。恐らく今出て行けば、真っ先に狙われるだろう」
「ええ?!」
矢継ぎ早にそんな事を言われて、驚かない訳がない。
ああ、戦いの事になると饒舌になるのかな、なんて。…………我ながら、現実逃避が空しい。
まあ、そうだよな、なんて納得する。
これから戦だって時に街を離れる奴がいるだなんて、どんな要人なのか気になるのは当然だろう。それが街のお偉いさんならば人質、伝令ならば応援や情報が洩れるよりも先に断つ。当たり前だ。
「手伝いますか?」
「いい。少し待て」
理由さえ解れば言われた通りにするのが得策に決まっている。兵舎の奥から、同じくオークで作られている樽を転がしてきた様子を眺めて待った。
それは一体なんだ? なんて首を傾げていたら、レトさんはその樽の上蓋を、納刀したままの片手剣の柄で叩き割った。ばきっと軽い音が響く。
「っ…………!」
途端、反動で中身が飛び散り、香ったのはアルコールだ。オーク樽にアルコールと言えば間違いない、蒸留酒だ。
え、今から景気付けですか? ……なんて。流石に違うことくらい解る。
酒の臭いから逃げるように離れていると、俺らに構うことなくレトさんは酒樽に聖水を開けた。
「かさ増しだ。あれしきで足りるほど、奴等の手勢は少なくない」
「かさ増し……ですか」
ポカーンとしてしまった俺らに教えてくれると、身体の中から清められる酒、なんて言葉が過ってしまう。我ながらアホである。
レトさんは俺のどうでもいい思考回路の事なんて露知らず、聖水が入っていた瓶にまた、中身を満たして蓋を閉じていた。
「持っておけ。気休め程度の量だが、無いよりはマシだろう」
「あ、はい。ありがとう、ございます……」
手渡されたものを受け取って、そのキッツいアルコールの臭いに眉を潜める。いや、不満がある訳じゃないが、この緊急事態に酔いそうで嫌だ。
これ、少し飲んでおけば酔わないかな? ……考え方が稚拙過ぎて浄化される、なんてあった日には笑えないなぁ。
この聖水入りの酒のやりように困っていれば、ざぶんと何かが沈む音がした。見れば、帯刀していた片手剣二本を鞘ごと樽に沈めているレトさんがいて、三度驚かされたのは言うまでもない。
「レトさん、それ……!」
「厄除け。これが一番手っ取り早い」
いや、俺としてはそんなのに浸けたりして錆びないの?! っての方が気になるのだが。レトさんの頭の中は、既に戦闘の事に傾きつつ有るらしい。一々塗布している暇があるなら浸けてしまえ、だなんて、発想がワイルドすぎて何も言えない。
……いや単に、俺にいま一つ緊張感が足りていないだけなのかもしれないが。
「行くぞ」
瓶を受け取っても戸惑いを隠せなかった俺の腕を引いて、共々連れて兵舎を後にした。レトさん、武器のせいで酒臭い。酔って来たかも。今くらって一瞬視界が揺れた。やばい、俺、頑張れ。
「あの灯台が見えるか」
扉をくぐって開口一番、指し示された先は街の中枢にてそびえる塔だった。尖塔を彷彿とさせる、石の塔だ。その頂上部分は、太陽の光を受けてオレンジ色に染まっている。もう、開戦まで時間がなさそうだ。
「はい」
「その足元にある広場が、お前たちの目指すべき場所だ。――――案内しよう」
俺が頷いたのを確認すると、足早にレトさんは歩き出した。ラズに頼んでエンマを呼び、慌てて追ったのは仕方がない。
先に目的地を教えてくれたと言うことは、案内できなくなる可能性がある、と言う事だろう。気を付けた方がいいかもしれない。
広場には既にちらほらと人が集まっていた。武装し小隊を組む彼らは、代わる代わるレトさんに指示の確認に来たかと思うと、先の兵舎に消えていく。
まさか渦中に飛び入る事になるとは思っていなくて、乾いた唇を無意識に舐めた。指の先が冷えてきて、戦の実感はなくても『恐怖』は感じているようだ。
迫り来る、戦いの時。
そこに俺らは関係ないからって逃がしてくれようとしている周りの優しさが、チクチクと心の弱い部分を刺してきて質が悪い。気を抜けば、陽が沈むほどに濃くなる影の中から、悲鳴が聞こえてくる気がしてならなかった。
落ち着け。
俺に出来る事は、レトさんたちの邪魔にならないところに撤退する事だけだ。
余所見をすれば、振り切った筈のものが今更追いかけてくる。それに囚われるなんてもう、ごめんだ。
気が付かないように、振り切るように。前を行くたくましい背中を一心に見つめて、辺りでがちゃつく鎧の音も、会話も意識的に追い出した。
内側に、内側にと意識が向かっていく。遥か遠くにある背中でも追って歩いているような、ふわふわとした感覚がしてならない。……ああ、酔ってるのかな、俺。
実際は数歩先を歩いている背中を追っているだけだと言うのに、ふっと気が付くと、見えてきたのは、何だか夢の中を歩いているかのような、モノトーンの景色だった。
…………歩きながら夢を見ているのだろうか?
黒で塗りつぶされたような空の下で、廃墟の立ち並ぶ荒野を機械的に一人歩き、遠くの砂丘を目指してだた、歩いているかのようだ。
早く、早く、行かなくちゃ。
視界を占めているのは、鉛筆でぐしゃぐしゃと塗りつぶしたような、高く、大きな何かで。それにじっと見らているように錯覚している。
後ろから、俺が切ってしまったあのヒトが這いずるようにして追いかけてきている気がしてならない。振り返ってはダメだ。逃げるように足を速めているのに、ちっとも前に進めない。
早く、あのヒトが追いついて来るよりも、早く、先に。
でも、どこに?
自分のしたことから、逃げないって決めたのに?
うつろになった感情に疑問が湧けば、途端。今見えたものは何だったのかと、瞬きしてしまう程に、ざああっ、という音を伴って一瞬で景色が変わった。
空に、街並みに、逞しい背中に。鮮やかな夕焼けに浮かび上がる色が、戻って来た気がした。今のは本当に、夢でも見ていたのだろうか?
戸惑い、思考を巡らせていたら、どうやら無意識のうちにすがっていたらしい。
「――――――――ぅん? なんだエン……あ、悪い」
エンマに微かに背中を小突かれて、ようやく手綱を引き過ぎて歩いていたことに気が付いた。抱え込むように握っていた手綱を緩めてやりながらも、自己嫌悪でいっぱいだ。
女々しい、女々しい。情けない。
隣を歩いていたラズにまで心配されてかっこ悪い。
「兄ちゃん、大丈夫? ……手綱は僕が引いて歩くからさ、背中に乗っててあげて?」
嗚呼ほら、提案までされてしまった。些細なことだと言うのにすぐ落ち込んでいる自分が本当に嫌だ。見栄っ張り過ぎて虚勢が空しい。
意識から追い出した、夕焼けに照らされる建物の景色が、この目に戻って映り込む。ここを、俺は見なくちゃいけない。見ないといけない現実が、ここなんだ。
それほどの時間はなかったというのに、広場を抜けたお蔭で辺りに鎧をまとったヒトはいなかった。ガチャつく金属の音がしないだけでも、これほどホッとするとは思わなかった。
茜色に染まりゆく空は、黄昏時を連れて来た。それまで無機質でしかなかった単調な街並みを、あの青い都市とは正反対の、朱色の立体都市へと変えていく。
しんと辺りが静かなのは、恐らく戦闘に携わるもの以外というのが、船に避難して息をひそめているからなのだろう。何だか夕暮れを迎えた瞬間に、街が時間を止めてしまったかのようだ。
聞こえてくるのは、通りの向こうからの波の音だ。そしてどこかで上がった鬨の声、微かな地響き。それだけ。
本当に俺は渦中にいるのか。それすらも曖昧に思えてくるくらい、波の静寂さがこの空間を異質にしている。
この距離感で現実感が持てないなんて、どうかしている。現実だって思いたくないくらいに、俺は臆病なんだなって思い知る。
ラズの提案にも戸惑って、口をついたのは「けど……」 なんて、いつもの言い訳だった。困らせるって解っているのに、それでもまだ、強がって見栄を張ろうとする自分が情けない。
だが、そんなこと言っている場合も、すぐになくなった。
「……そうだな、君たちの見送りはここまでのようだ」
足を止めたレトさんは、端的にそう告げ空を睨みあげた。つられて空を見上げるも、何かが見える訳でもない。
それにもかかわらず、すらりとその剣を抜くと、気負った様子もなく構えていた。
正手に掴んだその刀身に左手を添えて、受け流すように空で緩く動かしたかと思うと、刹那。ギィン! と剣が鈍く唸った。
同じくして剣を打ち鳴らした白っぽい物体が、俺らの脇を抜けて、背後の石の家屋にめり込んでいた。砂埃が舞い上がる。
う、え? 今の何なの。
「相も変わらず手荒い挨拶だ」
溜め息混じりにレトさんは呟き、くるりと手首を返して上段に構えた。同時に、大きな鳥が羽ばたいた時のような、ばさりという音が耳に届く。
何かがレトさんの目の前に降って来た。
ギンッ! なんてまた、剣が鳴く。ころころと、鈴の音のような可愛らしい声が、どこからともなく笑っていた。
「きゃはははははっ! あーあ、残念っ! 失敗、失敗」
声の出どころは降り立った姿のようだった。その少女は、艶やかな紅の唇で不敵に笑った。手にしていた日傘を振って、撃ち合った勢いを逃がしていた。
見た目だけで言えばラズより少し上くらいか。とんとんと跳ねて下がると、それにあわせてラベンダー色の長い髪がふわふわと跳ねていた。ビリジアンのヘッドドレスに既視感を覚える。
ブーツがコツッと軽快に石畳を踏み鳴らしているところを聞くと、彼女の身のこなしの軽さを知った。刺繍が細やかなアイスブルーのドレスは夕日を受けて、髪と同じ紫に見えた。
内側にクリノリンでも履いているのだろう。まくれたすそをさっと払って佇まいを正される。
突然の姿に呆然としていれば、すそを引いて優雅に淑女のお辞儀をされた。驚かない、訳がない。
「ごきげんよう、セルキーのお兄さん? 会えない時間はいかがだったかしら?」
「あんたが来るまではすこぶる良かったさ」
「あら、それは何より♪」
うふっと可愛らしくほほ笑んだ彼女は天使のようで、その彼女が『夜の者』を率いているとは到底思えなかった。




