我らの愛しき姉御 .3
「いつも通りだ、エドラ! 派手にやるぞぉっ!」
山男のおっさんは一人、楽しそうに笑う。そのおっさんの一声を受けて『エドラ』が咆哮した。
「いっ?!」
それは、歓喜。何をするつもりなのか解らないが、そいつが辺りを伺う様子に、嫌な予感がしたのは仕方がない。
そして直後に見せたのは、闘志に火がついたような表情の違いだ。……俺が言うのも何だけど、先程とまるで雰囲気が違っていた。
それはエンマも感じたようで、咄嗟にエドラから離れる方向に飛ぶ。どんな事をされてもすぐに、対処できるくらいの距離を取る。
直後、エドラが明後日の方に火炎を吐いた。
「えっ?」
それは、一度では終わらない。二度、三度と繰り返し、そのすべてが俺らに向けられたものではなかった。前方から後方に薙ぎ、衝撃波と炎を振りまく。その高温によって生まれた風が、俺らのところまで強く吹き、そして抜けていく。
「あ」
同時に、驚いたような声がラズから上がる。
「風が消されちゃった」
「え?!」
まさかそんな事が起こり得るなんて、驚かない筈がなかった。追い上げる為に使ったラズの魔術が、こうもあっさりと打ち破られるなんて。しかも、ラズの魔術が、だぞ?!
すっかり気を取られていた俺は、ラズやエンマのような冷静さを欠いていた。故に。
――――ガクン! という、車と車がぶつかった時のような衝撃に、頭から放り出されそうになった。安全ベルトをしていなければ、確実に勢いのままに吹っ飛んでいた。
安全ベルトが腹に食い込む。頭の芯が揺さぶられて、首筋がいってえ。神経痛めて全身筋肉痛、鞭打ちもどきは避けられないな、これは。
「言っただろう?! ワイバンの魅力は力強さと速さだ、ってな!」
すぐそこの正面で笑うのは、山男のおっさんだった。漸く状況を見れば、エンマとエドラが取っ組み合いぶつかっていた。
エンマとエドラは鋭い爪で、互いの鱗を剥がさんばかりに掴みかかる。強固な角で、あるいは鋭利な牙で、互いの急所を抉らんばかりにぶつかり合う。
片や攻撃を仕掛ければ、片やそれを受け流して身体を捻り、宙を舞う。飛竜の身体のバランスを支える強靭な尾が、その度に鞭のようにしなってぶつかりあった。
その衝撃が、軽い訳がなかった。
まさかの肉弾戦にびっくりだよ。乗っているだけの俺の方が、受け身も取れずに余程身体が痛い。
目まぐるしく視界は流れ、体幹だけが、今自分が重力に対してどの向きにいるのか、辛うじて教えてくれる。……いや、どうだろうな。遠心力に振り回されているから、俺が『下』だと感じている方が本当に下なのか、よくわからない。
はっきり言おう。目隠しされた状態で高速回転高速反転する、ギネスに乗った某ジェットコースター張りの動きをされれば、何が起きているかなんて把握出来る筈がなかった。え○じゃないか、ええじゃ○いか! わっほい。わっほい。
……うん、あほだわ。
ふとした瞬間に、ただ遠心力と重力に振り回されているものが『酔い』に変わりそうで怖い。
ぼちぼち毛細血管も切れそうな気がする。指先がピリピリしだしているもんな。戦闘機のパイロットって、本当に尊敬する。
――――じゃ、なくて!
早く切り上げるにはやはり、フラッグを取りに行くしかない。
おっさんらが肉弾戦を仕掛けて来たということは、フラッグを取りに飛んでは勝てないと踏んだから、だろう。つまり、ここは戦って勝利をもぎ取る場合じゃない。
……ああ、そもそもエンマとエドラの間には種族差はなくとも性差がある。どんなに我らの姉御がたくましくて強かろうが、女の子なのだ。戦わせていい訳がない。
つか、この野郎。力任せとかざっけんな。モテないぞ。
こんなバカげた競争さっさと終わらせてやるために、一度遠くに視界を投げた。そうする事で、現在進行形に繰り広げられるこの大乱闘から意識を遠ざける。
相変わらず激しく振り回されて、俺自身が空中に飛んで行ってしまいそうだ。でも、それでも必死に、先ほど捉えたはずの姿を懸命に探すのだった。この、アホ臭い戦いに終止符を打つことの出来る確実なその手段を持つ、ウサギのお兄さんの姿を。
そしておっさんらの向こうの上空に、そのワイバン姿を見つけた。目測だから正確なことは言えないが、おおよそ三十メートルと離れていない。
おっさんのワイバンと違い、どこか品良く見えてしまうそいつの背中に、探していたウサギのお兄さんがいた。遠巻きながらも視線が合って、よく気が付いたなって微笑まれた気がする。
……なんだ? そんなにおっさんとエドラとしのぎを削るのは得策ではないって事なのか?
まあ、いいわ。
「ラズ、エンマ」
「うん? 何? 兄ちゃん」
「フラッグ、取りに行くぞ」
小さな声ながらもきっぱりと告げてやれば、了解! なんて笑われる。うん、多分忘れていたな?
「エンマ、受け流して戦線離脱。そしたらそのまま上昇。ラズはエンマの補助を頼む。ふたりとも、できるな?」
「おっけー、兄ちゃん!」
それはエンマもラズと同じ気持ちだったらしい。はじめはその気がなかったはずなのに、すっかり乗せられてしまっていたといわんばかりだ。
それまでは、勢いに勢いで対抗していたせいで、俺にまでガツンと衝撃が伝わって来ていた。でもそこから一転、いなし、躱し、受け流すような動きがエンマに増えた。それを余裕のなさと捉えたのだろうか、エドラの攻撃の手数が、かえって増えた気がする。
その分揺さぶられて気持ち悪い……なんて思ったのは、ここだけの秘密だ。
「なんだなんだあ? 食いついて来いよ青二才!」
「悪いけどおっさん! この勝負は勝たせてもらうからな!」
動きが変われば流れも変わる。何度目かのエドラの突進、それに対して身体をひねり、脇をすり抜けたエンマはそのまま一目散に上昇した。
「だっはっは! やるなあ!」
出し抜かれたエドラの咆哮と、おっさんの大爆笑が追ってくる。……なんで、そんなに楽しそうなんだよおっさんはさ?
まあいい、放っておけ。
自分を納得させて前を見据える。小さいくらいに見えていたウサギのお兄さんの姿が、あっという間に大きくなっていく。
……あ、れ? ここでふと思ったのだが。このままあのお兄さんのところに突っ込んで行ったら、飛竜三匹による大混戦にならないか? ……なんて。
まるで俺の心配事を見透かしたように、ウサギのお兄さんはワイバンの頭に仁王立って、迫る俺らにフラッグを掲げて見せた。……え? そこから奪うの?
――――なんて疑問に首を傾げた刹那。ウサギのお兄さんは、バトン回しのようにフラッグを回したあとに、その蒼穹に向かってぶん投げた。
「ええ?! 嘘だろ?!」
つい、声をあげて驚いたのは言うまでもない。え、いや、確かに今は接戦状態だけれどさ? ぶん投げるとかびっくりだよ!
投げられたフラッグを目で追って見上げたら、頭上で輝く太陽の中に入ってしまって目が眩んだ。
見上げすぎて、ベルトをすり抜け御者台から転げ落ちそうになったところをラズに支えられてしまう。ついその目を反射で瞑ってしまいそうになったが、まぶしさの中に動くわずかな点を見つけて、気が付けば声を上げていた。
「エンマ、上だ!!」
ここまで来て、負ける訳にはいかない。負けたくない。
「追うぞエドラァ!」
それはあちらも同じのようで、俺らをぴったりと追跡する形でついてくる。エンマの速さは群を抜いていると思っていたが、こいつもまた異様に食いついてくる。
お構いなしに、俺らはフラッグの落下地点に入りこみ上昇した。読みは正しかったようで、小さな棒はくるくると、風に煽られながらも落ちてきた。安全ベルト一杯に身を乗り出して、掴みに行こうとすれば、危ないから止めてくれと、ラズに怒られたのは仕方がない。
「僕がやるから、兄ちゃんは大人しくしてて!」
なんて、かえって張り切らせてしまったのは不可抗力だった。
早く決着をつけてくれようとしたのだろう。再び展開したのは、先程一度は打ち消されてしまった風の魔術だ。それにより、下降流を生み出した。
「これで、決まりっ……!」
だけれども。
「――――あ、嘘っ!」
うん。失念していたというか、なんというか。ラズの放った魔術が強すぎて、フラッグがあり得ない速度で落下して通り抜けていってしまった。
うん、まあ、なんか解っていたけどな。
後続のエドラがそれに反応して取ろうとしていたが、それも生憎、エンマがその鼻っ面に尻尾を叩きつけてご破算になる。
カッとなりやすい正確なのか、方向転換よりも先にこちらに突進してきて、エンマがそれをまたひょいと避けた。
「エンマ、フラッグは俺らが取る! 反転できる水面ギリギリまで落ちてくれ!」
俺らはすぐに、風に煽られて弾いてしまったフラッグをまた追いかけて、急上昇を急降下へと切り換えた。追って、エドラ達も肩を並べてきたのは最早仕方がない。
水面がぐんぐんと近づいてきて、気圧差に頭がくらくらしてきた気がする。
だが、それがどうしたというのだろうか。離着陸なんてぼちぼち馴れたものだ。落下したのだって、今まで一度や二度ではない。
だとしたら、だ。
安全ベルトなんてしている場合じゃない。また視界に捉えられる大きさになったフラッグは、すぐそこにあるのだから。
俺が自ら動かないで、俺が自ら手を伸ばさないでどうするんだ。そんな思いから気が付けば、ベルトを外してラズの隣に立っていた。回しきれていないエンマの首に腕を回して、自分の身体を風圧からどうにか支える。
飛ばされそうだ。
でも、あと少し。あと少しだけ。
それだけで、この手に届く。つい、手を伸ばせば、身を乗り出した事でラズに心配されて、服の裾を捕まれているのが解った。
けれどもお陰で、もう掴むことが出来る。
そう思った時だ。
「あっ……!」
ガクンッとエンマの身体が不自然に揺れた。
同時に、もう目の前で掴めそうだったフラッグがするりと抜け落ちてしまう。何が起きた?! なんて振り返れば、再三エドラの妨害でエンマの足を文字通り引っ張っていた。
くそっ、どこまでも可愛げのない奴である。
「このっ――――」
気がつけば一歩、引き留められたエンマから跳んでいた。
先の反動で手を離されていたのか、ラズに引き留められる事なくそれを追う。ごうっと、それまで守られていた分の風圧を受けて、何処かに飛ばされてしまいそうになった。でも――――。
「兄ちゃん?!」
ラズの驚いた声が聞こえたが、お陰で、俺の指にはそれが触れた。
今度は弾いてしまわないよう、しっかりとつかんでは、身体を捻って反転し、それをかかげて見せた。
――――刹那。
試合は終了したのだ。合図の為に上がった火柱に、心底ホッとした。
だが、うん。忘れてはいけない、この、直後。
ドボッと、背中から打ち付けるような衝撃に、肺から空気が出ていったのが解った。ゴボゴボなんて、泡が通りすぎる音がやけに耳についてくる。
反射のように息を吸ってしまい、水が気管に入ってきて酷く噎せた。でも、吐けども吐けども逆に水が口に、鼻に、入ってきて余計に悪化するばかりだった。
マズイ、息が出来ない。溺れる、マズイ! マズい!!
水の中に入ったせいか、心音が喧しいくらいに耳元で鳴っている。その向こう側で、俺がもがき暴れているせいでざばざばと音を立てている。口の中が地味にしょっぱい! そうだよね、ここ半分海だもんな?!
じゃ、なくて!!
え、ちょっとマジでこれ、やばいって。
死ぬ! え?! マジでどうしたらいい?!
肺に入り込んだ水を吐き出そうと身体は勝手に咳き込むし、咳き込めばそりゃ息を吸う。この悪循環、どうしたらいいんだっけ?!
何かに捕まれないかって振り回した腕が、実体のない強い流れに攫われる。
あれだ、そう、あれ! 動かなければ身体は浮く!
…………って、解っている筈なのに、水を吸った服が滅茶苦茶重くて身体にまとわりついてくる。
ついには水面がどんどんと遠ざかっているのが見えた。河の流れが、俺の自由を奪っていく。
ゆらゆらと光が網のように揺らぐところに、俺がかき混ぜた泡が光を受けてきらきらと輝く。ごぼり、また一つ、空気を吐いてしまった音なのか、水を飲み込んだ音なのか解らない。
ああ、意外ときれいなもんだなあ。なんて。
意識までもが水の奥底に引きずり込まれ、流されようとしたその時。ぐいと力強く襟首を引かれたのだけ解った。
目を開ける気力もなく。息苦しさすらマヒした微睡みの中、大河の流れだけが、聞こえた気がした。
…………けど、まあ。意識が沈みきるより前に、安らかな眠りなんてなかった。
「ぅげほっ?!」
どっと胃を叩かれて、もう、当然のように吐かされた。
……なんというか、されるがまま? キツく腹を殴られて、霞む視界が青空を映す水面をとらえた。
それも一瞬で、自分が吐いたもののせいで、青が乱されてぼやけてにじむ。
「げほっ! げほっ! ……ごふっ……!」
ちょ、ま。誰、背中叩いてるやつ! マジで痛い! 苦しい! っていうか肺に入ったらしい水が痛い!!
あり得ないあり得ないあり得ないあり得ない!
咳が止まらん、吐き気も同じ。
微かに残っていたらしい胃の内容物も水に薄まって、何だか解らないものが河の流れに流されていく。ぼんやりとその光景を眺めながら、何度も何度も咳き込めば、生きているのか、なんて実感がぼんやりと湧いてくる。
「おーし、よしよし! 一先ず大丈夫そうだな!」
ばしり、また一つ背中を強く叩かれて、今度こそ頭が転がり落ちるかと思った。
豪快な笑い声に吊られて漸く頭を上げると、散々競ったおっさんの姿がそこにはあった。
大丈夫か? と聞かれながら笑われて、こくり、大人しく頷く事しか出来ない。身体が震える。寒くて、喉や身体のあちらこちらが痛い。
「しっかしそこまでバカだとは思ってもみなかったな! だぁっははは! いや結構結構!」
再びの大声に、耳がキーンとしてくる。くらくらする。
なんだ、これは。え? 一体この一瞬の間に何があったんだ?
「兄ちゃん! 大丈夫?!」
また、耳がキーン。
慌ててやって来たその姿に突撃されて、俺の残り体力メーターほぼすっからかんだ。
「こら、坊主。あんま体力殺しにかかっていくなって。直ぐに意識も戻ったから、心配はいらないさ」
「ほんとに、大丈夫なんだよね!」
「ったく、しつこいな。そう思うんなら向こう行って、兄ちゃんの為に手伝いして来な、坊主」
おっさんにいなされたことが凄く不本意なのだろう。膨れっ面をさらしながらも、珍しくラズが大人しく言うことを聞いていた。え、驚きを隠せないのだが。
おっさんにとっては些細な事らしい。それでも心配が残るようなら医者にみてもらえ、なんて言われたが、この世界の医者ってイマイチ宛にならないからなぁ……。とは、言えない。
っていうか、これが前世なら真っ先にレスキュー呼んでもらうレベルだぞ?! まあ、いいけど!
「その……助けていただき、ありがとう……。助かった……」
「いいってことよ! お陰で良いもん見られたからな」
良いもんって、俺の河ポチャが面白かったのかね! そーだよなあ?! 流石にへこむぞ?!
「おうおう、そんな恨みがましい目を向けんなって。違うからな?」
何が違うんだよ。なんて食って掛かりそうになるよりも先に、最後まで話を聞けといなされてしまう。
そこには始終楽しそうだったおっさんの顔ではなく、神妙なものがあった。
「風の噂にしか聞いてねぇが、ワイバン使ってろくでもない事する奴がいるらしいかなら」
「俺らがそうだと?」
「初めは、な?」
にっといたずらっぽく笑われて、何だか悔しい気がするのは俺だけか。だから試させてもらった! なんて、悪気もなく言わないでほしいぞ、全く!
「けど、それだけワイバンの為に動けるんだ。バカには違いねぇが、性根の腐った奴では無いことは確かだからな」
「…………それ、褒めてねぇよな?」
「だあっはっは! なあに、拗ねるな拗ねるな! 俺とてお前くらいの時は、バカばっかやって生きていたからな!」
…………正直、おっさんなんかと一緒にして欲しくないのだが。
でもそれ言ったらきっと、ちょっと背中を押されてまた、水の中にダイブさせられることだろう。それは……ちょっとどころか絶対に嫌だ。黙っておこう。
上手く回らない頭でぼんやりと考えていてら、向こうの方からウサギのお兄さんがやって来ているのに気がついた。
「ダント、目が覚めたらこちらに連れてこいって言っただろうが?」
「おう、エッカ。わりぃな」
そこまで言われて漸く気がつく。いつの間にか、河の対岸に引き上げられていたようだった。
目の前で悠然と流れる河が、絶えずさわさわと音を静かに立てている。その様子だけ見ると、自分の身に起こったことも含めて全部夢に思えてくるから不思議だ。
「さて、ディオ、だったな。あちらで火に当たろう。侘びに飯をご馳走するさ。ジーズーの作る鍋は旨いぞ。身体が温まるしな」
「え……あ、ええと……」
「遠慮は要らねぇさ。お前らの仕事の事は、ラズ坊からあらかた聞いた。妙な疑い吹っ掛けちまって悪かったなあ……」
俺が戸惑っていれば、つらつらと話されて待ってもらえない。戸惑う俺に、お兄さんがくすりと笑うのであった。
「ダント、口上は十分だろう? さっさと火に当ててやらなきゃ、唇が真っ青で可哀想じゃないか」
「……っと、いけねぇ! じゃ、担ぐか!」
「えっ? ちょっと、え?!」
最後まで状況を理解できなかったのは俺だけだった。まるで祝いの席のようなお祭り騒ぎがこの後始まるだなんて、このとき一体どうして解ったのだろうか。
一先ず言えることは、おっさんらがワイバン好きすぎて有らぬ疑いをかけていたってこと。そして、……滅茶苦茶腹が減った、と言うことだ。
………………生きるって、お腹がすくのな。なんて。
シチューのような鍋は、滅茶苦茶旨かった。




